優しい歌を貴方に《後》
――よんでる。
だれかが、かなしいこえで。はやく、こたえなきゃ。
揺らめく意識の中、ローザンは誰かの声を聞いた。
大事な人の声だ。ああ、泣いている。喪失に怯えて泣いている。お願い、泣かないで。
(いま、こたえるから)
重い目蓋をゆっくりと開けると、そこには泣き崩れるマオの顔があった。
――さっき夢うつつに聞いた泣き声は、マオだったのだろうか。
「……マオ。泣かない、で……」
「ローザン!」
どうやら自分は、火占いの最中に倒れたらしい。今、マオに膝枕をしてもらっている状態だ。
だけど身体に全く力が入らないなんて、こんな代償は初めてだ。
「良かった、気がついて……。このままだったらどうしようかと……」
「心配かけてごめんなさい。マオ、母様は?」
「それが……」
「?」
目をそらしたマオを不思議に思ったが、そういえば――何か変だ。
ローザンは何とか身体を起こすと、ゆっくりと辺りを見回した。
「な、何よここ……」
まるで夕焼けの世界だ。
全てが真っ赤な場所だった。空も大地も――いや、その境すら見当たらない。ただ、赤だけが広がっていた。
呆然とするローザンに、マオがぼそぼそと事態を説明してくれた。到底、信じられるものではなかったが。
「あの、ね。ローザン、火に飲み込まれたのは覚えてる?」
「え、ええ。そこまではしっかりと……」
「私、咄嗟にローザンの手を掴んだ。そしたら、私も火に飲み込まれて……」
火占いは失敗だった。呪文詠唱が終わる前に、中心の術者が火に飲み込まれたのだから。
ただ、マオはローザンが炎に消えていく姿を見ているだけなんて出来なかった。たった一人の、何よりも大事な友達なのだ!
だから手を掴んだ。そうして一緒に火に飲み込まれ、目を瞑った――。
「だけど、熱さを感じたのは一瞬だった。驚いて目を開けたら、もうここにいて……」
占いが失敗した場合、術者は様々な代償を払わなければならない。それが未来を知ろうとした、分不相応なことをしたツケだ。
しかし大抵は多めに霊力を削がれるだけで、火占いのように身に危険が及ぶものは少ない。
かといって、火占いでも術者をどこかに飛ばすなんて聞いたことがない。おまけに手を繋いでいた者まで一緒に飛ばすなんて。
「そんな……。どうしましょう、帰れるのかしら」
「……分からない」
見たことも聞いたこともない赤い世界で、無力な子供が二人。怯えるなというほうが無理だった。
それでも、まだ心は失っていない。二人なら、立ち向かえる。
「マオ、占具は持ってる?」
「うん。札なら……」
「じゃあ、占いましょ。私とあなたなら、必ず答えが出せるわ。ここが何処なのか、どうやったら帰れるのか」
「ローザン」
「風は凪いでも、いつかはまた吹くわ。でしょう?」
「――うん!」
マオは懐から一組の札を取り出すと、赤い地面に置いた。擦りきれて手垢が滲んだ札は、一目で使い込んだことが分かる。
母の、形見だった。
「マオは札占いが一番得意だものね。ふふ、頑張りましょ」
「うん。ローザン、さあ札をきって」
「任せて!」
ローザンとて占者の修行は積んでいる。札をきる手に迷いはない。
札の山を二つに分け、それを両手で円を描くように三回、かき混ぜる。
そしてまた一つに纏め、同じことを三度繰り返す。終わったら山から札を取り、右回りに一枚ずつ伏せていく。
(待っててね、父様、母様、みんな。必ず帰るから)
――私には待ってる人がいる。絶対に帰らなきゃいけないのよ!
そう心の中で叫んだローザンは、最後の――十三枚目の札を円の中心に伏せた。
「さあ、札よ。導いて。示して。私たちが進むべき道を」
そう言うとマオは、北と南の場所にある札を表にした。
場を作るまでがローザンの役目。ここからはマオの領分だ。
位置や向き、組み合わせ。それらが一つでも違えば、全く別の意味になる。それが札占いだ。いくつもの意味を持つ札を、ゆっくりと、読み解いていく。
「大いなる力。門、扉」
示された絵札の内容。そこに表されたものを読み取りつつ、新たに東と西の場所の札をめくる。
「進展、前進。……後退、後戻り」
(……?)
全く逆の意味を持つ札が出たことに違和感を覚えつつも、次の札、北と東の間にある札を返した。
「神、精霊。大地」
――何かが、おかしい。
「声、歌。漆黒、夜」
だが占いを途中で止めれば、占者に何らかの影響が出てしまう。だから違和感は拭えないが、このまま続けるべきだ。
そう考え、マオは再び札に意識を集中させた。
南と西の間の札。続いて北と西の間の札を表にする。
「赤、夕焼け。月、黄金」
さらに、輪の残り二枚をめくった。
「子供。愛、友情」
そして、最後の中心の札を。
「――絶望、死……」
間違いなく、今は最も見たくない札だった。
禍つ事を示すこの札。
「死の札……。けどマオ、他の札の解釈が分からないわ」
死の札は禍つ事を示す札。けれど組み合わせ次第では、乗り切るべき困難などを示す場合もある。ただ忌むような札ではない。
「こんなの、私も初めて。だけど……」
いつもは札が答えを教えてくれるかのように、いとも簡単に読み解くことが出来る。なのに今回は、複雑な暗号でも示された気分だ。
だけど一つだけ。この答えだけは、すぐに分かった。
「幼い誰かが、友を失う……」
マオが告げた解釈にローザンは絶句した。
幼い誰かが、友を失う?
(嫌よ、そんなの!)
「マオ、他の札は!?」
「落ち着いて、ローザン。……札はただ、大いなる力とだけ……」
マオは死の札の上に手を置き、小さく息を吐いた。
「もう一度……」
まだ札は動かしていない。示された答えを、読み解かなければ。
途端に、辺りの空気が変わった。マオがありったけの霊力を札に込めているのだ。全神経を集中させるため、瞳が空ろになる。まるで別の世界を見ているかの如く。
ローザンは唇を噛みしめた。この先は何の力にもなれない。マオに全ては託された。
――唐突に、マオの瞳に力が戻った。
「ローザン、これは一つずつ読み解くの!」
「え?」
「死の札が中心で、大いなる力……神の札が最初。そして、始まりと終わりの札。これらは『段階』を示してる」
「成る程。どうりで謎かけみたいな並びなわけだ」
「一緒に読み解こう。まず最初は神の札と、扉の札」
「この場合は神と言うより、大いなる力のほうが良さそうね。入り口を示す位置だもの。扉は……、出口だし、そのまま?」
「うん。そうなると……」
そこでローザンは閃いた。
「大いなる力。あの扉よ、マオ」
「前に長老が言ってた『界王の扉』ね。それが始めの場所にあるなら、この札は……」
――見えた。
「『界王の扉から来た者が、幼子の友の命を奪い、月夜の大地を赤く染める。その大地より大いなる力を与えられるも、神の……界王の力により、帰りは死の扉へと。愛情を知らぬ孤独と絶望の歌によって』」
「え? マオ、それは私たちの帰り道に関係はないんじゃ……」
ふるふる、と小さく頭を横に振った。そして、マオは札を通常の逆から一つずつ示し始めた。
「『絶望の淵より帰す幼子。真紅の大地を黄金の力をもって、漆黒の時へと。愛に満ち溢れた喜びの歌で入り口は開かれる』」
「逆さ読み……! そうか、私が札を切ったから。向かいにいるマオが求めた答えを導くためには、逆さから読む必要があったのね!」
今になってみれば、どうして最初からそうしなかったのだろうかと思うほどだ。逆さ読みはそんなに珍しい手法というわけでもないし、むしろこんな場合なら、やって当然だ。
やはり当代随一の占者とはいえ、二人はまだ子供。焦りが勝って本来の力を発揮できずにいたのだ。
「――ローザン、ここは……この札で示された子の心の中、ってことみたい」
「心の中、ね。どうやら界王の血族みたいだし、そんな凄いこともありなのかもね」
「今の私たち、精神体なんだと思う。本当はきっと、眠ったまま。……この子は誰かを呼んだ。孤独と絶望が深すぎて、赤が怖くて、一人じゃいられなくて」
「その『呼び声』が火占いの時と重なっちゃったのね。術中は何かと不安定だし、繋がっちゃったのかしら」
「きっとそう。さあ、ローザン。答えも出せたし、帰ろう」
「ええ。『愛に満ち溢れた喜びの歌』だったわよね」
「うん。ローザンは何がいいと思う?」
歌。霊力を用いる術者として有名な、吟遊詩人たちが吟じるもの。
願いを、力を、夢を、希望を、愛を。すべてを託し、籠めるもの。
「そうねぇ……。ララ、かな」
「ルマの子守唄を?」
「だってララは、子供が生まれてきてくれたことを喜び、愛しむ歌よ。聞き手も子供なんでしょ? だったら、ララがいいわよ」
「……うん。そうだね。ララがいい。想いは、きっと届く」
「じゃあ歌いましょ、マオ。私たち一族の子守唄。風にのって、喜びをみんなにも伝える歌を」
ローザンを皮切りに、二人の歌声が赤の世界に満ち溢れた。
優しい、それは優しい歌だった。
旋律も歌詞も、全ての愛と思いやりを音と言葉にしたような、そんな優しい歌だった。
『――生まれた吾子。可愛い子』
『ありがとう。生まれてきてくれたことに、お礼を言いましょう』
『愛に満ち溢れて生まれた吾子。これからもあなたを愛で満たしましょう』
『『ララ、ララ。風にのって歌が広がる。この歌声はあなたの笑顔のために』』
二番を歌おうかな。そう考えたローザンは、なぜか急に瞼が重くなってきた。
そうして薄れ行く意識の中で――何故か、真っ赤な月を見た。
「ローザン!」
重い目蓋を開けると、涙に濡れた母の顔があった。
「良かった、目を覚まさなかったらどうしようかと……!」
「母様」
ローザンは体を起こそうとしたが、体が重く、起き上がることが出来なかった。それでも何とか視線だけを動かして周りを見れば、どうやら自宅の天幕に寝かされているらしい。
(『帰って』これたんだ……)
だけど――自分たちを呼んだ子は、どうなったのだろう。
神に等しき界王、その血族。それなのに友達を失った、と札占いに出たあの子。
一体、何があったのだろうか。
「母様、マオは……」
「ロザリア様、マオが目を覚ましました!」
ちょうどいい具合に、天幕にマオの世話していた女性が駆け込んできた。
「良かった、ローザンも今、目を覚ましたところなのよ」
「ああ、本当に良かった! 私、みんなに伝えて来ますわ」
「ええ、よろしくね」
パタパタと駆けていく女性を見送ると、ロザリアがローザンの頬を撫でた。
優しい、母の温もり。
「こんな事態は初めてで……。あなた方が炎に飲み込まれたときは、心臓が止まるかと……」
「……母様」
「……あの後、輪に加わっていた占者たちが……。火占いを終わらせたわ」
微かに揺れる母の声に、良くない結果だ出たのだと悟った。
「……長は、……」
ああ、そのさきをいわないで。かあさま。
「……あの人は、亡くなったと……!」
ボロボロと零れる母の涙は、ローザンの頬をつたい、枕に染みをつくっていく。
(そっか。あの、嫌な予感は……)
死をもたらす風が、緩やかに私の頬を撫でたのだ。父の命をもらいうける、と。
悲しみ、絶望したローザンに、再び強い脱力感が襲ってきた。ローザンはそれに逆らわず、絶望とともに深い眠りへと落ちていった。
「母様、風使いで四位に昇級出来たわ!」
「まあ。おめでとう、ローザン」
長を失うという突然の事態から、はや十年。
ルマはそれなりに平穏を享受していた。
「今夜は秘蔵の酒で一杯やりましょうか。明日には町に着くものね」
「やった!」
現在は亡き夫の後を継ぎ、当時まだ幼かったローザンの代わりに、ロザリアが中継ぎとして長を務めている。しかし、来年の夏、その座はローザンへと譲られる。
「ベカザの町も久しぶりねー。去年は来なかったし」
「一年もあれば、随分と様変わりするわ。それが旅の楽しみでもあるのだけれど」
「そうよね」
あの日、長ベルンは亡くなった。
群れるはずのない性質である魔物の大群に襲われ、酷い最後を迎えたのだ。
ただ、運が良いのか悪いのか、それは謁見中の出来事だった。
ベルンや同行した男たちは、一族でも特に有能な風使いや吟遊詩人だった。彼らだけならば、簡単に逃げられただろう。
しかし、眼前の領主を見捨てるわけにはいかなかった。自分たちが魔物をけしかけたと判断されるかもしれないし、見捨てて逃げれば今後の関係に支障をきたす。それだけは避けなくてはならなかった。
そうしてベルンは命を落とした。領主を庇って魔物の爪に引き裂かれ、牙に貫かれ、食い千切られて。
ベルンの血肉を浴びた領主は逃げ延びた後、しばらく茫然と立ち尽くしていたという。何を思ったのかは知る由もないが、ベルンに命の恩を感じたらしい。自分の領内を流浪するときは許可を申請する必要はない、と生き残ったルマに、その場で申し渡したのだった。
ルマ六名のうち、ベルンを含め、襲撃時の死者は三名。手や足を喰われるなどの重傷者二名。彼らは数日後、一族に戻ることなく亡くなった。そして片目を失った『軽傷者』、一名。ルマ唯一の生存者となった彼が、一族に事件の全容を伝えることとなる。
領主の配下の被害はこの数倍で、惨憺たるものだった。そのため領主がベルンに恩義をどれだけ感じていようとも、通行許可以上の見返りは不可能だった。税を納めていないルマに報奨を与えれば、領民の不満が爆発してしまう。
よって、これが領主の精一杯の恩返しなのである。
ただ、ルマの一族は仲間や長を亡くしたことは嘆き悲しんだが、この見返りに関してはさして不満を漏らさなかった。
彼らには『自由』こそが真理であり、最大の宝だからだ。
その後もこの領主は、周辺の領主たちに申請撤廃の働きかけを続けてくれている。そんな事情もあって、ルマで彼を恨んでいる人物はいなかった。
「ねえ母様、マオのとこ行ってくるわ。町に着いたらお互いに忙しいし」
「ええ、いってらっしゃい」
ローザンは組合から帰ってきたばかりだというのに、家で寛ぐこともせずに天幕を飛び出した。
「マオ、ただいま!」
「ローザン、おかえり。試験、受かったね。おめでとう」
「あら、占ってくれてたの?」
「ううん。ローザンが嬉しそうだから、受かったんだろうな、って」
「あはっ、あたしが分かりやすいのね。ま、隠すことでもないしね」
「うん。喜んでるローザンは、みんなを元気にさせるから、いいと思う」
「ふふ、ありがとう」
あの不可思議な出来事を経て、マオは占者としての力を一層強くしていた。自分の精神面がさらけ出された、という点が何か影響したのかもしれない。
しかし面倒ごとを嫌ってか、マオは一人前の位以上は昇級試験を受けなかった。
(あれから、十年)
大きな変化はなかった。けれど、これから起こる。
(ローザン、ごめん。一つだけ、嘘ついた)
ローザンが組合に赴いている間に、マオは占いをした。試験の合否も気になったが、そのくらいは正確に結果をつかんでしまうから、知ってしまうとつまらない。
それに今回の試験は、不安がなかった。だから占った。今後の展望、ローザンの行く末。
(赤い月が訪れる。十年前の、あの子。春の太陽と、夏の太陽が隣に)
父の残酷な訃報を受けて、幼いローザンは前後の記憶を部分的に欠落してしまっていた。覚えているのは火占いをやったことと、父が亡くなったことのみだ。
あの不思議な赤い体験は、いまはマオのみが知る。
(来るよ、ローザン。あなたの、運命の歯車を回す人たちが。あなたを、ルマという籠から連れ出す人たちが)
もう長には伝えてある。ローザンは飛び立つ。世界という広い世界で風になる、と。
「……ねえ、ローザン」
「ん? なに、マオ」
「……。ううん、何でもない。ベガザの町、楽しみだね」
「どうしたの、マオったら。珍しいわね。けど、確かに楽しみよね。あの町、大きいし」
「うん。凄い、楽しみ」
――いつか、帰ってきてね。
(これ以上はローザンのこと、占わないよ。未来に希望を託すために)
そして綺麗な満月の宴に、彼らはやって来る。