紅の月《弐》
ルゥとの出逢いから数か月。リネアは頻繁にクワントの町を訪れるようになっていた。
毎回シャルーランの術で行っているのだが、シャルーランはいつも何かしら理由をつけて出掛ける。それは初めて友達ができたリネアのため、本当は用事がないのに、リネアが気兼ねしないよう考えてくれているのだ、とリネアも理解していた。
しかし、今回は本当に用事がある。何せ今日は、リネアの昇級試験の日なのだ。
試験は朝から始まる。この町に来たら、まずルゥに会いたいが、早朝から広場に子供は集まらない。ルゥの住まいは広場の近くにあり、この前お邪魔したが、流石に今日は夕方まで会えないか――と思った、その時。
「ルゥ!」
「あっ、リネア!」
運よく、ルゥが家の外に出てきた。窓辺の鉢植えに水をやりに来たらしい。
クワントでは他の子供達とも遊んだが、やはりルゥが一番の友達になっていた。ルゥもリネアを親友だと思ってくれているらしく、いつもリネアの来訪をとても喜んでくれた。
「ねえ、今日は朝から遊べるの!?」
「あのね、残念だけど、夕方までは遊べないんだ。用があるから、すぐ行かなくちゃ。終わったらここに来るから、待っててくれる?」
「もちろん! あ、今日は私の秘密の場所に連れてってあげる。夕方からが一番綺麗なんだから。楽しみにしててね」
「うん、ありがとう」
その後、うきうきとした気分のまま昇級試験を受けたリネアは、試験を最優秀の成績で合格した。
リネアは魔法を悩むことも迷うこともなく、息をするのと同じように、自由に行使する。その姿を見た試験管たちは、流石は賢者の弟子、と驚嘆するほかない。まだ十にも満たない少女が三位となるのは、異例中の異例ではあったが。
「リネア、お疲れ様。かなり頑張ってたじゃないか」
「師匠。あの、今日は少しでも早く終わらせたくて……」
「いいだろう、行っておいで。私は手続きを済ませておくから」
「すみません、お願いします」
「早く行ってあげなさい。暗くなってしまうよ。後で広場に迎えに行くから」
「はい!」
面倒な手続きをシャルーランに変わってもらったリネアは、組合が置かれている古ぼけた石組みの建物を出て、急いで広場へ向かった。すでに空は橙色に染まり始めている。
ルゥは広場の中心、噴水の縁に腰かけてリネアを待っていた。
「ルゥ、おまたせ! どこに連れてってくれるの?」
「よかったぁ、間に合わないかと思っちゃったよ。ふふ、場所は着いてからのお楽しみだよ!」
「うん」
「リネア、行こう」
ルゥはリネアの手を握ると、駆け足でその場を離れた。二人が大急ぎで向かった先は、町外れの森だった。ただし、森と言っても細やかに間伐の手入れがされており、綺麗な夕焼けが頭上の木々の間から顔をのぞかせる。
が、奥に入れば段々と日暮れも手伝い、暗さが増していく。しかしルゥはお構い無しに、どんどん森の奥に分け入っていく。
「ルゥ、どこまで行くの? あまり奥に行くのは……」
「大丈夫、もうすぐだから! それに道もちゃんとついてるし、魔物もいないよ。心配しなくて大丈夫。あ、もちろん狼とかもいないよ。……多分」
「多分って……」
どちらにしても、確かに心配はしなくていいだろう。
自分達は細いながらきちんとした道を通ってきたし、それは一本道だ。魔物の気配もしないし、狼程度なら、もしいたとしても自分の魔法で対処できる。
――なにより、ルゥの笑顔に応えたい。
リネアは繋いだ手を、ぎゅっと握り締めた。
やがて二人は円形状の、小さな広場のようになっている所に出た。頭上に木々の枝はなく、ここだけ思い切り開けている。
見上げれば、真っ赤な夕日がこの場を血染めの如く染め上げていた。
「ここが私の秘密の場所だよ! 見て、月下草がいっぱいあるの!」
「うわぁ、すごい、綺麗っ……!」
この広場を取り囲むかのように、白銀色の蕾たちが緑の蔦を木々にびっしりと絡ませていた。花の名は『月下草』。月光の下に花を開かせることが名の由来だ。
花はシャルーランの髪色と似て、なんとも不思議な雰囲気を纏っている。もう少し、日没と同時に花が開かれるが、蕾のままでもじゅうぶんに美しい。
「ね? 来て良かったでしょ!」
「うん! すごいよ、月下草がこんなに密集して咲いてるなんて。繁殖力が弱くて、蕾をつけるのも大変なのに……」
ふと、リネアは自分で言った言葉が気にかかった。
(そうだ、この花は群集するなんて有り得ない性質のはず。何で、ここでは、こんなにも在るんだろう)
――不気味なほどに。
ゾクリ。そう考えた途端、リネアは体中に悪寒が走った。
怖い。今の今まで、その美しさに心奪われていた蕾たちにも、今では恐怖しか感じない。
「ルゥ、この花は誰か手入れとかしてるの……?」
かすかな望みにかけ、怖々ながらルゥに尋ねる。人の手が加わっているなら、群集して咲く可能性はゼロではない。
「ううん、そんなことないよ。だって誰か知ってたら話題になるに決まってるもん。だけど、誰か見つけたって話は聞いたことないなぁ」
――ああ、駄目だ。唯一の望みが絶たれてしまった。
(そうだ、この花が滅多に咲かないのは、開花に多大な妖力が必要だからだ! まだ蕾だけど、こんなにあるってことは……、ここは危ない!)
何も妖力を用いる術者が危険なのではない。シャルーランもリネアも、そうした世間一般の評価は馬鹿馬鹿しいと思っている。哀れにも彼らは、その力の特異性から異端視されているだけだ。
この場所が危険なのは、純粋な妖力が莫大に在るからだ。魔力であれ法力であれ、純粋な特殊力が何かをきっかけに暴発すれば、どの力であろうと、それは最強最悪の凶器。
子供二人など、塵一つ残さず簡単に消し去る。
「ルゥ、ここを離れよう! ここにいちゃ駄目だ!」
リネアは得たばかりの位に相応しい、その明晰な頭脳で、状況を冷静かつ的確に判断した。
何故、ルゥだけがこの場所を見つけたのか。改めて考えてみれば出来過ぎているし、どう考えてもおかしい。入口から一本道だったと言うのに、誰もここを見つけていないなんて。
これは何かの罠なのだ。自分達をここへ誘うための。
理由なんてわからない。けれど、すぐに逃げなければ。
「どうして? もうすぐ花が開くのに!」
当然、ルゥは不思議そうな顔と不機嫌な声で答える。
せっかく自分の秘密の場所に友達を招いたのに、こんな言い草をされたら不機嫌にもなるだろう。
「説明は後でするから! お願い、ここを離れて!」
半分泣き叫ぶようなリネアの訴えに、ルゥがわずかに怯んだ。
だが、よほどここを気に入っているのだろう。今まで握っていたリネアの手を振り解いて、広場の中心まで駆けていってしまった。
「ルゥ!」
「嫌だよ、何で? 友達でしょ!? 何でそんなこと言うの? ひどいよリネア!」
ルゥの目には涙が浮かんでいる。
――仕方がない。自分は相応のことを言って、ルゥを傷つけてしまったのだから。
だけど、これ以上は、させない。
「ここは危ないんだ、妖力が満ちてる! 早く離れないと夜が来る、私じゃ守りきれないかもしれない。だから、お願い!」
リネアはルゥに駆け寄った。
ルゥはわずかに体を引いたが、必死な形相のリネアに問いかけた。
「ど、どういうこと……?」
「狙われてるんだ!」
リネアはルゥの手を引こうと自分の右手を差し出した。ルゥも我が儘を言っている場合ではないと察したらしく、素直に手を差し出す。
二人はしっかりと互いの手を握り締め、来た道を戻ろうと後ろを振り向く。が、既に道は存在していなかった。
「なっ……!」
リネアは息を呑んだ。
――まずい。こんな術を使うヤツが相手だなんて。
こういった五感に影響を与える術は、妖力が得意としている分野だ。魔力は妖力との相性が悪く、打破は難しい。
だけど、だけど。
「ルゥ、しっかり手を握っててね。……絶対に離さないで」
「うん」
守ってみせる。この大切な存在を。自分はこんな時のために、辛い修行を堪えてきたのだ。
いつも、師匠に言われていた。『お前が失いたくないものを手に入れたら、お前の力はそのためだけに使いなさい。ヒトは何かを守るとき、一番強くなれるのだから』と。
(師匠、私はルゥを失いたくないです。やっとできた友達を、私は守りたい。だから、言いつけを破っても、いいですよね?)
道があった場所を見据え、大きく深呼吸する。
リネアは術の確実性と威力を高めるため、普段は行わない呪文詠唱を開始した。
「――来たれ炎よ、我が眼前の敵を薙ぎ払え!」
呪文とともに、強力な魔法が放たれる。またたく間に炎が踊り狂い、リネアの眼前の木々を焼き払った――かのように見えた。
「な、に……?」
人など簡単に焼き尽くしてしまうような炎を受けてなお、木々は何事も無かったかのように木の葉を揺らす。
リネアは焦りを隠せなかった。
普通に妖術で道を隠したならば、今の魔法でも絶対に何らかの影響が出る。相性が悪いとはいえ、隠行の術は、妖術の中でも程度が低いからだ。力量で押し通すことができるはずだった。
しかし何も影響がないと言うことは、これは見たこともない、とても強力な妖術なのだろうか。
「くそっ、もう一度!」
右手に握るルゥの手が、微かに震えている。
(そんなの関係ない! 絶対、絶対守ってみせる!)
「炎よ! 燃え上がり、全てを無に帰せ!」
先ほどよりも高位の魔法を放つが、これでも変化は無かった。
もう一度、とリネアが呪文の詠唱をしようとしたとき、どこからか声が聞こえた。
「その程度の術で、我が囲いは破れません」
二人が驚いて辺りを見回すと、二人の背後、円の中央に一人の男が立っていた。
端正な容姿だが、雰囲気がどこかおかしい。男には今にも消えてしまいそうな、雲のような儚さがあった。
「誰だ! なぜ私達をここに閉じ込める!?」
リネアの怒声に怯むことなく、男は慇懃な態度でリネアに応対した。リネアの前で膝をつき、頭を下げる。それはまるで、主の怒りを静める従僕のような所作であった。
「我らの崇高なる計画のため、あなたの御力が必要なのです。ご安心下さい、無体な真似は致しません」
「何? 何なの!? あなた誰なのよ!」
だがリネアが答える前に、あまりの恐怖でルゥが叫んだ。すると男はリネアのときとはガラリと態度を変え、まるで虫けらでも相手にするかのように、冷酷非情に言い放った。
「お前などに用は無い。お前がこの方と知り合って無ければ、この地に近づいた時点で消してやったものを」
はっきりと見て取れる侮蔑の態度に、ルゥは恐怖や混乱、不安と言ったものがない交ぜになって、ついに泣き出してしまった。その様子を見て、ますます男は侮蔑の表情を深める。
「……くだらない。さぁ、我らのもとへ。あなたが必要なのです」
男は跪いたまま、とても優しい笑みでリネアの前に、手を差し出した。だが、リネアがその手をとることは無かった。
「あなたが誰かは知らないし、何故私が必要かも知らない。……だけど、どんな理由があろうと私の道は私が決める! すぐにこの結界を解きなさい!」
その言葉には、八才の少女とは思えない強さが秘められていた。
――男は理解した。凛とした瞳に意思の揺らぎは無い。このままではあの男、賢者がやってきてしまう。
ならば、力ずくで。
「手荒な真似はしたくなかったのですが……。仕方ありません。失礼ではありますが、力ずくであなたを連れて行く」
男の瞳が怪しく煌く。その後ろでは、太陽が最後の陽光を、断末魔の悲鳴のように赤々と燃やしていた。
一方、町の広場ではシャルーランがリネアの姿を探していた。
少々手続きに手間取ったものの、約束した場所に来てみたら、日が沈みかけた広場に子供の姿は無い。誰かにリネアの行方を聞こうにも、人の影もまばらだ。
気術を駆使してもいいが、どうもこれだけは苦手だった。町のど真ん中で行えば、微動だにしない自分が不審人物と見られることは確実である。
「あのう……」
組合に戻るか、とシャルーランが悩んでいたところに、一人の婦人に声をかけてきた。
「はい、何でしょうか?」
「私、ルゥの母親のリアと申しますが、リネアちゃんのお師匠様でしょうか?」
「ええ。いつも弟子がお世話になっています。どうかされましたか?」
リアに話し掛けられた時点で、シャルーランは、もうルゥは家に帰っていると思っていた。
リネアには、相手の安全を優先するよういつも言っている。だからいくら友達でも、まだ幼く力のない少女をこんな時間まで連れ回さない。例え相手が望んでも、だ。
「いえ、こちらこそ。あの……失礼ですが、うちの娘をご存じないでしょうか?」
「――え? ご自宅に帰られていないのですか?」
「はい。いつも夕暮れに私がここに迎えに来るのですが、娘が居ないのです。ですから、この頃よく遊んでくれているリネアちゃんと一緒なのかと……」
不安げにうつむく夫人を見て、二人に何かあったのだとシャルーランは瞬時に判断した。
シャルーランの語調が一気に引き締まる。
「実は、リネアもまだ帰らないのです。私はこの町に詳しくありません、二人が行きそうな場所はご存知ですか?」
「えぇと……。そう言えばこの前、今度はリネアちゃんを秘密の場所に連れて行くと言っていましたわ。たぶん森の中だと思います」
「森ですか。あの町外れの?」
「ええ、ですがあそこは一本道だし……。あ、そうだわ。あの子、綺麗な花を見つけたと言っていました。そう、お師匠様の髪色にそっくりな花が沢山あったと」
「私の髪に?」
「そうです。不思議な色らしくて。えぇと、何て言ったかしら。月……何とかって花だったような……」
はっきりとしない言葉だったが、シャルーランにはそれだけで十分だった。
「ご夫人、どうぞご自宅でお待ち下さい。私が二人をむかえに行きますから。よろしいですね?」
「え? ですが……」
「開けていても夜の森です。ご夫人には危険だ。私は魔法使いを修めている身、心配はいりません。では、急ぎますので」
そう矢継ぎ早に言うと、リアの返答を待たず、シャルーランは急いでその場を離れた。
(くそっ! 頼む、間に合ってくれ! まさか月下草があるなんて……!)
夜の帳が空を覆いつくす。『その時』は、刻一刻と近づいていた。