何度この手を汚しても《後》
翌日。この日フレデリックは昇級試験を受けるので、日暮れまでは組合で缶詰だ。つまり――。
(……ひま、だな)
フレデリックとの出逢いは、シャルーランをとことん変えていった。
今までにも退屈で退屈でどうしようもないことは、何度もあった。それでも、誰かに会いたいなんて思ったことは一度もなかった。
今は、会いたい。あの馬鹿王太子と会って話をして、共に時間を過ごしたい。
シャルーランは困り果てた。試験の日程は自分の力でもどうにもならない。しかも、他人の試験だ。こればかりは待つしかない。
だが、太陽が中天に達するには、まだまだ時間がかかる。いくら何でも、昼寝をするのにも限度というものがある。
シャルーランは考え抜いた末に、久しぶりにあの場所へ行こう、と決めた。
自分が生まれた国、ドーニャ。幼い頃に旅立ったあの場所に、何の未練も感慨もない。けれど、たった一つだけ、気に入っている場所があった。
そこへ行こう。この苛立ちも静めて悩みを無にしてくれる、あの光溢れる美しい花園へ――。
思い立ったら即行動、がシャルーランの信条である。先月編み出したばかりの自己流の転移術を使用し、すぐに目的の場所へ向かった。
魔法使いの試験は日時が変更になることが多々あるため、数日前から試験会場にいなくてはならない。そのため人嫌いのシャルーランも五日前から会場入りしていたのだ。
だが、今日はフレデリックたちの試験。とすれば二位の試験は予定通り、明日行われる。今日は会場にいる必要はない。
術を使用してほんの数秒、シャルーランの体は大海を横断していた。時差の関係で、ドーニャはすでに随分と日が傾いている。だが、花園は相変わらず美しかった。
(……?)
美しい。美しいのに。
何かがおかしかった。何かが変わっている。花の種類、咲いている数。そんなものではない。この地方を代表する青いユクの花も、旅立つ前と変わらず、今も美しく咲き誇っている。
(……誰かが、来ている)
麓の集落から大分離れたところにあるこの花園だが、時たま猟師や木こり、羊飼いなどが訪れているのは目にしていた。
だが、彼らはひと時の憩いの場として花園を利用しているに過ぎない。まるで山の動物たちのように、この花園に馴染んでいる。
だから、違う。彼らじゃない。辺りをぐるりと見回し、シャルーランは理解した。
この違和感の正体、それは麓の人間の仕業だ。花園を、ゆっくりと蝕んでいる。花を踏み荒らし、摘み取り、掘り起こしていく人の愚行。
あまり知られていないが、青いユクには薬効がある。多彩な色を持つユクの中で、青だけが備える成分。だが、それは他の薬草でも十分代用できる。青いユクは見た目がとても美しいので、一種の信仰のように、特別な薬効があると考えられているのだ。
そんな無知のために、この花園が荒らされている。人によって『管理されている』のだ。この花園が、この、この花園が!
(――許さない)
ここは先祖代々、ガイラ一族が所有する山だ。大地主である一族は、麓の住民が放牧や薪集めなどに使う程度ならば大目に見て、かなり自由に使わせていた。
だから誰かが自分の暮らしを成り立たせるために花園を利用することを、きっと父たちが許したのだろう。
それでも、自分は許せない。
ここは汚されてはならぬ場所だ。人が、立ち入ってはいけない場所。金銭と言う世俗の欲を持ち込んではならぬ場所なのだ――!
自分でも知らぬ間に、ここはシャルーランにとって唯一の故郷となっていた。幼い頃の穏やかな想い出が残っている、奇跡の場所だった。いつしか神聖視すらして、心の楽園と化していた花園。
それなのに、その幻想は容易く打ち破られた。
(ここは、あの花園じゃない。ここは違う。こんな、こんな……)
シャルーランの手に、魔力による炎がともる。始めは右手、次に左手。
「こんな場所なら……。こんな、こんな汚い花園なら、燃え尽きて、消えてしまえばいい」
自分のたった一つの想い出を、黒く塗りつぶしてしまう花園なんて。
そして十も数えない合間に、花園はシャルーランの力のよって焦土と化したのだった。
焼け焦げた花を踏みにじりながら、シャルーランは真っ赤に染まった空を見上げた。まるで今の心を表すかのような、血の色をした空だ。
流石のシャルーランも思わず目を逸らしてしまうぐらい、空は赤々と燃えていた。どんよりと曇っていたなら、陰鬱な胸の想いも言い逃れができたというのに、空は逃げる理由を与えてはくれなかった。
(俺が……馬鹿だというのだろう。ああ、馬鹿だとも。馬鹿だ、俺はどうしようもない馬鹿野郎だ……!)
独りよがりな怒りで花園を燃やし尽くしてしまうなんて。
それでも後悔するような気持ちは、とんと生まれてこない。馬鹿なことをやった、とは認めているが、同時に正しいことをしたとも思っているからだ。
この場所は、汚されてはならない。何度この手を汚しても、この場所だけは守らなければならない。
魔力の残滓から、家族の誰かが察するだろう。この花園を燃やした人物も、その理由も。そうして人の出入りを禁じるはずだ。家族は、誰よりも自分の力を恐れているのだから。
シャルーランは、もう一度空を見上げた。血のような赤をしっかりと、今度は目を逸らさずに。
そうして、この場を後にしたのだった。
「おい、満点で合格したぞ!」
修行上に戻った頃には、大分日が傾いていた。昼前にドーニャに向かったのだが、花園で想像以上に時間を費やしたらしい。
だいぶ早く試験が終了したらしく、シャルーランが自室に着いてすぐ、フレデリックが満面の笑みで飛び込んできた。
「そうか。だが、そうでなきゃおかしい。俺が指導したんだからな」
「ふざけるなよ、この野ろ……ん? お前、何かあったのか?」
フレデリックの言葉に、シャルーランはギクリとした。もちろん『何か』あったのだが、こうも簡単に見破られるとは思ってもみなかったのだ。
「……なにもない」
「阿呆め。そう答える奴は、間違いなく何かあったんだ。さあ吐け。何があった?」
「…………。いや、なんでもない。確かに、あった。だが、誰かに言うようなものじゃない」
「……。ふん、つまらん奴だな。くだらない悩み事など、さっさと吐き出すに限るものだが」
「……」
そう言われて、思わずシャルーランは口を開いた。しかし、何も言葉は出ない。
そんな自分らしくない曖昧な行動に違和感を覚え、シャルーランはその理由をすぐさま考えた。そして、その理由に思い当ってギョッとする。
(……俺は、恐れた、のか……? 馬鹿なことをやったと、こいつに見放されることを……)
フレデリックは動揺したシャルーランを見て何を思ったのか、盃を一つ、ずいと突き出してきた。
「……な、何だ?」
「悩み事が人に言えない性質のものならば、酒に流すに限る。うっかり口に出す場合もあるが、酒の席のことだ。忘れるのが筋というもの。それで気が楽になることもあるし、万々歳だろう」
「おい。お前、まだ未成年だろ……」
思わぬ展開に、シャルーランの思考も鈍ったようだ。何とも『普通』な言葉を言ってしまった。
国ごとに成人年齢や飲酒解禁年齢は様々だが、アスケイルではどちらも十八歳である。罰金刑で済むものの、その金額は高めであり、実刑を伴わない罪の中では比較的重い罪、との認識が一般的だ。
「はっ。いろいろと付き合いのある王族が、そんなことを守ってるとでも思ったのか? お前も案外、素直な奴だな」
「破っていても驚きはしない。というか興味はない。だが、お前の言いぐさはかなり……」
「俺は十歳のころから父の代理として、様々な場所に出向いていたからな。言葉は父の受け売りだが、教わった中で最も役に立つ教えだと思っているぞ」
そう言い切った十三歳の王太子を、シャルーランは思わず殴りたくなった。
あれだけ人に好意を覚えさせておきながら、その中身はコレである。悪くはない。悪くはないのだ。
(だが、非常にむかつく……)
『王道』とか『己の上に立つ』とか、自分の心のうちで褒めちぎっていただけに、『酒で悩み事を流すという教えは最高だ』などと言われた日には、殴りたくもなる。
しかも法を思い切り破っているうえに、それを気にしていないときた。
確かに、フレデリックは面倒な付き合いが絶えない身分ではある。法を頑なに守れば、酒も飲めないガキ、とあしらわれることもあるだろう。
それを理解しているシャルーランだからこそ、フレデリックの言葉はむかついて――好ましかった。
堂々たるその姿が、あまりにも眩しくて。
「……安酒なんか出したら承知せんぞ。ドーニャの飲酒解禁年齢は十三なんだ。俺は隠れる必要がない」
「なんだ、お前はドーニャの出だったのか。それに同い年なんだな」
「七つで家を出た時から年齢なんか数えていない。だが、試験の回数などを考えるとそうなる」
「……そうか。まあいい、とにかく俺の『安酒』がお前の口に合うか、いっぺん試してみろ。南部の新物だが、今年は当たり年だ。これはいけるぞ」
「そうか。楽しみだ」
――面と向かって、すべてを言える友人がほしかった。すべてをさらけ出せたら、どれだけ楽だろう。
けれど、それは無理なことなのだ。シャルーランは若干十三歳で、そう悟ってしまった。
フレデリックとは、今後ともいい関係を築いていけるだろう。いや、ずっと築いていきたい。自分からそう望むほど、最早フレデリックはシャルーランにとって、なくてはならない存在だ。
それでも、すべてをさらけ出すことはできない。望むからこそ、その願いを掴めない。
自分の中にある、唯一で最大の恐怖。それは忌避していたはずの、人との関わりを失うことだった。
気づいてしまった以上、これからはもっともっと増えていくだろう。フレデリックのように、繋がっていたいと思う人が出てくるだろう。そして、その分秘密も抱えていくのだ。
――だから、自分は力を手に入れよう。恐怖に打ち勝つ術を知るためにも。打ち勝つことができなくとも、繋がりを絶たなくて済むように。大事なものを守れるように。
何度この手を汚しても。