緋色に染めて ~三人、朝の一コマ~
(やっぱり、リネアって凄いよなー)
そんなことを思いながら、アルフォンスは箸を止めて向かいに座るリネアを見つめた。
ブラッドの音頭のもと大盛り上がりを見せた昨夜の宴とは一転して、レナード家の今朝はとても爽やかで和やかな時間が流れていた。清々しい雰囲気の中、アルフォンスたちはレナード一家と朝食を囲んでいた。
昨夜の宴で聞いた、リネアの笛の音。アルフォンスは、あんな音は初めて耳にした。笛の音もあの曲を聴いたのも初めてではない。むしろあの曲はアスケイルで馴染み深い曲の一つだ。
だから陳腐な言葉を借りるとすれば、それはきっと。
(たましいを、ゆさぶられた)
そう言うのだろう。けれど、それも違う気がした。
孤児院の院長は吟遊詩人の位を持っており、よく楽器を演奏したり、歌ったりしてくれた。そんな院長の口癖は『音はその人を表すのよ』だ。そんな院長の音は優しく、愛に満ち溢れていた。院の子供たちを大きな愛で包み込む。正にその姿の通りの音で。
だからあれは、リネアを体現した音なのだ。涼やかに、澄み渡った夜の空気を切り裂いたあの音は。
表されるのはただの悲しみではない。苦しみでもない。だからリネアは変わったのだ。出逢った当初とは比べ物にならないくらいに。
もしもあの頃に笛を奏でたなら、昨夜の音は出せなかっただろう。その代わり、悲愴と絶望と悔恨の音で聴衆の心を鷲掴みにしたはずだ。あまりに壮絶で、耳を塞ぐことが出来ないくらいに。
でも、あの音は鋭かったけれど悲しみに満ち溢れた音ではなかった。決して苦しみもがく人が奏でる音ではなかった。
アルフォンスは、もう一度リネアを見た。
リネアは鏡だ。自分の鏡。もしかしたら、あそこにいるのは自分で、ここにリネアがいたかもしれない。
両親を知らない界王の血族。覚醒の儀を経ないまま成長し、力が暴走する可能性があった。支えてくれたのは、父が最も信用していた賢人。
自分には首飾りがあった。違いはただ、それだけだ。
アルフォンスはもう一度だけリネアを見て、再び箸を手に取った。
(セルグは……私の考えを知っているんだろうか)
アルフォンスが自分を見ているなど露知らず、リネアはそっとセルグを見た。
昨夜のことは、ただ嬉しかった。
苦しくて辛くて泣きたくて、吐き出すことすら出来なかった痛みを受け止めてくれたから。
実を言うと初めて会った時、セルグは眼中になかった。アルフォンスにしか――いや、あの剣にしか興味はなかったのだ。
しばらく行動を共にするにつれ、セルグはどうやら自分と良好な関係を築こうとしている、と理解するようになった。長い旅を共にするのだから、そうした態度も当然かと、深く考えることはなかった。アルフォンス相手と態度が違うのは少し気になったが、それは単に男女の差だろうとも。
自分からは関わらず、深入りしないで適当に相手をしていればいい。そう思っていたのに。
それがどうしたことだ。きっかけは、ローザンが旅に加わったことだろう。今思えば、それ以前からセルグは自分に積極的だった気がする。でも、あの時。ローザンがクルツァータで言い出した、あの賭け。あれが始まりだった。自分が、セルグを意識した切っ掛けは。
何か違うものがある。アルとローザン、そのほかの人々とは違うものが、セルグに対して自分の中にある。そう理解できた時だったのだ。その答えを見つけたのは、セルグが初めて思いを明確に伝えてきたときだった。
(あれは、船の中だったな……)
苦しい苦しいと、ひどい船酔いにのたうちまわっていた船上だが、銀竜の登場あたりから、体が慣れたのか、セルグはだいぶ体調がよくなっていた。その晩、甲板で月を眺めていた自分に、セルグは言ったのだ。
好きだ、と。
あまりにも唐突で、でも真っ直ぐで。すとん、と胸の中に降りてきたその言葉は、自分の胸の中にある何かに答えをもたらしてくれた。ああ、同じなのだ――と。
そのまま想いを口にできたなら、どれだけ楽だっただろう。世界に拒まれる存在でさえなかったら。
何度も拒んだ。何度もはねのけた。それでもセルグは追いかけてきて、この手を掴まえてくれた。離さないでいてくれた。セルグは受け入れてくれたのだ。
いや、受け入れるも何も、セルグは自分を「リネア」としか見ていないのだ。自分に付属する様々な事象は、セルグにとって何の意味も持たない。
だから、そばにいる。ずっと、ずっと。ただの「リネア」でいられる、唯一の場所だから。
その奇跡に心から感謝していると、セルグは知っているのだろうか――。
(あーあ、今日からまた大変だな……)
昨晩は人生でもっとも喜ばしい時だった。それは確かだが、その嬉しさの分、これからが大変なのである。
リネアが誰かに目移りすることはないだろうが、群がる虫どもは徹底的に排除せねばならない。頭ではわかっていても、気に食わないものは気に食わないのだ。それに、目下の問題は――。
セルグはサッと視線をアルフォンスに移した。そうだ。目下の、いや、最大の問題はアルフォンスである。
アルフォンスとリネアが互いに恋愛感情がないことは明白である。これまでの長い旅の間、アルフォンスはリネアを女性として認識していないのではないかと思うぐらい、そうした反応を示さなかった。
リネアはアルフォンスを単に『恋愛対象外』としているが、アルフォンスはまた別種の感情なのだろうとセルグはみている。
アルフォンスにとって、リネアは『もう一人の自分』なのだ。だから美しいとか頭がいいとか、第三者的な誰もが抱く感想は持っても、どこか遠い立場から見ていて、それ以上近づこうとはしない。自分自身を恋愛の対象とはしないように。
しかし、それが厄介だった。リネアがもう一人の自分ならば、ささいな切っ掛け一つで、互いに手放すことのできない、絶対的な存在になるのではないだろうか。
アルフォンスはリネアに恋をしない。リネアもアルフォンスに恋をしない。それは自明の理で絶対だけれど、お互いの『一番』は、『絶対』は、もしかすると……。
(ああもう、こんな暗い考えはやめだ、やめ!)
アルフォンスのことは、自分が誰よりも認めている。頑張り屋でまっすぐで優しくて、だけどたまにドジな世界を救う勇者様。
けれど、渡せないものもある。だから、必死に守る。
(アル、お前の未来にリネアは深く関わらないほうがいいはずなんだ……)
二人が離れがたい存在になる。それは他に結びつく相手を失った時だろう。先ほど頭をよぎった『ささいな切っ掛け』など、それこそ有り得ない。ささいな切っ掛けなど生ぬるいものではなく、狂いそうなくらいの壮絶な変化が訪れた、その時に――。
これは邪推とか嫉妬とか、そんなことは関係ない。考えれば誰にでもわかる。簡単なことだ。
だからこそ、リネアは離さない。絶対に、何があろうとも。そんな未来を排除するためにも。
三人の紅い思惑が交錯する中、朝の静けさが破られる時が近づいていた――。