何度この手を汚しても《前》
人が、嫌いだった。
全てが、疎ましかった。
家族も、修行仲間も、何もかもが。
「シャルーラン、こんなところにいたのか!」
「……」
いつの間にか角度を変えていた太陽に、微睡みから覚めた目が眩んだ。
ここはアスケイル王国の東部にある、魔法使いの修行場。その隅にある、お気に入りの木陰で寝転んでいたシャルーランは、威勢のいい声に無理やり起こされてしまった。
シャルーランを起こした少年の名は、フレデリック。周囲に身分を隠しているが、その正体はアスケイルの王太子である。
フレデリックは先月十三歳になったばかりだが、現王はここ最近、ずっと体調が優れない。もとから身体が弱い王なのだ。そう遠くない未来、この少年が王位を継ぐだろう。
そんなやんごとなき身分の人物が、アスケイルでも由緒ある修行場とはいえ、なぜ魔法使いの修業場にいるのか。それは古代から続く、王家の慣習を守るためであった。
アスケイルで王に即位するには、五大職全てで一人前の位を得なければならない。これはもはや、明文なき約定となっている。王たる者が備えるべき、最低限の素質、才覚とされているのだ。
かつてこの条件を満たすことが出来ず、王太子として生まれながら一生を王の代理、宰相として過ごした者もいる。
誰もが彼の為政者の才を認めながら、『王』としては認めなかった。四大国で最も伝統と格式あるアスケイル、その頂点に立つ者としての資質無し、と。
ところで、この修業場は現在、百名近くが利用している。だが、フレデリックの正体に気がついているのはシャルーランだけだ。
王族の顔を見る機会など滅多にないし、祭りなどで顔を拝む機会があっても、遠目から見るのがせいぜいである。その事を考えると、それは仕方がないのかもしれない。
しかし、シャルーランとて顔を見知っていたわけではない。シャルーランの才覚ゆえに真実に気づけた、というのが事実だ。
だが、せめて偽名を使えと本気で思ったことがあるのも確かである。しかし下手に偽名を使わないからこそ『王太子と同名の優秀な見習い』で通るのかもしれなかった。
その王太子と言えば、同年代で二位を受けるシャルーランが珍しいのか、初対面の時から、気軽に声をかけてきた。いや、むしろ追い掛け回しているのである。
(……相変わらず鬱陶しい)
シャルーランがこの修業場に来たのは、一昨日のこと。明後日の昇級試験を受けるためだが、そうでなければ、こんな人の多いところなんかに来ない。
シャルーランは人というものが、とにかく嫌いなのだ。あまりにも自分とかけ離れ、並び立つことのない存在。
フレデリックと関わりあうことすら煩わしくて、シャルーランは再び寝転んだ。だが、フレデリックはお構いなしに喋りはじめた。
「おい、俺の課題を手伝え。お前がいれば百人力だ」
「……断る」
「何故だ。寝てばかりだし、暇なのだろう」
「眠い、邪魔だ、失せろ」
「寝てばかりでは健康に悪いぞ。それと、昼ではなく夜にきちんと寝るべきだ」
――殺してやりたい。
シャルーランは、確かな殺意を覚えた。
何なんだこいつは。今までの奴らは、一言脅せば早々に立ち去った。この王太子はそれなりに優秀で、自分の殺気が感知できないほど愚鈍ではない。というか、どんなに鈍感な奴でもこの殺気はわかる。いや、むしろ裸足で逃げ出す。
シャルーランが怒りに身を震わせると、周囲の鳥たちが一斉に飛び立った。シャルーランの発する殺気に怯えたのだ。
「ほら、さっさと来い。期限は明日なんだ」
だというのに、王太子は何の変化もない。ここにきて、シャルーランは漸く理解した。
(……こいつ、少しはマシのようだ)
この王太子、ただ『優秀』というわけではなさそうだ。自分には到底及ばない。が、そこらの低俗極まりない奴らとは一線を画している。自分の殺気を平気で受け流すくらいには。
――少しは退屈しのぎになるかもしれない。こいつなら、少しはまともな話が出来るだろう。
シャルーランは自分でも理解していない淡い期待とともに、ゆっくりと立ち上がった。
「お?」
「……いいだろう。手伝ってやる」
「よし! では、こちらに来い!」
他の奴ならなら確実にぶちのめしているだろう横柄な物言いも、この王太子だと、なぜか気にならなかった。
ついて行った先は、宿舎でも最高級の特別室だった。フレデリックの家来たち――それとなく王太子の護衛や世話をしていたのは、シャルーランには丸わかりだった――は、修行場で色々と噂されるシャルーランの登場に慌てふためいた。
だが、フレデリックはそんな状況を、声を荒げることもなく、一蹴した。
「俺の客だ。無礼は許さん」
この言葉で、シャルーランは一層フレデリックを気に入った。
余計な言い訳はしない。逃げることもしない。かといって、身分に嵩をきた、傲慢な物言いもしない。
己に相応の言葉を言うだけ――。
「シャルーラン、入れ」
「ああ」
フレデリックの部屋は特別室なだけあって豪華だったが、持ち込まれたものは衣服くらいのようだった。部屋と馴染んでいる家具は、長年使われているものだと一目でわかる。
自分を持ち歩くのではなく、自分を変えずに周囲と馴染む。そんなフレデリックの姿に、シャルーランは、またトクン、と心臓が高鳴った気がした。
「なあ、これなんだが、どうだ?」
「見せろ」
勧められて席についた後、フレデリックがシャルーランに手渡したのは、一冊の魔法書だった。今度の昇級試験に使われる課題だという。
「……。この程度が出来ないのか?」
魔法書は初級の、ごく簡単なものだった。フレデリックは位こそ持っていないが、そこそこ魔法は使えるはず。
(俺の勘違いか……?)
魔法書を捲るシャルーランは、わずかな脱力感にみまわれた。
その理由は――分からないけれど。
「馬鹿者。最後までよく読め。この中から三つの術を選び、複合させること、と書いてあるだろう」
ムッとした表情で、フレデリックが返事をした。みなまで言わずとも、シャルーランに馬鹿にされたと感じたのだろう。
そんなフレデリックの態度は気にも止めず、シャルーランは言われた通りに最後まで目を通した。
成る程、確かに最後の頁に、そう書かれている。他と字の書き手が異なるので、フレデリックが試験内容を書き留めたものだろう。
だが、引っ掛かることがあった。この内容は一人前の試験ではなく、一つ上、四位の試験内容だ。
「何故飛び級をする? 一人前より上の位は必要ないだろう」
シャルーランの『お前は王太子なのに』という言外の意味を理解したのか、フレデリックは嬉しそうに笑った。
「なに、俺は魔法が一番の得手だからな。少しでも上の位を目指したいだけだ」
「……嘘をつけ」
「嘘ではない。上を目指せる力があるから、一位を目指すのだ。それがおかしな事か? 今回は身分を組合に明かしているが、次は完全に実力だけで受かってやる」
「……面倒なことだ」
「ふん。王とて職を極めてもいいだろう」
ふと、シャルーランは頬の筋肉が弛緩していることに気がついた。
(――俺は、笑っている――?)
皮肉ではない、自然な笑みなど、何年振りだろう。最後に笑った記憶は、流石のシャルーランでも忘却するほど昔、明確な自我がない頃だった。
「その本の術程度は全て使える。お前に相談したいのは、組み合わせの相性についてだ。どうせなら派手にやりたい」
「ほう? ……いいだろう」
気付いた時には、すでに日が暮れかけていた。
シャルーランはフレデリックの注文通り、術の組み合わせについて、たっぷりと語り合った。得意とする術の属性が同じ水属性だったこともあり、話が思わず弾んだのだ。
相性や利便性を求めない、独創的な組み合わせを、フレデリックはいくつも提案してきた。ほぼ『同等』の思考でありながら『違う』視点。そんなものに生まれて初めて出会ったシャルーランは、知らず知らずに歓喜した。
「よし、このくらいにしておくか。今日は世話になったな、礼を言うぞ」
「構わん。良い暇つぶしになった」
「そうか? では何かあったら、また手伝ってくれ」
「ああ、お前相手ならいくらでも」
「そうか! よし、いいかシャルーラン。俺はいつかお前を越えるぞ。王たる俺が上に立つ。首を洗って待っていろ!」
「……」
思わずポカン、としてしまった。本当に、フレデリックは退屈させない男だ。
「く、くくく……っ」
「おい、何がおかしい!」
もう我慢できなかった。それに、理解できた。自分がフレデリックを気に入ったこと。
「くく、く、ははははは! お前、相当な阿呆だな。そんなことを言う馬鹿は、今まで一人もいなかったぞ。現実を見ろ、くく……っ」
「馬鹿だの阿呆だの、何様だ! くそっ、だから『いつか』と言っただろう! 今は無理なことぐらい、俺にもわかる。だがな、未来とは不確定なものだ、何が起こるか分からない。それに実力はともかく、お前は対人関係を築くのがド下手だからな。それが関係して修められないんじゃないか?」
「ほう。それはお前もだろう。身分不明の不審人物なんざ、伝統ある五大職の組合が受け入れると思っているのか」
「ぬぐ……っ!」
「はは、笑わせてもらった礼だ、王太子様の秘密はばらさないでいてやる。夢見がちなお子ちゃま、ってのもな」
「それはこちらの言い分だ! 不敬罪でしょっ引いてやるところだぞ」
「そうか。では、お互いの秘密で手打ちといこう。……またな」
そう言ってシャルーランは、フレデリックの部屋を後にした。
本当に愉快な時だった。本気で笑うことが人生で起きるなんて、思いもしなかった。
(あの王太子になら、仕えてやってもいいかもしれない)
国は、人の塊だ。シャルーランが忌むものが固まったモノ。王はその頂点に在る。人を護り、人を豊かにし、人を愛するモノ。
才能の片鱗を見せ始めた頃から、シャルーランは国家級での仕官の話をいくつも持ちかけられたが、その全てを断っていた。
煩わしいことこの上ないし、誰も己の上に立つ者の才覚を有しているとは思えなかったからだ。
けれど、今は違う。あれは『王』だ。生まれながらにして、上に立つべき者。
己が覇道を歩むならば、フレデリックは王道を歩む。それがフレデリックの天命。自分は、そのフレデリックと出逢った。
人との出会いが嬉しい。あり得ないと思っていたその事実を噛みしめ、シャルーランは胸の奥が温かくなるのを、確かに感じていた。