紅の月《終》
ここはアスケイルのとある山中、賢者の塔。
見事な黒髪を頭の上で一つに結った少女が、白銀の髪の男性から一本の杖を受け取った。
「これがあれば心配は要らない。特上の魔精石だ。余分な魔力を抑えてくれる」
「はい、ありがとうございます」
少女はリネアだった。
――あれから、既に七年の時が過ぎていた。この七年で更に美しく成長したリネアは、十才で準修士となり、魔法使いを修めていた。それはシャルーランに次ぐ快挙であり、異例でもある。
また、師の賢者シャルーランは年を重ねるごとにその知謀を冴え渡らせ、史上最強の賢者として人々の話題の的となっていた。
しかし彼にリネアという弟子がいることは世間には知られず、また知る者も決して口外しようとしなかった。
「師匠、今までお世話になりました」
「ああ、元気でな。いつでも連絡しなさい。待っているから」
その言葉に微笑みだけを返し、リネアはシャルーランに背を向け、広い世界へと旅立っていった。
これからは、長くつらい旅が始まるのだ。己の誇りと魂、世界の存亡を賭けた旅が。
「……元気で、な」
今日もまた、一陣の風が吹き抜ける。
あの日からリネアは修行に明け暮れた。得手とする魔法だけではない。もう一つの強大な力である法術、または体術や剣術などの様々な武術も学んだ。その他にも賢者シャルーランが持つ知識を、それすら不足と思えば、持てる人脈を駆使してリネアに全てを伝えたのだ。
あの日より前でも、もちろん魔法以外の修業も行っていた。しかし、あくまでも基礎のみであり、あの日から修行内容はその様相をがらりと変えた。
単に質や量が増しただけではない。それまでの『学ぶ』余裕が消え、血反吐を吐きながら、狂う一歩手前まで己を追い込んで、頭と身体に全てを叩き込んだのだ。
覚悟を決めたリネアは、決して泣かなかった。リネアは友の血の海に沈んだあの時が、脳裏に焼き付いて消えない。自分が殺した、優しい少女の姿。
すべてはあの日の誓いのため。生きるために。
シャルーランはあの事件の翌日、リネアに全てを話した。魔王と天王の娘の出会い、二人の幸福な時間、そして別れ。世界を巡る話は、とても壮大だったが、全てを理解したリネアは、ただ一言を述べた。
「私は……、行きます」
自分は狙われている。世界最強のシャルーランと共にいれば、そう簡単に相手も手出しはしない。でも、ここには居られない。守られてばかりでは駄目なのだ。先に進み、真実を知らなければいけない。
そのためには、旅立ちまでに強くならなければならない。
強い意思を取り戻したリネアの瞳を見て、シャルーランは胸の痛みを押し隠して頷いた。
リネアはいつか旅立たつ。それは予期していたことだった。
賢者の位を得たとき、初めて手にした『界王の書』。そこに記されていたのは、界王の剣を得た者が『魂を共にする仲間』と世界の歪みを正す、という予言であり未来で、真実。
その七人の仲間も、抽象的ではあるが、きちんと一人ずつ記されていた。その中の『二極の狭間にある者』がリネアでなければいいと、リネアに出会ってから、どれだけ願ったことか――。
だが、もう世界は歪みきっている。皮肉にも、禁忌の子こそ、その証だ。界王の剣も、すぐに目覚めるだろう。
リネアが決意した瞬間は、これまでの夢のような、ぬるま湯のような、そんな穏やかな生活が音を立てて崩れ去った瞬間だった。
旅立ったリネアが見えなくなるまで、シャルーランは塔の入り口に立ち尽くしていたが、ふと、七年前のことを思い出し、思わずため息をこぼした。
――あの夜。リネアを塔の自室に寝かせた後、シャルーランはルゥの両親に会いに行った。だが、それは真実を伝えるためではない。
「森に迷い込んだ魔物を私が倒しましたが、御嬢さんを助けるのは間に合いませんでした」
と言い繕うためだ。そのために、適当な魔物を殺して犯人役をでっち上げもした。
何もしていない魔物の命を奪い、泣き叫び悲しむルゥの両親の隣りで、嘘を重ねた。リネアのためだと思えば良心の呵責など無く、すんなりと事は運んだ。
せめてもの哀れみで、ルゥの遺体は怪しまれない程度に繕って返したのも功を奏したようだった。流石に、細切れの肉片と生首を両親に見せるのは忍びなかった。
だが、今になって思う。あれで正しかったのだろうか。リネアにも嘘をついたのだ。自分が真実を話したから、お前は行かなくていい、と。
あの時のリネアの表情を忘れられない。ほっとしたような、悲しみにくれたような……。
ただ、シャルーランにこの嘘を正す気はない。この先、一生だ。リネアの悲しみが、大きくなることだけは確かだから。
例えその先に光が待ってようとも、これが一時の悲しみであろうとも。
(……。リネア、本当は分かっていたのだろう?)
私の愚かな嘘にすがってしまうくらい、絶望の淵にいたお前でも。いや、そんなお前だからこそ。
「……師匠?」
聞こえるはずのない、シャルーランの声を聞いた気がして、リネアは後ろを振り向いた。
リネアは今、塔のある山からの風を受けながら、街道を歩いていた。
――七年前の、あの日に思いを馳せる。自分が奪った命、犯した罪。消えることは無い。忘れることも無い。胸にしっかり刻み込み、前に進むだけ。
たった一つ、救いはある。それは惨劇から一夜明けた朝、シャルーランが約束通り全てを話してくれたことだ。
「魔王とは賢者になる前からの友人だ。最初に渡った世界の界王で、年齢が一緒だったこともあって仲良くなったんだ。魔法使いはすでに修めていたしな」
その縁でリネアを預かったが、賢者とはいえ、民に界王の血族を預けると騒ぎになるので、人王に一時的に預けたこと。本来ならば一年だけの約束が、魔王と連絡が途絶えたことで現在まで続いていること。本来、血族は界王力を抑える界王石を一歳の誕生日に身に着ける習わしがあるが、このためリネアの手には石がないこと。
また、魔王が我が子を手放した理由。それはリネアを守るためであった。魔界ではリネアの法力や頬の紋様により、禁忌の子だと一目で判別できてしまう。父である魔王は、我が子に常日頃から忌み嫌われるような、凄惨な暮らしを送らせまいとしたのだ。人界ならば、特殊力の多さはみんな違う。リネアのような魔力の偏りも、ただの「珍しさ」にしかならない。
それからシャルーランの知る限りの、父母の話。賢者であるシャルーランは、他世界の界王という枠組みを超えて、多様な友好関係を築いていた。
最後に、リネア自身の力の強大さを。
「お前のもつ界王力が暴走すれば、簡単に世界が消し飛ぶ。反発しあう二極の血のために、その力は容易く暴走するだろう」
そう話した直後、リネアはシャルーランの強力な魔法によって、今までの姿、黒髪黒眼に戻った。本来の姿とともに、界王力はシャルーランの全力で――けれど一度目覚めたために、今までより格段に弱く――封じられた。
ただ、正確には魔法で色が変わったのは瞳だけである。髪と瞳の色は界王の血族である証。それを二つも変えることは、賢者とて不可能であった。そのためシャルーランは己の一部を捧げることで、リネアの髪色を変化させたのだ。よってリネアが本来の姿を取り戻せば、シャルーランの白髪も本来の黒髪に戻る。
また、特殊力は攻撃面に優れた魔力だけを用いていたが、それすら強すぎて、成長に従い抑える必要が生じた。
その鍵となる石こそ、魔精石だ。これは魔力を抑え、自身に溜め込んで昇華させる性質がある大変貴重な石。シャルーランが友人であるアスケイル王から譲り受けたものだ。
紫色に輝く石に指を這わせながら、リネアは空を見上げた。
(……ルゥ)
やってみせる。この世の歪み、必ず正す。
そのためには、まず。
『仲間を探しなさい。最早この世は歪みきった。ならば界王の剣を得る者が必ず現れる。その者のもとに、在るべき仲間が集うだろう。その魂を共にする仲間と共に、世界を巡りなさい』
師匠が告げた言葉どおりに。
(ルゥ、見ている? 私は生きている。私は進むよ。あなたのためにも、自分のためにも)
やがて、小さな町が見えてきた。自分を幼い頃から世話してくれた人たちが暮らす、最も馴染み深い町。
――恐らく、二度と訪れまい。
自分はもう旅立った。戻ってしまえば、それは何かから逃げたことになる。
(私のいる場所、帰る家は……どこにもない)
シャルーランは自分を愛してくれている。自分が賢者の塔に戻れば、喜んで迎え入れるだろう。
けれど、違うのだ。
あそこは旅立つべき場所。鳥が巣立ちをするように、二度とそこには帰れない。戻っても、帰らない。
もちろん寂しい。けれど自ら退路を断たなければ、苦しさから歩みを止めてしまうだろう。
(師匠……。行って参ります)
もう一度心の中でシャルーランに別れを告げると、リネアは足早に町へ向かっていった。
『世界がお前を否定しても、運命はお前を生み出した。その意味はお前が作り出せ』
真実が告げられた朝、シャルーランが言ってくれた言葉を胸に抱きながら。
――旅立ちから三年後、リネアはアスケイルのとある町で、町に被害を与えるという魔物の存在を知った。
本来ならば森の獣を食料とする小型の魔物だ。これも世界の歪みがもたらしたもの。逃げ切れない義務感から、リネアは魔物を追い払うため、一人で夜の森に入って行った。
そこで出逢う。運命をともにする仲間、二人の青年に。
一人は金の髪で、いかにも純朴そうな青年。不釣合いな剣を佩き、魔物に立ち向かっていた。もう一人は黒髪の精悍な青年だ。武闘家らしく、素手で魔物に対していた。
しかし、二人は魔物に押され気味だった。リネアは簡単な魔法で金の髪の青年を救うと、術の足手まといだと判断し、迷わずそう告げた。
「ここは私が引き受ける。退いてくれ」
青年たちはほとほと魔物に困っていたらしく、すぐに言われた通り森を出て行った。しかし魔物を追い払ったリネアが森を出ると、何故か青年たちがそこで待っていたのだった。
「さっきはありがとう。数が多くて困ってたんだ」
「礼はいらない。では」
どうやら彼らは、礼儀正しく、助けたリネアに礼を述べるために残っていたらしい。だが、リネアは余計な関わりを持つのが嫌で、すぐにその場を去ろうとした。
――が、突然、金の髪の青年が叫び声を上げた。
「あぁ! やばいよ、どうしよう!」
半分は勢いに飲まれた形で青年たちの話を聞けば、黒髪の青年が旅に出る許可を貰うため、二人で魔物を退治しに来たらしい。その魔物退治をリネアがやってしまった、という訳だ。
困り果てた青年たちの様子を見て、リネアは言った。
「ならば私に手伝いを頼んだことにすればいいだろう」
――極力、人と関わらないようにしてきた自分が口にした言葉に、リネアは心の底から驚いた。
ただ、その言葉に大喜びして、やった、とはしゃぎ回る青年たちに、嫌悪感は微塵もなかった。だから、それが自ら協力を持ち掛けた理由なのだと、その時は思った。
やがて町に戻り、黒髪の青年に旅の許可が出ると、金の髪の青年がリネアに声をかけてきた。
「ねぇ、僕達と一緒に旅をしない?」
「断る。他をあた……」
他を当たれ。そう言うつもりだった。得れば失ってしまうから。もう、二度とあんな思いはしたくなかったから。
その時、ふと青年の剣がリネアの目に留まった。
――この形、伝え聞いたあの剣、その物だ!
「そうか、この剣。お前が……」
興奮のあまり、つい口を滑らせてしまった。
でも、見つけた。界王の剣を得た者を、やっと。
(……ルゥ、見つけたよ)
その後の会話は、興奮していたせいで、ろくに覚えていなかった。
――数日後、リネアは二人と旅を共にしていた。
「リネア、町が見えたぜ」
黒髪の青年、セルグが話しかけてくる。金の髪の青年アルフォンスも、乗り合わせていた馬車の荷台から顔をのぞかせた。
「さ、行こうか!」
やがて旅を続け、得た仲間は七人。総勢八人の賑やかな旅を続け、ついにたどり着いた。
「ここが……」
誰からともなく、ため息が漏れる。見上げてもまだ果てが見えない、巨大な扉。これをくぐれば他世界に行ける。果ては、界王の間へ。
――まだまだこれからだけど。やっと自分はここに来た。これから始まるんだ。
「リネア、行こう」
――今、自分に声をかけたのは誰だ? 遠い記憶の彼方に、私はこの声を聞いた。
「何やってんだ、行こうぜリネア」
「……ああ、今行く」
この扉をくぐって、次の光が見えたなら。天国のあなたは、きっと優しく微笑んでくれる。遠い記憶の彼方で、笑っていたように。
(そうだよね? ルゥ)