泡沫の電車旅
目が覚めた。
そのことに何故か疑問を覚えながら周りを見ると、ここは電車の中のようだ。ボックス席と言うのだろうか、そんなような場所に座っていた。一見すると屋内にも見えるが、一定間隔で聞こえるガタンゴトン、という音が電車であることを教えてくれる。
周囲の状況を確認して、はて、と思う。
私はいつ電車なんかに乗ったんだろうか。大学に行くために電車には毎日乗る。だけど、こんな電車には乗ったことがない。それに、乗った時の記憶が無いなんて可笑しな話だ。私は別に夢遊病者というわけでもないし、鳩のようにすぐに忘れてしまうわけでもない。覚えてないはずがないんだが。
そんなことを長々と考えていると、また別の疑問が湧いてきた。この電車は何処へ向かっているんだろう。私がいる部屋の中に路線図のようなものは無い。この部屋から出れば、調べることは出来るかもしれないが、どうしてかそうしようとは思えない。まったく理由は無いのだが、何故かそうしようと思えないのだ。
一つ、二つと疑問が出ると、次々と新しい疑問が生まれてくる。トンネルの中かと思っていたが、窓から見える景色がずっと黒一色なのも可笑しい。疑問とは違うが、家族のことが心配になったりもする。私が不思議な状況の中にいるからと言って、家族に何かあるわけでは無いのだが。それに、目覚めてからどれだけ時間が経ったのかも分からない。体感としては三十分くらいかと思うが、確認できるすべも無い。
しかし、そのどれもが、どれだけ考えても分からないことばかりだ。こんなにも疑問や心配事が生まれると、どうしようもなく不安になる。私の身に危険が迫ってるわけでもないのに、不安でたまらない。
どれだけの時間そうしていたのかは分からないが、不安のあまり頭を抱え下を向いていると、不意に正面から音が聞こえた。布のこすれる音というか、そういった音が。顔を上げると、私の前の席に老人が座っていた。まるで仙人のような白い髭を蓄え、仙人のような衣装を身に纏い、仙人のような杖を持った、優し気な目をした老人が。
「儂の顔に何かついておるかの?」
「え、あ、いえ。何でもありません」
「そうか」
顔をまじまじと見すぎてしまった。あまりにも珍しく、現実離れした風貌だから、つい見入ってしまった。しかし、この人はそれで気を悪くしたわけでもないみたいだ。慣れているのか、私の失礼な視線も気にせず好々爺然と笑っている。どこか、救われた気分だ。
いっそのこと、この人にこの電車のことを聞いてみようか。仙人のような風貌も相まって何でも知っていそうだし。聞きやすいことから聞いていこう。
「すみません、この電車は何処に向かっているんですか?」
「ふむ、そうじゃな。すまないがそれは教えられない」
「ど、どうしてですか」
動揺してしまった。どこかで、この仙人のような人なら何でも知っているし、それを教えてくれると思っていた。考えてみれば、この人とは今が初対面だ。何故か、親しみを感じてしまったから、そう錯覚していた。
私が慌てていると、目の前の老人は少し困ったような顔をしながら、それでも笑みを崩さずに、目を細めてこちらを見ていた。まるで孫の世話をする祖父のようだ。それだけで、この人には悪意など無いのだと思えてしまう。もしかしたらこの人は、本当に仙人なのかもしれない。
「世の中、知らない方が良いこともある。安心なさい、何も心配するようなことはありはせんよ」
変わらない笑顔のまま、この人はそう教えてくれた。
そういうものなのだろうか。何故かすんなりと納得してしまった。電車で目覚めてから、常に心の中にあった焦りや不安も無くなっていくようだ。この人が言うのなら、本当に心配するようなことはないのかもしれない。この人の言葉は、どうしてかとても落ち着く。
私が安心していると、今度はこの人の方から話しかけてきた。
「ご家族は壮健かい?」
「え? はい、元気ですよ」
「そうか、それは良かった」
まさか、家族のことを聞かれるとは思ってなかったから、一瞬変な声を上げてしまった。
でも、この人は私の家族のことを知っているのだろうか。父の交友関係を知っているわけでは無いが、父の友人という感じはしない。母の知り合いにも思えない。
もしかしたら、祖父の知り合いかもしれない。父が祖父は色々な方面に顔が利くと言っていたから、それだけ交友関係も広かっただろうし。祖父は私が子供の頃に亡くなってしまったから、私がこの人のことを聞いていないだけで、この人は祖父から私のことを聞いていたのかもしれない。それなら、家族のことを聞いてきたのも納得できる。祖父の知り合いなら、当然父のことも知っているだろうし。
「あなたは、祖父の友人なんですか?」
「ん? そうか。そうじゃな。そうじゃよ、儂はお前さんのおじいさんの友人じゃ」
「やっぱり、そうなんですね! 祖父の友人がこんなに凄い人だったなんて!」
「そんなに凄くなんかないぞ。買いかぶり過ぎじゃ」
「そんなことないですよ! あなたの声を聞いてると、凄い落ち着くんです」
「そうか、それは嬉しいな」
本当にこの仙人のような人が祖父の友人だなんて。驚きと感動で少しテンションが上がってしまった。言葉も強くなってしまったし、祖父の友人であるこの人も、微笑ましそうにこちらを見ている。少し恥ずかしい。
それ以降、どちらから話すでもなく、静かな空間が広がっていた。だが、この人といると何も話していなくても辛いとは感じない。それどころか、落ち着くし、心地良い。こんな不思議な状況もあってか、まるで夢心地だ。ずっと、このままでも良いと思ってしまうほどだ。
しかし、そんな時間もいつかは終わってしまう。
「さて、降りるぞ」
「え?」
気がづけば電車独特のガタンゴトン、という音が聞こえなくなっていた。駅に着いたということだろう。この人は既に席から立って、こちらを見ていた。待ってくれているのだ。
「大丈夫ですよ」
「そうか。では、降りるぞ」
そう言うと、この小さなボックス席の扉を開けた。
扉の外は、すぐに駅のホームだった。今更ながら、電車が走っている間に扉を開けなくて良かったと思う。もしも途中で開けて、落ちていたらと思うとゾッとする。
しかし、そんなこともすぐに気にならなくなるほどの不思議な光景が、目の前に広がっていた。視界のほとんどは真っ黒だ。月も出ていないし、星もない。光源になりそうなものは何一つない。それなのに、駅のホームは問題なく見ることが出来るし、先に降りた祖父の友人も、見ることが出来る。私たちが乗っていた電車も、遠くへ向かって小さくなってゆく。いっそ幻想的とさえ思えるが、同時に心の底から震え上がるほどの恐怖も感じる。
「大丈夫か?」
「えぇ、大丈夫です」
「そうか」
やはり、この人は不思議な人だ。先ほどまで感じていた恐怖が和らいでいく。
恐怖も和らぎ、落ち着いてみると、私はここで何をすれば良いのだろうか。無責任だが、降りると言われたから降りたが、その先のことは全く考えていなかった。私がそのことについて聞こうとすると、先に話しかけられた。
「お前さんは、このまま待っていなさい。もう少ししたら次の電車が来る。そしたら、お前さんはその電車に乗るのじゃ」
「あなたは?」
「ここでお別れじゃ。儂は次に来る電車には乗れんからの」
電車に乗れないとはどういうことだろうか。それよりも、私はその次の電車に乗ったら何をすれば良いのだろうか。分からないことだらけで、この人には申し訳ないが、そのことも聞いておかなければ。
「私は、次の電車に乗ったら何をすればいいんですか?」
「何もせんでいい」
「何も?」
「そう、何もじゃ。安心せい、心配するようなことは何も起きんよ。ただ乗れば良いんじゃ」
私は少し動揺しながらも、この人の言う通りにしようと思った。もともと、どうすれば良いのか分からない状況だったのだから、他に手段もない。
私がそう思っていると、私たちが乗っていた電車の向かった方に、薄明りが見えた。どうやら、こちらに向かってきている電車のようだ。あれが、私の乗る電車なのだろう。近づくにつれ良く見えるようになるが、やはり見たこともない電車だ。降りてすぐは、電車の外観など気にしていられなかったから、見ることが出来なかった。そう思うと、今は落ち着いているということだろう。
電車は、私たちの前に停まった。
「さぁ、お乗り」
「えぇ、ありがとうございました」
「気にせんで良い。達者でな」
「はい、お元気で」
私は、祖父の友人に別れの挨拶を告げて、電車に乗り込んだ。