散華《壱》:ラルフ
※この話には残酷な描写が含まれます。ご注意ください。
長い時間、船に揺られていた。何度も沈んでは昇る太陽と月を見た。
それが最初の記憶。
一人の少年が建物――今にも崩れそうな掘っ立て小屋――の陰に座り込んでいた。
ここは新大陸アイル。しかし、それ以外の地名は存在しない貧民窟だ。
作物には実りを、人々には憩いをもたらす、穏やかな陽光。それはこの貧民窟にも分け隔てなく降り注いでいるが、少年は痩せこけた小さな身体をさらに小さくして、その光を避けるように座り込んだままだ。
少年の体の色素は異常なまでに薄く、まだ幼いというのに、すでにその毛髪は色を失い、降り積もった雪のような色をしていた。
ふわりと吹いた熱を帯びた風に、少年がゆっくりと顔を上げる。
死人のような顔をしながらも、瞳は強い力を秘めていた。ギョロリと動いた瞳の色は、血の色を映した紅。幼さゆえの美しさと妖しさを、少年は持ち合わせていた。隣に死を携えて。
少年が暮らす大陸の名は、アイル。その名の意味は希望。
しかし現実は残酷なもので、この少年のように貧民窟に暮らす人々は数多い。そんな彼らにとって希望などという言葉は、嘲笑りの対象だ。希望など有りはしない。絶望の淵を這いずりまわって生きぬくのだから。
この貧民窟では、どこも生ごみが腐ったような、嫌な臭いが充満していた。だが雨で汚水が溢れ出ないだけ、今日はマシだ。
少年――名をラルフという――は日中の活動を得意としなかった。生来の体質であるらしく、なぜか日光に当たるとすぐ弱ってしまう。だがその分、人並み以上に夜目が利いた。
長い時間、ほとんど動かないで過ごしたラルフは、日が傾き始めた頃、痩身の身体を壁に預けるようにしながら、ゆっくりと立ち上がった。
ラルフがこの貧民窟に来たのは半年ほど前だ。物心つく前に捨てられたラルフは、何度も死にかけ、その度に這い上がってきた。生を本能のまま渇望し、生きるために犯罪を繰り返した。
初めて人を殺めたのは三年前だ。理由はわからない。けれど、いつの間にか相手が死んでいた。目の前で、首から真っ赤な血を流して。その時、以前いた組織に拾われた。そこで徹底的に暗殺術や武器の使い方などを仕込まれた。だが、その組織も今は存在しない。内部分裂を起こし、一夜で崩壊したのだ。
血のように赤い瞳、色素を失った真っ白な髪、病的に青白い肌。
そんな容姿の子供は誰もが気味悪がり、利用しようという考えの奴以外、近寄ろうともしない。その上、ラルフは生まれつき妖力が強かった。組織の妖術者くずれ曰く、ラルフは他の三つの特殊力は微弱だが妖力だけ突出して強く、一般の十倍以上あるという。
だが、妖力はどの土地でも忌むべき力だ。妖力を用いる者、強く持つ者は、例外なく拒まれる。
だからラルフは今夜、この貧民窟から去るつもりでいた。
この貧民窟を支配しているのはその頑強な肉体に反して――いや、比例してと言うべきか。随分とお粗末な頭脳しか持たない青年だ。
どこかに盗みに入る時など、作戦を立てるのはいつも他の人間だ。たまに取り巻き達にいいように扱われているのだが、青年は一生気がつかないだろう。
その青年たちから色々な面で、ラルフは目をつけられていた。いつまでも残っていれば、面倒に巻き込まれてしまう。
ラルフは建物の陰を縫うように道、いや隙間を進み、ラスの町に繋がる森に出た。
貧民窟とラスは森を介して繋がっており、ラスのおこぼれを頂戴する形で貧民窟は成立している。
この森はラスまで行くのに近道だが、魔物が住んでいる。だから人は立ち入らない、ラルフにぴったりの道なのだ。強い妖力は修行などせずとも、森の魔物など敵ではなかった。
それにラスの住人は何かあっても、わざわざ回り道をしてまで貧民窟に来ない。例え来たところで、無駄だと理解しているのだ。貧民窟は森以上に不可解な造りで、そこに暮らす者でさえ進路を誤るのだから。
やがてラルフは森を進み、ラスの西側にやってきた。
「おい、生きてるか爺さん」
ラルフは己の容姿が目立たないよう、用心して、ぼろぼろの布きれを被りながら一軒の扉を叩いた。町の隅に建つ、古ぼけて薄汚れた家だ。
「大した挨拶だな。さっさと入れ」
「邪魔するぞ」
「全くだ」
中に居たのは、一人の老人だった。老人の残り少ない歯は、煙草や酒でヤニが溜まり、黄色くなっている。爪も同様だ。家中の壁もまた無惨な様子を呈している。
「ひひっ、どうした、まだ日は落ちてないぞ。珍しいじゃないか」
嫌な笑い方だった。ラルフを客として扱ってはいるが、その目は確実に蔑んでいる。
だがラルフもそれは百も承知だ。そもそも生まれてこの方、『まとも』な目で見られたことなど無い。
「仕事をくれ」
「ほう? この前紹介したばかりだろう」
「雑魚を掴ませたくせに。俺はもうここを出る。金がいるんだ」
「ひひっ。そうかい、そいつは残念だ。お前さんは役に立ったんだが」
「仕事はあるのか」
「年寄りを急かすな。どれ……」
老人は奥の部屋に入り、何かを探してきた。一つの封書だ。
「お前さん、文字は読めたか?」
「大体は読める」
もう四ヶ月の付き合いだというのに、互いの名前すら知らない。
相手は何をする奴なのか。知っているのは、それだけだった。
「何だ、この町か」
「そうだ。楽でいいだろう?」
「相手が相手だ。領主じゃないか。……期限は?」
「一昨日、『十日で』と受けた」
「なら、残りは七日か」
「そうだな。ひひっ、書いてある通り、報酬は高いぞ。どうする?」
ラルフは老人を睨み付けた。
どうする、と言おうが、指令を見た以上、拒むことは許されない。ラルフに残された選択肢とは、どんな方法をとるか。それだけだ。
「……明日から始める」
「そうかい。それじゃあな」
老人はラルフの返事を聞くと、さっさと出ていけとばかりに、前金である金を投げつけて寄越し、せわしなく追い立てた。
ラルフも慣れたもので、その態度の変化に目くじらを立てるでもない。早々にこの家を去り、貧民窟を目指した。月だけが照らす帰り道、明日の計画を練りながら。
翌日。ラルフは目立つその容姿を、比較的まともな布を被って隠しながら、夜明け前の町を歩いていた。
このラスの領主は有能ではあるが、それだけ敵が多い。しかも好事家なため、色々な問題も抱えている。狙いはそこだ。
「おい、そこの君」
領主の館を目前にした時、一人の男がラルフに声をかけてきた。
――かかった。
「……はい、何ですか?」
ラルフはわざとしおらしい声で、怯え気味に答えた。男はそれに気を良くしたのか、声を僅かに弾ませた。
「こんな早朝に何をしているんだい? しかも布なんか被って」
猫なで声になった男はラルフが答えるのを待たずに、被っていた布をとろうとしてきた。
「や、止めて下さい!」
布に手がかけられる直前、ラルフは怖がる素振りを見せ、一歩、後退りした。
男は好色な笑みを浮かべ、ラルフににじり寄った。
「ほう、何でだい? 何を隠しているのかな」
「見ないで下さい。みんな、みんな不気味だって言うんです」
声を震わせ、俯いてラルフは言う。
「成る程。どれ、見せてご覧。私はどんな姿でも拒まないよ」
「……本当に?」
「ああ、本当だとも」
より喜色満面になった男は、ついにラルフの被っていた布をとり、その姿を見た。
「ほう、これはこれは……」
ラルフの珍しい容姿にも目を引かれたが、男が注目したのは別の部分だった。
「磨けば光る。坊や、私とおいで」
少年特有の中性的な美しさと、その容姿ゆえの妖美さに、男は惹かれていた。
男はラルフの手を引き、館の裏口に回ると、持っていた鍵で錠を開けた。ガシャリと重々しい音が響く。
「あ、あの。おじさんは……」
「まだ私の正体は秘密だ。なに、悪いようにはしない。着いておいで」
そう言った男は裏口の鍵を閉めないままで、館へと入っていった。ただの子供ならまだしも、幼くも裏の世界の住人であるラルフは、これで隠しているつもりか、と言いたくなる。
(使用人が勝手に子供を連れ込んだ上、鍵を閉めずにいるものか)
ラルフは男の後ろを付き従いつつ、こっそりと子供らしからぬ皮肉の笑みを浮かべた。
領主の性癖は貧民窟では有名だった。奥方も子供も、半ば公認の愛人すらいるくせに、夜な夜な町に出ては相手を買う。それも娼婦ではなく、少年を。
この町には少年が売春する店はない。お相手は貧民窟や路上の住人だ。彼らは生業としている奴も少なくない。領主としても安上がりで済む上に、後腐れのない相手だ。
その上で、気に入った少年を従僕だの何だのといって、囲うことも少なくなかった。
初めから政略婚で愛などない夫婦間、金さえ与えれば女からの文句はない。また、領主はこの道楽に溺れきることはなく、仕事はかなり有能だ。そのため、周囲も強く言えずにいるのだ。
「君、名前は?」
「……ありません」
「そうか。では私がつけてあげよう。ううむ、そうだな……」
こういった男が悦ぶ術を、ラルフは経験として知っていた。
まず、相手の征服欲をそそってやるのだ。怯える振りをして、一度は拒む。その後で受け入れてやればいい。しかも『自分だけ』という言葉を使わせて。
そうすれば、男たちは少年に『自分だけ』という言葉を刷り込めたと思い込む。自分自身に刷り込んでいるとも知らないで。
「よし、ではルビーにしよう。美しい紅の宝石だ。君にぴったりだ」
「ルビー……。僕、ルビーなんですね! ありがとうございます」
「うむ」
名付けは最良の手段だ。人は己の所有物に名前を付けるが、他人の物には付けられない。だから、名前を付けさせる。独占欲を煽ってやるために。
「ではルビー」
男が一つの扉を開けた。使用人のための、小じんまりとした質素な部屋だ。
「ここを君の部屋にしよう。そろそろ他の使用人が起きてくるから、誰かに聞いて、まず湯殿に行きなさい。身支度を整えるんだ」
「はい。……あの、おじさんは何てお呼びすればいいですか?」
「それも聞いておくといい。楽しみにしているよ」
何を楽しみにしているんだ、この好き者め。
心中で毒づきながらも表情には出さず、ラルフは男を見送った。廊下の角を曲がったのを確認してから、備え付けのベットに腰を下した。
(まずは成功したな……)
薄明かりが差し込み始めている窓の外を見つめた。
言われた通り湯殿に入り、身綺麗にさせてもらおう。貧民窟ではお湯どころか、水さえ満足に手に入らないのだ。食事も遠慮なくいただくとしよう。
そうこう考えているうちに、人の気配がしてきた。使用人が起き出したのだろう。ラルフは歪んだ笑みを浮かべて、部屋の扉を静かに開けた。
廊下で出会った年かさの女中は、ラルフの容姿に驚くと同時に、またか、と言った顔をした。詳細を説明せずとも、慣れたものなのだろう、手早く湯殿や食事の用意を済ませた。
名をハンナと言い、ラルフを気味悪がってはいるが、仕事は仕事、そう割り切る人物らしい。
「あなたを連れてきたのは領主のジョセフ様よ。旦那様とお呼びしなさい」
「はい、ハンナさん」
使用人の食事とはいえ、貧民窟のように腐りかけの肉や野菜を貪るわけではない。ラルフは遠慮なく、胃に入るだけ食事を詰め込んだ。
「あなた……。ここでのお仕事、わかっているの?」
ラルフの服を用意していたハンナが、ふいに言葉を濁した。いくら気味が悪いとは言え、ラルフも幼い子供だ。流石に哀れんだのだろう。
しかし、ラルフはこの言葉で一気にハンナを蔑んだ。
(問い返されたら返答も出来ないだろうに)
言葉だけの仮初めの心配など、吐き気がする。感情を挟まず仕事に徹する、好ましい人間かと思ったのに。
「さあ……。だけど、どんなお仕事でも精一杯頑張ります!」
「……。そう、ね」
無邪気な笑みを浮かべてやれば、ハンナは言葉を失った。
――見て見ぬ振りをする、薄汚い大人ども。所詮、この老いぼれ女もその一人だ。
胸に渦巻くどす黒いモノを抑えながら、ラルフはコドモの仮面を被り続けた。