魔王の実情
拝啓、お父様お母様。今僕は死にました。きっとそうに違いないというかそうでないはずがない。今僕がいるここを敢えて表現するとしたら、「いたって平凡で一般的な家庭のリビングルームのど真ん中に魔王が鎮座している」としか言えないだろう。眼前におわしますこの世のものとは思えない異形の怪物は、妖怪や幽霊など信じていたのが中学生までだった圭太でもリアルと認めざるを得ない息遣いと威圧感を放っていた。
刃物のような鱗が幾重にも付いた硬い鉄鎧の皮膚、血に塗れた深紅の口は左右に大きく裂け、その口の中からは野蛮な牙が殺意を主張している。爛々と鈍く光る瞳は死神の眼差しと変わらない畏怖を相手に植え付ける底知れぬ冷たさがある。
こんなものがこの世に存在していいのだろうか。しかもそれが家庭用のピンクのエプロンを着けているのだから尚更だ。一体何の冗談だ。地獄の閻魔様がちょっと料理中に死んでしまった、みたいなものだ。目の前のミスマッチすぎる光景に恐怖も忘れ唖然と呆けている圭太の顔を一瞥し、にぃと裂けた口が笑みを形作った。
「あなた、急に倒れちゃったのよ?貧血でも起こしたのかしらと思って、寝ててもらったの。やっと起きてくれて良かったわ。大丈夫?圭太くん、だっけ?」
圭太の前で佇んている怪物は親しみやすい女性の声でそう語りかけてきた。さらには圭太を覗き込み、ぽんと頭を撫でた。
縊り殺されるかと思った。魔王のような怪物の動作に息を詰め、ついでにちびりかけた圭太だったが、生命と身体は無事なようだった。明らかに逃げた方がいい状況であるが、絶体絶命の現状に感覚が麻痺し適応してきた圭太は、この魔王、実は心根の良い人なのでは、と思い始めていた。人を見た目で判断してはいけない。そう親に教えられてきた圭太は、この人?を信じてもいい可能性があるのではと脳内会議を始める。さっきから見た目が殺人的な事以外魔王は何もしてこないし、そればかりかこちらの心配をしてくれているようだ。もし殺して食べたいとか思っていたとすれば自分が気を失っていた間に美味しく頂けたはずだ。気を失った僕をわざわざリビングのソファまで運んで起きるまで待っていてくれたのだ、きっと優しいに違いない。それとも目が覚めて恐怖を顔に滲ませて絶望の断末魔を聞きたいがためにわざと僕が起きるまで待っていたか。いや。脳内が煩く異論を唱えるのを圭太はぷつりと途絶えさせた。圭太には特殊な才能といえるかわからない予感のような才能がある。それは危険なものかどうかをなんとなく判断できる、というものだ。それで食中毒にもならずに済んだし、野良犬とヤンキーのいる道も避けて通ってこれた。その才能が言っている、魔王は怖くないと。さらに言えば魔王の声にはどこか聞き覚えがあり、とても心が安らぐような気持ちになれる。こんな綺麗な声を出すんだからいい人に違いない、と気絶前とは真逆の結論を導き出した。その脳内会議の時間およそ5秒。頭をフル回転してノーデンジャーと結論付けた圭太は恐る恐る喉を震わせた。
「あ、ありがとうございます」
「わ~!よかったわ!もう平気なの?大丈夫?貧血は治ったかしら?」
「はい、もう大丈夫です。おかげさまで元気になりました」
へへっと笑って見せる圭太に魔王はいたく満足した様子で鼻を鳴らした。ちょっと待ってて今お茶を入れてあげるわ、と手をひらひらさせて、その手には凶器のように鋭い爪がついていたが、にっこりと、血染めの口を上げ、何の変哲もないキッチンへと向かっていった。
勝った!圭太はそう思った。これで毒入りのお茶をだされるとかじゃない限り限りなく圭太の予想通り、セーフ、ノーデンジャーであることが証明された。安堵と緊張がほぐれたので全身が脱力し危うく再度気絶するところだった。あんな恐ろしい生き物が実在することにも驚きだが、それが意外にも心優しいママさん、という感じで拍子抜けする。良かったー僕生きてるー。こんなに生の喜びを噛み締めたのは生まれて初めてだ。
魔王への警戒が解け辺りを見回す余裕のできた圭太はそのあまりの普通っぷりに面食らった。白い壁に暖かい色のシーリングライトのついた天井、木でできたダイニングテーブルとイスの正面には薄型テレビが鎮座している。クリーム色のじゅうたんがフローリングに広がり、圭太が今いる茶色のソファはそれなりにふかふかだ。至って普通のリビングルーム。ザ・普通オブ普通だ。これで魔王の見た目が普通の中年女性ならば何も文句はなかった。ふぅ、と息をついた圭太は部屋の奥から足音がしてくるのを聞いておもむろに振り返る。あの見た目だけが凶悪な魔王さんがお茶を持ってきてくれたのだろう。つくづく親切な怪物だ、と振り返った先には。
「河童?」
「お前誰?」
全身緑色の妖怪、河童が立っていた。