紅の月《参》
※この話には残酷な描写が含まれます。ご注意ください。
繰り出される強力な妖術の数々。その攻撃をリネアは、何とか結界を張ることで防いでいた。魔力は流動の性質を持つ力だ。攻撃術には最適だが、結界術には不向きなうえ、リネアも結界術が得意ではない。
しかし、背後の存在のため、リネアは結界に全魔力を注ぎ込みつづけた。
男はそんなリネアの姿を見て、理解できない、と言いたげな表情をしていた。
「そのような者、捨て置き下さい。時間が無いのです。もう一度だけ聞きます。……我らのもとへ、来て下さいますね?」
「ふざけるな! ルゥは私の大事な友達だ、お前になど着いていくものか!」
「トモダチ……ですか。無用ですね」
男は二人から数歩離れた場所から、より一層、攻撃の手を強める。妖力の枯渇は一向に感じられない。
それもそのはずで、男は自身の妖力だけでなく、この場に眠る妖力をも駆使して術を放っていたのだ。月下草とは妖力を行使する者にとって、妖力の補給場の目印であった。
怒涛の攻撃が四方八方から繰り出され、リネアの結界も段々とその役目を果たせなくなっていた。
「終わりにしましょう」
男は右手を高く上げ、新たな呪文を唱えた。そこには巨大な光の玉が生じ、強大な力が凝縮されていることは一目で理解できた。
それを無言で二人に投げつけると、耳をつんざくような爆音と共に、大量の砂塵が舞った。男は砂塵が晴れるのを待って二人に近づいたが、寸前で歩みを止めた。
「……防ぎきるとは……。流石としか言えませんね」
結界はすでに失われていたものの、二人に目立った怪我は無かった。リネアが最後の力を振り絞り、なんとか攻撃を耐え抜いたのだ。男としては、リネアがボロボロに傷ついて地に伏しているもだろうと思ったのだが――。
「期待以上ですが……。残念です。拒まれるなら、死んでいただくしかない」
男の右手に再び光が集った。
それを見て、リネアは悟った。――もう、防げない。
右手を強く握る。よくわからないけど、自分のせいでこんなことに巻き込んでしまった少女の手を。きっと怨まれる。当然だ。
だけど。
「リネア、ごめん……」
――謝るべきなのは、自分なのに。
そんなリネアの動揺を知らぬまま、ルゥは泣きじゃくりながら言葉を続けた。
「私、がっ……。こん、な場所、見つけ、ちゃっ、たから……。リネアを、連れて、きちゃっ、たから……!」
――繋いだ右手が温かい。この温もりを、失ってなるものか。
「うわあぁぁあああ!」
極限まで振り絞った力を、さらに。生きる余力すら投げ出す魂の絶叫とともに、リネアの中の何かが弾け飛んだ。途端に、魔力の残滓も残っていないと思われたリネアの体から、巨大な火柱が立ち上った。それは天まで突き抜けると、雲の上から炎龍となって男に襲いかかった。
「まだこれほどの力を残しているだと……っ!?」
男は慌てて右手の術を龍に投げつけたが、炎龍には何の効果も無い。光はむなしく炎に飲み込まれていった。
炎龍は男を飲み込み焼き尽くさん、と口を開けて襲い掛かるが、男も負けてはいない。すぐさま呪文を詠唱して、地下の水脈を探り当てた。
「ここまでだ!」
水脈の上で術を使い、水を地上に導く。己をいざ飲み込まんとする龍の喉もとに、巨大な水柱を命中させると、一撃で炎龍を滅した。
「あなたには本当に驚かされる……」
男も相当体力と妖力を消耗したらしく、はげしく息を弾ませる。けれども、その程度でリネアとの力関係は何ら変わりなかった。もうリネアには、先ほどのような起死回生の手段はない。
「これが本当の最後です。――消えてください」
男の両手に光が集う。リネアは呆然としながらその様子を見つめていた。
あれだけの威力を有する術、自分達はまさに跡形も無く消えてしまうだろう。
「い、やだ……」
死にたくない。死にたくない。嫌だ。
――生きたい――。
握り続けていた手を、初めて緩めてしまった。
そうして、辺りは光に包まれた。太陽が地平線に飲み込まれた、その時に。
――リネアが気づいたとき、辺りは赤だった。
赤いあかい紅い場所。
これが血の海だとわかるのに、そう時間はかからなかった。だけどわからない。何でこんなに生暖かいのだろう。
(……血って暖かいんだっけ?)
頭がうまく働かない。いつも通りに物事が見られない。どうしてだろう。
リネアは起き上がろうとして、右手に何か持っているのに気がついた。疲弊しきった体を起こし、血の海に座り込みながら、それを引き上げた。
それはほんのり暖かく、赤がついているものの、自分の肌と同じような色をしている。先は五つに分かれていて、それぞれ長さが違う。先端には楕円状のツルツルしたものが全てについている。
――だんだんと意識が覚醒してきた。
(これは何? これは、こんな形をしているものと言ったら……)
「人の、手……?」
「その通りですよ。お目覚めですか、我が君」
後ろから、誰かの声がした。聞き覚えがある。誰だろう?
「あなたは目覚められたのです。二つの界王の血を引く、『禁忌の子』として」
――五つある世界、五人の界王。人々からは神の如く扱われ、子を成さずとも特殊な方法で代を重ねることが出来る。
しかし、民と交わり子を成すことも可能である。ただ、他世界の血族との婚姻だけは禁じられていた。他の血族と交われば、その子供は計り知れない力を持つとして。
そんな掟が遵守され続けてきた中で、当代の魔王がこの掟を破った。偶然見初めた天王の末娘と恋に落ち、子を成したのだ。
天王はこれに激怒し、娘を軟禁状態とした。せめてもの情けか子は魔王に渡し、以後の連絡を絶った。
この一連の事件を『禁忌の変』、生まれ落ちた子を『禁忌の子』と呼ぶ。この世の誰もが知っている、史上最大の罪であった。
「わた……しが?」
「ええ。その後なんと魔王は自分の手ではあなたを育てられぬと言って人王に預け、その人王も手を余して賢者に預けた、と言うわけです」
だんだんと、視界が晴れていく。ぼんやりとしていた男の姿が、はっきりと目に映る。この、男は……。
「それにしても見事ですね。あの攻撃でもあなたは無傷だ」
あなたは。他に誰が? 他に……?
「ルゥ」
その名を口にした途端、リネアの身体に全ての感覚が戻った。
この男はさっき自分達を襲ってきた男だ。先ほどとは違い、朧のような姿になっているけれど。
(そうだ、ルゥは?)
途端に右手に持っていたものが重さを増す。
これは、人の、腕。
「――いやぁあああああああぁああっっ!!!」
血の海の中に、無惨にも数多の肉片となった少女の首が転がっていた。
「いやだ、ルゥ! 何で、何でぇ!!」
「覚えておられないのですね。あなたの目覚めの余波で、ソレは吹き飛んだのですよ」
さも嬉しそうに語る男。――今、何て?
「私の、目覚め、の、余波……?」
「ええ。あなたの生きたいという気持ちに呼応し、界王力が発動したのです。界王力は生命の危機に瀕すると、自ずと発動するといいます。まあ、うまく制御が出来なかったのでしょう」
「じゃあ……私、が、ルゥを殺した……?」
「結果的には」
守りたかった。失いたくなかったのに。自分と離れて『他者』となってしまったルゥ。
――あの時、手を離さなければ。
「さあ、参りましょう。どうぞお手を」
男が跪き、リネアに手を差し出した。
「無礼の数々、どうかお許しを。我らは天界に住まう幻影族。この世を変革すべく、立ち上がった次第です。友と呼んだ存在も消えました。もう未練など無いでしょう?」
深々と頭を下げた男の言葉など、リネアの耳には届いていなかった。
渦巻くのは自責の念。自分のために少女は死んだ。私がいたから、殺してしまった。
リネアは一筋の、涙を流した。
そして男の顔を見つめる。瞳の中に、今の自分の姿を見た。赤く染まる体。星々の如く輝く銀髪、月もかくやという黄金の瞳。これが『禁忌の子』か。これが世界中の人々から疎まれる存在の姿か。
「どうなさいました?」
いつまで経っても自分の手をとらないリネアをいぶかしみ、男が声をかけてきた。
「そうか、そうだったんだ……」
「?」
自分は人間ではないから魔力があり、上達も早い。きっと師匠のもとで監視されていたのだろう。史上最強の、賢者の下で。
危険だから。自分は世界を滅ぼしてもおかしくない存在だから。
(だからいつも仲間はずれにされた。当然だ、私はチガウから。親にも捨てられて。純粋に私を必要としてくれた友を殺してまで、私は生きている。私が望んだから。生きたかったから)
自分が望めば何でも叶うらしい。世界を滅ぼすことだって。
「はは、ははは……。そっかぁ、そうだったんだ!」
「何を……?」
次の瞬間、男の身体から血飛沫があがった。
「……は?」
次々と間をおかずに、男の身体が切り刻まれていく。
腹、頬、背、指、脛、胸、腕、腿、首。全てが赤く染まる。
「う、うわぁあああああ!!」
何が起きたのか理解できないまま、突然襲った激痛に、男はその場に倒れこんだ。
リネアは喚きちらす男には一瞥もくれず、目的の場所に歩き始めた。そして『それ』を拾い上げると、何より愛おしそうに抱きしめた。
「ルゥ、ごめんね? 痛かったよね。ごめんね……」
リネアが頬擦りする『それ』は、ルゥの首だった。血でべっとりと赤くなった栗色の髪を手ですき、よどんだ緑の瞳を見つめる。
「終わらせるから。もう全部終わらせるよ。ごめんね。すぐやるから」
――まずはこれを黙らせよう。リネアは喚き叫んでいる男に向き直った。
「嫌だ、やめろぉおおお!」
男は理解し、恐怖した。
今、この場の支配者は目の前の少女だ。さっきまでは完璧に自分が場の支配者だった。それなのに。
死だ。この先は死だけ。この年端もいかぬ少女が司るものは破滅。
銀糸のような髪が背にした月光を反射して、リネアは女神の如き姿だった。血にまみれても、その腕に友の首を抱こうとも、なお神々しくて。
月下に降臨せし、幼き血塗れの女神。
その姿を目蓋の裏に焼き付けた男の叫びは、むなしく空に溶けていった。存在の証など、塵一つ残せずに。
夜空にはルゥの血を浴びたかのような紅い月が、燦然と輝いていた。
「さ、始めよう。全部終われば、もう、何も怖くないよね……?」
リネアはルゥだったモノを抱きしめる。かすかに震えながら、身体の奥底から自然と紡がれる呪文を唱えていた。
それは滅びの調べ。界王と血族のみが扱える、自身の全てを出し切る究極の相殺呪文だ。二つの界王の血を引き、なおかつ反発しあって強まるリネアが使えば、世界が消える。
(もう誰も私を望まないと知ったもの。恐怖と共に、消えてあげる)
呪文はやがて、最後の節に入った。刻一刻と、誰もしなぬまま、世界の終わりが近づいている。勘のいい動物達は騒ぎたて、狂ったように鳴き叫びはじめた。
だけどリネアには、何も聞こえない。何も見えない。何も……。
「やめろっ!! リネア、死なないでくれ!」
駆けてくる白き賢者。
何でだろう。自分は……。
(全部、失ったのに)
シャルーランは臆することなく、リネアを『それ』ごと思い切り抱きしめた。
瞠目したリネアは、呪文の詠唱を止める。すると辺りに張り詰めていた緊張感は途端に消え去り、目前に迫っていた世界の消失はなんとか回避されたのだった。
賢者シャルーランとて、この場で何が起きたか、その全てはわからない。だがリネアが目覚め、友を失ったことだけは事実。そして世界と共に消えようとしていたことも。
シャルーランは自分が死ぬのも世界が滅ぶのも、そんなことはどうでもよかった。抱きしめたのは、世界を守るためではない。ただ――ただリネアが、泣いていたからだ。
誰が死のうが構わない。誰が泣こうが構わない。それでも、リネアが悲しみ、泣き、まして死ぬなどシャルーランには耐えられなかった。そこにはリネアが背負った辛い運命など、一切関係ない。
「私にはお前が必要なんだ。頼む、死なないでくれ」
最初は人王からの預かり物としてしか見ていなかった。友人である魔王の子だから、少しは情をかけるつもりではあったけど。
確かに魔王に似て聡明で。だけどやっぱり別人なのだ。子供はくるくる動き回って、様々な表情を見せる。最初はその奔放さを疎んだこともあったが、そんな気持ちはすぐに消えた。
愛しい。この小さな命が。世界中から拒まれる運命のこの子が。ただの弟子以上に、まるで娘のように愛しい。ヒトに対する愛を知らない自分が、初めて愛しいと思えた存在。
「死ぬな。私がいるから。私はお前にいて欲しいんだ」
賢者である自分が、八才の子供に縋る気持ちだなんて。傍から見れば滑稽以外の何者でもあるまい。しかし、自分にはこうする以外、何も術がない。
「し、しょう……」
リネアがシャルーランを呼んだ。声色は乾ききって、胸を締め付けるものだったけれど。
「……どうした?」
シャルーランは手を緩め、リネアの顔を見つめる。リネアの手には未だ『それ』が抱えられたまま。
「私は、生きていていいんですか……?」
「当然だ。いや、いてくれ。私のために。私はお前に生きていて欲しい。……頼む」
シャルーランの言葉を聞いて、リネアの頬を涙が伝った。
「帰ろう。帰ったら、全てを話す。お前のこと、私が預かった経緯、全てを話すよ。だから……一緒に帰ろう」
リネアの肩が震えだす。シャルーランは何も言わずその肩を強く抱いた。
「わた、わたし、殺してしまった。ルゥを、殺してしまった! 師匠、どうすればいいですか。おね、がいです……。おし、えて、……っ」
そこまで言うと、リネアはわっと泣き出した。ゴトリと手から『それ』が、ルゥの首が転げ落ちる。
シャルーランはリネアの背中を優しく撫でながら言った。
「忘れないでいることだ。忘れないで、ずっと思っていてあげなさい。そして、お前は生きなさい。お前が生き続ければ、心の中でこの子も生きていられるんだ。そして、強くなれ。旅に出るんだ、この世を正すために。そうして初めてこの子も浮かばれるだろう。世界の歪みの被害者なのだから」
「……は、い……」
リネアはシャルーランの腕の中で一頻り泣きじゃくると、力を使い果たした疲れもあってか、そのまま気を失うように眠ってしまった。
シャルーランは寝入ったリネアを抱き上げると、ゆっくりと立ち上がった。
(こんな目覚めをむかえてしまうなんて……)
仮にも賢者だ。目覚めを想定していなかったわけではない。周囲に甚大な被害を与えるような場合も含め、どんな事態にも対応できるように備えてきた。
それでも、リネアを目覚めさせたくはなかった。魔法を教えるのも身を守れる程度に留め、出来たら、一生を普通の人間として穏やかに暮らしてほしかった。
賢者である自分とでは、『普通』にも限界があると分かっていたので、適当な時期にこの位を捨て、ただの人に戻って『親子』となり、一緒に暮らすのもいいとさえ思っていた。それぐらい、リネアとの生活は大切なものだったのだ。
それなのに。
リネアは一生の心の傷を負う、人を殺めるという最悪の形で目覚めた。これからも心の動揺がもとで、力を発動させてしまうことがあるだろう。
(もっと、もっと強くなれ。お前にはもう、平穏はやってこない。これからは、試練しかない。だから、立ち向かう、抗う力を少しでも……)
――私の全てをお前に捧げよう。そのために私は賢者でいる。権力という最も愚かで強い力をもって、お前を守るために。
やがて一陣の風が過ぎさると、二人の影は森から消えていた。
すべてを、紅の月だけが見つめていた。




