主のご加護を:ニーナ
いつも見てきた祖父の大きな背中。
地域の人々の尊敬と親愛を一身に集めてきたその姿に、幼い私は神を見た。
「ニーナ、今日のお勉強はもう終わったのかい」
「うん! ちゃんとがんばったよ、おじいちゃん!」
「そうかい、ニーナは偉い子だな」
祖父のリーは今年で六十。チルト派の僧正として、このライナの町に赴任している。
メリコでも有数の規模を誇るライナだが、その分、心の救いを求める人は多いのだろう。祖父はいつも忙しく身を粉にして職務に励んでいた。
そんな祖父が私は大好きだった。
家族は全員がチルト派の僧侶だが、父は修行のために去年から遠く南ドーニャに移り、母もそちらに暮らしている。
二人は来年、私の六歳の誕生日に戻って来る。その日を心待ちにしながら、私は祖父と二人で暮らしていた。
「あのね、ニーナ、お昼ごはん持ってきたよ。いっしょに食べよ!」
「そうかい、ありがとう。じゃあ教会の庭で食べような」
たった一人の孫である私を、祖父はとても可愛がってくれた。
そんな暮らしを送る私にとって、チルト派の僧侶を目指すのは当然の流れだった。祖父も幼子に分かるよう、堅苦しくならないように気をつけながら、教義をお伽噺のように教えてくれた。
そんな、ある日。
「ニーナ、いい子でお留守番をしているんだよ。明日の昼には帰るからね」
教会の都合で一泊の出張が決まった祖父だったが、それも慣れたこと。何日も家を離れることもあり、そうした時はいつも隣のジェミおばさんが面倒を見てくれていた。
「うん、だいじょうぶだよ。おじいちゃん、行ってらっしゃい」
「ああ。じゃあ行ってくるな」
祖父を見送った私は昼食を早々に済ませ、ジェミおばさんが夕食を用意してくれるまで、勉強と偽って部屋に入り、こっそりと窓から庭に出て近くの野原へ遊びに行った。
そこは小さいけれど綺麗な花畑なのだが、何故か町の大人たちは近づかないし、その理由も言おうとしない。
ただ、火事があった痕跡があり、きっとその事が関係しているのだとは予想がついた。倒れた木々は焼け焦げ朽ち果て、新たな命の苗床となっている。
(今日はお花をつんでかえろう。ジェミおばさんにもあげるんだ)
今は夏、青いユクの花が綺麗な季節だ。林を抜け、子供には少し登るのが辛い程度の崖をよじ登り、目的の場所へと到着した。
大人たちが嫌うため、この場所にはあまり人が来ない。町から来るには道程が面倒なこともあるのだろう。
(――だれだろう?)
花畑の真ん中に佇む、一人の男性。後ろ姿しか見えなかったが、何かが彼に近づくことを躊躇わせた。
それは雰囲気というべきか、はたまた空気というのだろうか。とにかく、いつもの遊び場である花畑が、まるで彼のために用意された場所に思えたのだ。
――畏怖か、恐怖か。
初めて覚えた名も知らぬ感情に、私は思わず後退りしてしまった。
(あっ!)
ポキッ、と小気味のいい音が足元から響く。
「――おや、町の子かな」
踏んで折ってしまった枝の音に反応して、男性は真っ直ぐにこちらを向いた。
男性はフードを目深に被り、顔はよく見えなかった。声は低くてとても綺麗だったけれど、温かみなど全く感じられない。
「あ、あ、あの……」
「ここに来る子供がいたとは驚きだ。君、親に何も言われなかったのかい?」
一言、声を聞く度に。一声、言葉をかけられる度に。
身体中の細胞が叫び出す。彼にひれ伏せ、と。
一歩ずつ。ゆっくりと近づいてくる男性が恐ろしくて、体が震えるのを止められなかった。
「――答えられない、か。まあいい。ここには二度と立ち入るな。チルト派の僧侶を目指すのだろう?」
「! な、なんで……」
「身なりを見れば分かる。首から下げてる輪十字の飾り、額の布。どちらもチルト派のものだし、ここから一番近いライナの町はチルト派の支部がある」
「……っ」
「子供、分かったのならば去れ。そして二度と来るな。さもなければ、後悔することになるぞ」
男性の口調はどんどん厳しくなっていく。
言われたことは理解出来ていたが、強く脈打つ心臓が邪魔をして口を開くことが出来なかった。
「子供、もう一度だけ言う。ここを速やかに去り――」
「ニーナです」
「?」
「子供、じゃないです。わたしは、ニーナです」
何でそんなことが口をついて出たのか。
きっと自分でも、一生わかるまい。恐怖のあまり頭がおかしくなっていたのか、それとも――。
「――ほう、面白い。いいだろう。お前の名前を呼んでやる。……ニーナ」
「!!」
心臓が鷲掴みされたかのように、わけの分からない、けれど激しい痛みが胸を襲った。
「名は存在の証だ。『子供』という呼び名で呼ばれていれば、お前は特定されなかった。……だが、まあいいだろう」
男性が空を手で撫ぜるような素振りを見せると、急速に胸の痛みは治まっていった。
ゼェゼェと激しく呼吸を繰り返す私を見下ろしながら、男性は笑った。かすかに覗いた、とても美しいその顔で。
「殺そうと思ったが、生かしておいてやる。面白い僧侶になりそうだし、試験終了まで時間もないからな。だがニーナ、二度とここに立ち入るな。――次はない」
そういうと男性は、右手を私の頭にかざし、何らかの術を発動させた。
「あ、ああ……っ!」
「お前とはもう一度会いそうな気がするよ。あの子供にもどことなく似ている。……だが、覚えていれば面倒があるかもしれないしな」
「や、いや、こわい、おじいちゃん、おじいちゃ――!」
「――忘れれば恐怖も忘れる」
パン! と光が破裂して、私はそこで意識を失った。
「……ここは私だけの場所だ。もう一度燃やして浄化するのは面倒だからな」
その言葉は、私の意識に留まることはなかった。
「――ちゃん、ニーナちゃん」
はっ、として飛び起きた。あの野原にいたはずなのに、いつの間にか私は自宅の寝室で眠っていたのだ。
「ごめんねぇ、遅くなって。待ちくたびれちゃったんだね。夕ごはん持ってきたよ」
「ジェミおばさん……」
「さ、下においで。用意しておくからね」
まるで夢のような一連の出来事に、私はただ呆然とするしかなかった。空はもう紅くなって、夕陽も沈みかけている。
あの男性は確かに私に術を使ったはずだ。恐らく、記憶を奪う術を。しかし、あんなに恐怖した割には、記憶はほとんど失われていなかった。
ただ男性の容姿や、あんなに恐怖した声についてはどんなに思い出そうとしても、欠片も思い出せなかった。
(しっぱい……したのかな)
それとも、そもそも自分についての記憶だけを奪う術だったのだろうか。
キュ、と布団を握り締め、強く目をつぶる。
――どちらでも関係ない。あの野原にはもう行ってはいけない、それだけだ。
(みんながあそこをいやがってたわけは、あの人だ。あの人がいるから)
ジェミおばさんが待ってる。早く下に行かなければ――。
そう思って寝台から足をおろした、その瞬間。
「――!!!」
体を突き抜けた、『死』の恐怖。
思わず足を引き寄せて体に密着させたが、体はガタガタと震えだし、ついには涙が零れだした。
(おじいちゃん、おじいちゃん!!)
わかってる。祖父は来ない。今頃は目的地に着いているだろう。だけど、だけど。
――たすけて。そばにいて。こわいよ、ひとりにしないで!!
「――おじいちゃぁああん!!」
「ニーナ!!」
「!? おじいちゃっ……!」
これも夢かと思ったが、自分を抱きしめてくれたその暖かさに、祖父が本物だと確信することが出来た。
「おじいちゃ、おじいちゃ……!」
「よしよし、怖かっただろう。もう大丈夫だ。わしがいるからな。もう大丈夫だぞ、ニーナ」
泣きじゃくる私を抱きしめ、祖父は優しく語りかけるように言った。
「これもチーリス様のお導きだ。急に予定が変更になったんだよ」
「おじいちゃん……」
「何があったかは分からないが、もう大丈夫だ」
「……うん」
ああ、我が主よ。偉大なるチーリスよ。
体を突き抜けた『死』の恐怖。だけど、あれは叫びにも思えたのです。私と同じく、『ひとりにしないで』という。
なぜか、私はそう感じたのです。けれど、私はそれを誰にも言えません。あの野原での出来事も。
どうか、あの悲しく壮絶な叫びを発した方に、主のご加護がありますように。
そうして記憶と恐怖は、時とともに薄れていく。
「ニーナ、忘れ物はない?」
「うん、大丈夫だよ。お母さん」
あれから五年。十才になった私は、正式にチルト派の僧侶となるため、家を離れて他の町にある僧房に入ることになった。
「さ、もう出発の時間よ」
「うん。行ってきます!」
「頑張るのよ、応援してるわ」
そうして着いた町は、薬草市が有名な町だ。
――運命の出会いまで、あと五年。