優しい歌を貴方に《前》:ローザン
その時は、あまりにも唐突にやってきた。
「母様、母様!」
「なあにローザン。どうしたの、そんなに慌てて」
「父様は明日お戻りになるんでしょう? やっぱり遅くなるのかしら」
「昼過ぎに帰ってくる予定よ? 一体どうしたっていうの。今回の行程に、占いで悪い結果は出なかったでしょう」
「う~ん……、そうよね。みんな問題ないって言ったものね。占いの出来ないあたしが気にすることじゃないか……」
「ローザン……?」
町から町へ、風とともに渡る流浪の民、ルマ。
ルマの一族は総じて霊力が高いことで有名で、他より霊力が高いシェルマスの民の中でも際立っている。また、就く職が独特なことでも有名だった。
霊力が高ければ、多くは五大職の吟遊詩人に就く。しかしルマでは楽器を奏でたり歌を吟じたりするのは、古来より男性の役目。この職に就くルマの女性は稀で、ほとんどが占い師か踊り子を選ぶ。そのため女性は幼い頃から、両方の修練を積むのが慣わしだった。
現在、族長であるベルンは、シェルマスのとある有力者に謁見するため、数人の供を連れて一族と行動を別にしていた。
その長女であるローザンは、今年で九歳。三年後には成人の儀を迎え、大人の仲間入りをする。そして同時に、次期族長として様々な洗礼の儀式も受ける。
通例では男子が族長となるが、長男であるユヒトは末子で、去年生まれたばかりの赤ん坊。長子のローザンは女とはいえ、族長としての資質に何ら不足はない。そのため、次期族長の決定に誰も異を唱えなかった。
「目が覚めたら、なんか嫌な気分になっただけなの。変なこと言ってごめんなさい。じゃあ」
「お待ちなさい」
「え?」
今は夫の代わりに一族を率いるローザンの母、ロザリアが口を開いた。
「確かにあなたは占いができないわ。けれど、事象をつかむことで、あなたに勝る者はいないでしょう」
「ま、まあ、そうだけど……」
占いは過去や未来、様々な事象を対象とするが、まずはその事象を『つかむ』ことから始まる。そのつかんだ事象を手繰り寄せることで、初めて『結果』を得るのだ。
ローザンは占いの第一段階、事象を『つかむ』能力はずば抜けていた。その能力は大人顔負けで、どんな曖昧な事象でも必ずつかんだ。
しかしローザンは、占いができない。それはつかんだ事象を、どうしても手繰り寄せられないためだ。
例えるなら、誰も探し出せない細い糸は見つけられるのに、誰もが簡単に手繰り寄せる太縄でさえ、なぜか途中で手放してしまう。
そのため占いの根源的な動作、『結果を伝える』ということができないのだ。
「あなたは他人に結果を伝える力を持たないだけ。漠然としか浮かばないから、あなたも困るのだろうけど……。これは由々しき事態なのかもしれないわ」
「ゆ、ゆゆしきってどういうこと……?」
緊張を滲ませたロザリアの声に、ローザンは怯えを漏らした。
次期族長であると日頃から意識して、大人びた言動をとることも多いローザンだが、彼女とてまだ九歳。幼い子供なのだ。
「由々しき、とは何か問題があるかもしれないということよ。……もう一度、占わせてみたほうがいいかもしれないわね」
「母様、本当?」
「ええ。あなたは私の娘、次代の長。私はあなたの言葉を信じるわ」
「ありがとう!」
こうしてロザリアの号令の下、一族でも優秀な占者たちが集められた。
「悪いわね、みんな。やり直しなんかさせてしまって」
「気にしないで、ロザリア様。ローザン様の『つかむ』力は私たちの上を行く」
「ええ、だからローザン様が言われたならば、やり直さなければ」
最も幼い者は十二歳、最年長は七十を越える女たちは、通称『占者の輪』と呼ばれる。
彼女らは自分たちの面目を潰したローザンへの妬みはなく、まるで仲良し主婦のお茶会かと思うくらい底抜けに明るかった。
「……ローザン様、来ないんですか」
もそり、と静かに口を開いたのは若干十二歳でこの輪に加わることを許された占者、マオだ。
「あの子は踊りの稽古中よ」
「そうですか……」
神秘的、というかどこか浮き世離れした雰囲気のマオは、いつも占いの世界に没頭していた。
そのマオを唯一『親友』と称したのは、後にも先にもローザンだけであった。
活発なローザンと物静かなマオは、どうみても対象的な存在だった。ローザンは族長の継嗣であり、将来は本職に踊り子を選ぶだろう。何せ占いが出来ない。
対してマオの父親はようとして知れない。母親はルマだが、一度はルマを離れた。だが、ある日突然、赤ん坊のマオを抱いて帰ってきたのだった。そうして父親のことを何も話さないまま、五年前に息を引き取った。それを境とするかのように、マオは類い希な占者としての才能を開花させ、今に至る。
「……稽古が終わったらローザンも来るわ。だから貴女も頑張ってちょうだい」
「……はい」
滅多に自ら口を開かないマオが、ローザンのことを尋ねる理由がロザリアには分かっていた。
一族はマオを受け入れたが、本当の意味で『受け入れた』のはローザンだけ。だからマオはローザンだけに心を開いた。誰よりも繊細な心と力を持つ少女だからこそ、敏感に感じ取って。
「族長に何かあったら大変だものね! さあ、ちゃっちゃと占いましょ!」
取り分け明るい女性が声をかけ、占者一同が頷いた。
「ではどの術法でやるかえ? 出立の時は星占いじゃったの」
「星は真実を告げてくれるけど、大きな流れだけだわ」
「なら風読みは?」
「気まぐれ過ぎる。族長の『今』を知るなら最適だけど」
「じゃあ……」
占いの方法は、それこそ星の数ほど存在する。術法と呼ばれるそれは、一つ一つ、占う事象に最適なものを選ぶ必要がある。
「……火占いが、いい」
ポソリと、下手をしたら聞き逃してしまいそうなくらい小さな声で、マオが呟いた。
「火占い!?」
「だけど、あれは……!」
ざわざわと占者たちに動揺が広がる。
火占いは術法の中で、その正確さと比例して、最も困難で危険な方法なのだ。
「マオ、なぜ火占いがいいと思うの?」
場の動揺を鎮めるため、ロザリアが言葉を発した。
マオは周囲の反応を気にすることなく、淡々と考えを告げる。
「火占いは、ローザンと相性がいい。ローザンは風に愛されてるから。それにローザンが拾った事象は、今回もローザンが拾ったほうがいい」
抽象的なことしか言わないマオだったが、この場にいる占者たちは一流の者ばかり。すぐにその意味が理解出来た。
「そうね、ローザン様は風使いの素質も高いし」
「火占いは風の力があると、正確さが増すものね。風読みよりいいわ」
「それに事象を掴むのはローザン様の得手ですもの。誰かお手伝いすれば確実よ」
火占いが一流の占者さえ戸惑わせる、最大の理由。それは事象を掴む時、占者に危害が及ぶ可能性があることだ。
だが、事象を的確に、かつ素早く掴めば、火占いは最高の術法だ。
「しかし火の中に手を入れるのじゃ、流石のローザン様も拒まれるやもしれん」
「……ローザンは、やる」
普段は人に反した意見など言わないマオが、珍しく強い語気で反駁した。
「ローザンは風の子。風の力で、火を従える」
大人たちは例外なく、マオの言葉に瞠目した。
ルマは流浪の民――風の民とも呼ばれる一族だ。
定住しない彼らは、古来より謂れなき迫害を受けてきた。しかし風のような気ままさと、それでいて誇り高い彼らは、一処に留まるのを許さなかった。
しかし、今は違う。国家という力が完全となった今、昔のような流浪は許されなくなったのだ。
シェルマス国内を巡ることは許可されたが、それはルマを想っての法ではない。余計な軍事力を割きたくなかったことと、ルマを利用する思惑があったからにすぎない。
そんな思惑から出来た穴だらけの法は、長が行く先々で有力者に頭を下げ、許しを乞わなければならないという、屈辱的な状況を作り出した。
「風の子……。そうじゃな、ローザン様は風の神に御加護を受けて生まれた子。余計な心配はいらんの」
ローザンが生まれたその瞬間。ルマの風使いは一人残らず、無風だったのに『風が吹いた』と勘違いしたという。
また、ルマの隠語では自由気ままに吹く『風』はルマを指し、力はあってもその場から動けかない『火』は定住民を指す。
マオはその隠語を意図したわけではないが、大人たちを黙らせる結果となった。
つかの間の――夢を見させたのだ。
「……。そうね。みな、火占いへの意見は?」
ロザリアの言葉に、女たちは一様に首を横に振った。全員が賛成、ということだ。
「では、火占いの用意を。規模はどうしましょうか?」
蝋燭の火から巨大な焚火まで、火占いはその規模も悩みの種だった。
いくらローザンと相性がいいとはいえ、ローザンは占いが『出来ない』のだから。
「――山組がいいじゃろう」
先ほどまで火占いに賛同していなかった最年長の占者、ソキヤが言った。正真正銘、風だったルマを生きた、最後の『ルマ』だ。
そのソキヤが言った山組とは、ルマが扱う火占いで、最も大きな規模を指す。
「ソキヤ、山組で大丈夫かしら?」
「ローザン様だけなら危険じゃろう。ワシらも力を貸しましょうぞ」
「私も……やる」
「マオ」
他の女たちは言葉に出さないものの、笑顔でロザリアを見つめていた。
(仕方ないわ)
本当は娘を危険にさらしたくない。だけど、これが上に立つ者の務め。
「では、山組の準備を!」
ロザリアの号令に、全ての占者が頷いた。
しばらくの後、踊りの稽古を終えたローザンが母のいる天幕に向かうと、そこは慌ただしい雰囲気に包まれていた。
どうやら占者の輪は終わってしまったらしい。これではマオには会えない。
(マオったら、すぐどこかに行っちゃうんだもの)
しかし、それは珍しく杞憂に終わった。マオが残って母と話していたのだ。
「マオ、母様! 占いはどうなったの?」
ローザンが二人に駆け寄ると、そこには思いがけないものが用意されていた。
(これ、火占いの……!)
火占いに必要な占具、慌ただしかった天幕の外、そして話し合っていた二人。
「……火占い、やるのね。あたしもやっていいんでしょ?」
「そう。ローザンが中心」
「わかったわ」
火占いなら、自分も力になれる。マオたちが力を貸してくれるなら、怖いものはない。
「今夜行うわ。心の準備をしっかりとね。……例え良くない結果が示されても」
「……。わかってるわ、大丈夫よ母様。あたしだってルマの女よ」
未来に怯えたら、占いなど出来ないのだ。
恐怖をなくすために未来を知るのではない。知ってしまえば、それこそ最大の恐怖だ。知るのはただ、少しでも立ち向かう力を得るため。
夕方になり、野営地の真ん中に焚火が用意された。腕どころか人一人は容易く飲み込む大きさ。これが山組だ。
一歩間違えば、占者の命をも奪う。
「よーし、いくわよ!」
だというのに、命を危険に晒すローザンには、恐れをなした様子がない。
それは過信でも慢心でもない。また、確信からでもない。『何をすべきなのか』が、分かっているからだった。
ローザンは幼いながらも確実に、淡々と占いの手順を踏んでいく。仲間に不安を与えないよう、明るく振る舞う健気な娘の姿を見て、ロザリアは自分のほうが恐れをなしていたことに気がついた。
(神よ、風の神よ。……どうか、護りたまえ)
幼き娘を。一族のために膝を屈することを余儀なくされた長――夫を。
やがて日が沈みかけ、火占いが本格的に開始された。禍々しいくらいに赤く染まった夕陽を背にして、ローザンが山組の前に立った。その周りを占者の輪の女たちが、ぐるりと囲む。
「来れ火の神よ。巡れ風の神よ。声を届けたまえ、辿る未来を見せたまえ!」
ローザンの呪文を占者たちが繰り返し、力を何倍にも膨れ上がらせる。
風が喚ばれ、火をさらに大きくしようと天高く巻き上げていく。
「来れ火の神よ――」
再度の呪文詠唱。これを終えたとき、ローザンは火に、いや炎にその身を投げ出すのだ。
だが、その時。
「ローザン!!」
天高く舞い上がっていた灼熱の炎が、喚ばれた風に逆らって、中心の術者のローザンを飲み込んだ。
自分の名を叫んだ誰かの声を最後に、ローザンの意識はそこで途切れた。