散華《弐》
身支度を整え終わると、ハンナに連れられ、ジョセフのもとへ向かった。道中、ハンナは思い出したように言った。
「明日からお客様がいらっしゃるわ。南方のスードという町の領主様よ」
「……!」
「明日からは忙しくなるわねぇ」
疲労を滲ませた溜め息を漏らすハンナをよそに、ラルフの頭は新たな情報を得て、改めて計画を練り始めていた。
自分を迷わず拾う物好きのことだ、ジョセフは新入りをすぐに『試す』だろう。客人がいようとそれは同じこと。自分に興味を持たせておけば、すぐに片が付く。
そこに客人の出現とは有り難い。罪を被ってくれる贄のご登場だ。
わずかに高揚した気分のまま、ラルフはジョセフの部屋の前に立った。ハンナが扉を開ける。
「旦那様、失礼致します」
(どうせこの地は去る)
感慨など、塵一つほども有りはしない。
残された期限は六日。少し手荒くなろうが、必ず客人が滞在する間に始末をつけてみせる。
「おお! ルビー、見違えたぞ!」
二人が部屋に入るなり、ジョセフは歓喜の声をあげた。
ラルフは身体の汚れを落とし、服は見栄えのするものに着替えた。食事もたらふく食べ、血色はそれなりに回復している。見違えたというのは、あながちに嘘ではなかった。
「ありがとうございます。……旦那様」
「うむ、うむ。明日は大事なお客様がいらっしゃるんだよ、ルビー。しばらくハンナのもとで仕事を習いなさい。いいね?」
「はい」
「よし、いい子だ。ハンナ、ルビーを頼むぞ」
「かしこまりました」
好色な笑みを隠そうともしないジョセフに、お辞儀をするハンナの顔には諦めの色が浮かんでいた。
その後、ラルフはハンナに連れられ、厨房へとやってきた。簡単な説明の後、皿洗いなど単純な仕事を与えられる。
ここなら館内の情報も逐一、女中の噂話として手に入る。ラルフには好都合な職場だ。
かしましい女中たちも初めのうちはラルフに怯えて口を閉じていたが、ラルフが真面目に仕事をやれば、害はないと分かって一安心したのだろう。次第にいつも通り、やかましく働き始めた。
やがて一日を何事もなく終えると、ラルフは得た情報を整理するため、部屋に戻った。
客人は僧侶だが領主でもあり、近くの教会に来たのをジョセフが招いたという。これを機にお近づきに、というやつだ。
僧侶ならば大抵は偽善者、そうでなければ愚かなお人好し。領主も務め上げるとすれば、強かな前者か。どちらにしろ、好都合だ。疑り深い魔法使いより、格段に御し易い。
翌日、昼前になると、使用人は目まぐるしく動き始めた。そろそろ客人が到着するらしい。
色々と問題があるとは言え、ラルフも使用人の一人だ。雑用ばかりだが、さっそく大量の仕事を言い付けられた。
ラルフは元来、働くことが嫌いではない。それに、ここの使用人頭は人の扱いが巧かった。一瞬でその人がの能力を見抜き、相応の仕事を言い付けてきた。『仕事が出来るか否か』で人を判断する、ラルフにとって最も好ましい人種だ。
「おい、次はこれだ」
「はい」
次々に言い付けられる仕事をこなしなていると、門が開く音がした。客人が到着したのだ。
「お客様が到着されたようだな。ではその仕事は他に回して、お前は厨房を出るな」
「――わかりました」
ああ、本当に有能だ。
(使える奴だと気づいても、客人の機嫌を損ねる俺を外に出さない)
先ほどまでの好意が、一瞬で何か冷たいものに変わっていった。生まれたときから、いつものことなのに。
結局ラルフはこの日、就寝時まで厨房を出ることは無かった。
深夜、ラルフは日付が変わって少し経ってから、ベッドを抜け出した。
(……明後日の夕方)
客人は帰り、館は日常に戻る。
依頼は絶対だ。こなさなければ、その瞬間から自分が狙われる。
ラルフは足音を忍ばせて部屋から出た。音もなく外に出ると、ひとまず散歩の振りをして、庭を歩き回る。
領主の寝室はすでに確認済みだが、周囲の確認も必要だ。
草木も眠る丑三つ時。今はヒトならぬモノの時。それは――。
(狩りの時間だ)
恨みはない。ただ、恩もない。だから殺すけれど、一瞬で。余計な苦しみは与えない。
一歩一歩、獣のように目的地へと近づいていく。まだ下調べの段階だというのに、どうしても血が騒ぐ。瞳が爛々と輝く。
――俺は殺戮に興奮している。
ラルフの顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。
(あそこだ)
近くの木に登り、窓の中を伺った、その時。
「――おや、君も眠れないのかな?」
「!?」
さく、と草を踏む音がした。
「この館の方かな? 申し訳ないが、散歩に出たら迷ってしまって……」
ド、ド、と心臓が跳ね回る。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。付近に人の気配は感じなかったのに、いつの間に。
(身なりからして、こいつがスードからの客人か。……俺の意図はバレてないな)
色々と仕込む前に客人とは関わりたくなかったが、この状況では仕方ない。ラルフは一息に木から飛び降りた。
「おお、若いなぁ。元気でよろしいことだ」
「……ルビーと申します。お困りのようですので、私が部屋までご案内致します」
「それはありがたい。けどね、一ついいかい?」
「?」
還暦に届いたばかりだろう、老紳士然とした客人。髪も髭も、白と灰が入り混じった色合いをしている。
そんな男が、何とも優しい声で言った。
「君はまだ成長期なのだから、この時間は寝ていなければ。しっかり睡眠をとらなければ、背が伸びなくなってしまうよ」
「……は?」
予想外――いや、有り得ないその言葉に、ラルフは客人を凝視してしまった。
――何を言っているんだ、この男は。気配の消し方から、かなりの上手だと思ったのだが、単にただの馬鹿なのだろうか。
(俺を見て、他に言うことはないのか……?)
「こんな時間にも仕事があるのだろうけど、なるべく寝た方がいい。まだ君は子供なのだから」
「……! お客様、お戻りになられるのでしょう、お早くお願い致します!」
「え、あ、ああ、申し訳ない」
しまった。そう思ったけれど、もう遅い。
(客人に声を荒げるなんて。朝になればジョセフに告げ口されてしまう)
気に入らないもの、僅かでもその可能性があるものは、徹底的に排除される。
よく分かっていたはずなのに、あんなことを言ってしまった。無力な子供よ、と蔑まれることが、何より耐え難くて。
しかし客人は、そんなラルフの予想をことごとく覆していった。
「すまない、ついお喋りが過ぎてしまったな。ルビー君、部屋に案内してもらえるかい」
「は……い」
なんだ、何なんだ、この客人は。
頭が混乱して、上手く事態が飲み込めない。整理ができない。
何で自分に謝る? 何で自分に何も言わない?
今までに体験したことのない扱いに、ラルフは混乱の極みに陥った。
怪しまれれば死あるのみ。本能とでも呼ぶべき危機意識で、何とか客人を部屋に案内したものの、ラルフはその間の記憶が判然としなかった。
「おお、ここだ。ありがとう、ルビー君」
「……いいえ」
こんな状態でよく部屋まで送り届けられたものだと、ラルフは自画自賛したくなった。
「ではね。お休み、ルビー君」
「……お休みなさいませ」
客人が部屋の戸を閉めるのを見届け、ラルフは安堵の息をもらした。
――まったく、訳の分からない人物だった。
(……ああ、そうか。妖力の感知、出来ないんだな)
高位とはいえ僧侶、その職に妖力は必要ない。容姿に反応を示さないのは、単に興味がないだけなのだろう。
――いや、もしかして他の大陸では、こうした姿の人々が暮らしていたりするのだろうか。巡礼先で見たことがあって、だから気にならないんだろうか。
(馬鹿な。そんなこと、あるはずがない)
そんな愚かな希望は、無惨に打ち砕かれるだけ。もう何度も願っては絶望してきたのだ。
(今さら、俺は何を……)
ラルフは唇を強く噛みしめると、下調べも忘れて自室へと駆け出し、勢いよく寝台へ伏せった。
やがて朝日を浴びた館は、にわかに目覚めはじめる。使用人たちのざわめきで起床して、ラルフは初めて自分の失態を理解し、愕然とした。
(俺は、いったい何を……?)
昨晩は大切な機会だった。現場の下調べは、自分の命を守るために必須。上手くやれば、客人に罪をなすり付ける手筈も整っただろう。それなのに。
――自分の中で何かが狂い始めている。
嫌だ、こんなのは知らない。こんな苦しさは要らない。こんな胸の痛みは邪魔なだけだ!!
(あの客人のせいだ!!)
意味不明な言動をとるあの客人。そのせいで自分は混乱した。
(殺す、殺す殺す殺す殺す殺してやる!)
金にならない殺しは面倒な事態を招くだけだから、普段は絶対にやらない。
しかし、これは別だ。あの客人を殺さなければ自分が狂う。そうなれば、この先には死しかない。
(もう迷っている暇はない。二人とも殺してやる!!)
ぶわっ、とラルフの妖力が、一瞬でその強さを増した。辺りを殺意に満ち溢れた妖力が覆い尽くす。
そのため館にいる人々は、一様に胆を冷やした。もしや己の命は狩られるのではないか、と。理由なく怯えてしまうほど、ラルフの発した妖力は強大だった。
ただ、ラルフもこのまま妖力を発していれば自分の身に危険が及ぶことは十分に理解していた。理性が戻るや否や、すぐに妖力を収める。
一度目を閉じ、ゆっくりと開ける。するとラルフはもう、完璧に平静さを取り戻していた。深呼吸を一つして、部屋を出た。