紅の月《壱》:リネア
この世のどこか、生ける者達が容易く立ち入れぬその場所に、一組の男女がいた。
いや、もう一人。幼子が女の腕に抱かれている。何とも気持ちよさそうに眠り、幼子だけが得られる幸福を夢の中で貪っていた。
己の運命など、知る由も無く。
「この子のこと、くれぐれもよろしくお願いします。幸い、あなたによく懐いたようですし……」
「お任せ下さい。私が立派に育てて見せましょう。どうかご心配なさらずに。……あいつの子供ですから、手を患わなくて済みそうですし、ね」
「ええ、本当に。……ですが、万一のことも忘れずに」
「心得ております。私の全てに懸け、この子を守りましょう。……この世のためにも」
この世は五つに分かれ、それぞれを『界王』が統べる。
界王とその血族は魔力などの特殊力を民とは桁違いに備えており、更に『界王力』と言う特別な力も持つ。その為彼らは普段『界王の間』という特別な空間に住み、滅多に姿を見せない。
また、この世には様々な『職』が存在する。
これはどの世界の民も自由に選択できるが、修めるのはどれも非常に困難である。
しかし天武の才を持つ者はいて、複数の職、特に五大職と言われる職を全てを修めた者には『賢者』の称号が送られた。この称号を得た者は、世に記録が残る過去数千年の間で、わずか十人しかいない。彼らは界王と同様の敬意と畏怖をもって、民から崇められた。
そんな世で、一人の少女が育っていた。
――ここは人界にある、通称『賢者の塔』。人界の四大国の一つ、アスケイルの山中深くにそびえ、世俗と隔絶された場所だ。
「リネア、入るよ」
その塔の一室。扉を叩いて、一人の男が中からの返事を待って室内に入った。
男はすらりとした長身で、まだ若い。面立ちは美しく、誰もが振り向く造形をしていた。瞳は金と水色が入り混じった不思議な虹彩で、髪はもっと不思議な白銀。むしろ純白と言ってもよく、腰まで伸びたその髪は、絹のように美しい。
この男こそ史上最年少で賢者の称号を得た、歴代最強と名高いシャルーラン・ガイラである。
そのシャルーランが入った部屋には一人の少女がいた。
「師匠、どうされましたか?」
少女は賢者の唯一の弟子であり、名をリネア・ル・ノース、まだ年は八歳だ。
成長すればシャルーラン以上か、という美しさを秘めているリネアだが、髪はシャルーランと真逆の漆黒で、瞳も闇のように黒い。肌が雪のように白いので、対を成してうまく引き立てあっている。
その生来の美の中で目を引くものは、左頬にある真紅の――まるで血染めのような紋様だ。
「組合の用事が急に入ってね。クワントの町に行く必要が出来てしまったんだ。せっかくだ、一緒に出掛けようじゃないか」
「わかりました」
「では、用意ができたら私の部屋に来てくれ。なるべく早く頼むよ」
「はい」
リネアの返事に満足して、シャルーランは優しく微笑んで自室に戻った。しばらくしてリネアが部屋にやってくると、シャルーランは塔の出入り口に向かうことなく、リネアの手を握った。
「よし、行こうか」
シャルーランはそう言うやいなや、高位の移動術を一息に発動させた。すると次の瞬間、二人はもう目指す町の入口に降り立っていた。
「さ、行こう。遅れてしまう」
一瞬で大陸の端から端まで横断したというのに、二人は疲れた様子など欠片も見せない。その様子からは賢者の術の高度さ、使用者の有能ぶり、また二人の魔力への耐性――それだけ自身が持つ魔力が強い、ということが窺える。
二人は町の入口を抜け、目的の建物に行くために広場を通り抜けようとした。そこで、ふとリネアの歩みが止まった。
「リネア、どうしたんだい?」
「い、いえ、何でもないです」
――何もなければ、この子が歩みを止めるわけが無い。
シャルーランがそう思って辺りを見回すと、広場で遊ぶ子供達の姿が目に付いた。
(ああ、あの子らと遊びたいのか。この子も……まだ子供だからな)
「行っておいで。私は夕方には終わるから、そのとき迎えに来る」
「えっ……?」
「たまには遊んできなさい。今日の用事は、リネアに手伝ってもらわなければいけない仕事でもない。ただし、いつも言っていることは守るように。いいね?」
「――はい!」
シャルーランの言葉に、リネアは笑顔で答えると、元気よく町の子供たちのもとへ駆けていった。その後ろ姿を見送ると、シャルーランは自分の用事を済ませるためにその場を去っていった。
「あら? はじめまして、よね。私ルゥって言うの。あなたは?」
リネアが子供たちに近づくと、その姿を見つけた一人の少女が早速、声をかけてきた。
「う、うん。私はリネア。よろしく」
「よろしくね!」
このルゥという少女を仲介に、リネアはすんなりと町の子供達の輪に入れてもらえうことが出来た。
しかし、ルゥがリネアをみんなに紹介するや否や、リネアは矢継ぎ早に質問攻めにあう。それはリネアを不審がっての行為ではなく、どうやら好奇心旺盛、ということらしい。
「この町の子じゃないよね。隣町に住んでるの? それとももっと遠く?」
「ア、アスケイルに住んでる。今日は師匠の用事で来たの」
「アスケイルのどこ?」
「師匠? 何をやってるの?」
「あ、えと、小さな町だから……。その、たぶんみんな知らないよ。それで、やっているのは、魔法を」
あちらから、こちらから、どんどん質問が飛んでくる。普段は同年代の子供と交流がないリネアは、この勢いに戸惑いを隠せない。
「すごーい! 魔法が使えるんだぁ! ね、やってみせて?」
この羨望も世間の『普通』なら当然。だがリネアの『普通』では考えられないものだ。
何故なら自分の生活は魔法と共にあり、魔法があるからこそ今の自分、今の生活があるのだ。魔法が無ければ、賢者であるシャルーランと共にいることなどなかっただろう。
――例え両親の愛を知らずに過ごそうとも、師匠がいてくれるなら、それでいい。
「ごめん、師匠に禁止されてるんだ。まだ力の制御ができないから、勝手に行使するのは駄目だって。みんなに怪我させちゃうかも知れないから」
「そっかー、残念」
(本当は、違うんだけど……)
シャルーランとの約束は三つ。住む場所と身分を明かさないこと。術を使用しないこと。最後に、その理由として力の制御が不完全のため、と言うこと。
(もう一人前の位は持ってるのに、何でだろう。師匠が言うから無意味なわけないけど、理由が知りたいな……)
五大職の一つである魔法使いは、当然修めるのは至難の技で、一人前の位に達するまでもかなりの年月を要する。平均的には、成人するくらいの年齢でようやく到達できる位だ。
それをリネアは八才という若さ、いや幼さで得ている。
普通ならこの快進撃に恐怖を覚えるほどでもあるのだが、リネアはその純粋さゆえに、真実を知らずにいた。
「ねぇ、お話はあとにして遊ぼうよ。トントって知ってる?」
「う、ううん、知らない。どうやってやるの?」
「これはね、このボールを……」
――楽しい時間は、早々と過ぎていく。
いつしか日が暮れ始めると一人、また一人と子供達は家路についていった。やがて広場残ったのはリネア以外に、最初にリネアへ声をかけてきたルゥの二人だけになった。
ルゥは栗色の柔らかい髪がふわふわと風になびき、緑の子供らしい大きな瞳は好奇心に満ち溢れている。その好奇心を押し隠さず、ルゥはリネアに話しかけてきた。
「ねえねえ、リネア。リネアの師匠ってどんな人なの?」
「師匠? 師匠は……、そうだなぁ……」
賢者と言えたら説明は楽なのだが。何かいい言葉は無いだろうか。
「とにかく術が上手いかな。それに頭もいいし、運動神経もバツグンだよ」
ありふれた言葉だが、これ以外に説明の仕様が無かった。特殊力を自在に駆使し、博識で武術にも長ける。
どうしたって、この陳腐な言葉しか思い浮かばない。
「他には? 厳しい人なの?」
「えっと、修行中はやっぱりそうかな。妥協は許さない人だから。けど、いつもは……とっても優しい」
「そっかぁ! いいなあ。そんな完璧な人ってホントにいるんだね。リネアだけでも十分凄いのに、師匠はリネアの師匠なだけあって、さらに凄いんだ」
リネアは少女の素直な賞賛に、喜ぶよりも先に面食らってしまった。
こんな純粋な賞賛はリネアにとって、初めてのことだったのだ。
「わ、私が?」
「だってリネアも綺麗だし、魔法が使えるし、頭もよくて優しいよ。さっきコウが怪我したとき、すぐに手当てしてくれたよね。薬草を持ってて、ちゃんと使えるなんて、ホント驚いちゃった」
「そ、そうかな」
ここまでハッキリと言われたら、流石のリネアも照れる。思わず赤面してしまい、照れたリネアは、慌てて話題を逸らした。
「そ、そうだ。ルゥは帰らなくていいの? 皆はもう帰ったのに。怒られない?」
「大丈夫、いつもお母さんが仕事帰りに迎えに来てくれるの。もうすぐだよ。リネアはここで師匠を待ってるんでしょう? いつ来てくれるの?」
「私もそろそろだと思うけど……」
「あ、じゃあ私、どの人だか当ててみる! よ~し……」
そう言うなり、ルゥは広場のオブジェの上に登って、勇んで雑踏に目を凝らしはじめた。
そんな彼女の突飛な思いつきに驚いてしばし見上げるだけだったリネアは、ルゥにシャルーランの容姿を告げていないことを思い出した。
「ルゥ、師匠はね……」
「あ、あの人でしょ!?」
言葉を遮られたリネアがルゥの示した先を見ると、確かにそこにシャルーランがいた。こちらに向かって歩いてくる。
「すっ、すごい! どうしてわかったの? 見た目は言ってないのに」
「ん~、何となくだよ。けど、そっくりだと思うよ?」
「え? どこが?」
リネアと師匠は親子ではないから、どこも似ていない。髪だって白と黒で印象がまるで違う。
そのことを言おうとしたリネアは、続いたルゥの言葉に絶句した。
「綺麗で人目を引くところが」
……そこは師弟関係で似るとは思えない。というか関係ない。
だがルゥの満面の笑みに、褒めてくれているのもあって、リネアは苦笑を浮かべるしかなかった。
やがてシャルーランの到着と共にリネアはルゥと別れたが、ルゥは最後に最高の言葉を贈ってくれた。
「また遊ぼうね! もう友達だもん、待ってるよ!」
――トモダチ。
ずっと欲しくて、ずっと我慢してたモノ。
たった一言に、リネアは胸が暖かな思いに満たされるのを感じた。そしてリネアは、最高の笑みと一緒に、ルゥへ「うん」と返事をしたのだった。