魔王が魔王なんて聞いてない!?
扉を開けるとそこには魔王がいた。
誰もが畏怖する夜の闇よりも漆黒で奥底まで引きずり込まれそうな幽々たる大きな瞳、口は恐ろしく大きく裂けて生き血を啜ったばかりのようにぬらりと妖しく深紅を湛えている。そしてその山のような巨体は圧倒的な質量で周囲を踏み千切らんとするがごとく暗雲を纏っており、名状しがたい恐怖が全身に突き刺さった。
その様子を目の前にしてこの物語の主人公、というよりは語り部に近い圭太の喉は引き攣って息を吸うことさえままならず、全身から吹き出る冷たい汗が血のようにべったりと纏わりついた。
馬鹿な、いくら魔王だからってそんな魔王然とした魔王な訳がない。ここは日本だぞ?古き良き下町の一角の庶民的な一軒家の中だぞ?そうだ夢を見ているに違いない。この暑さで熱中症になって幻覚を見てるだけに決まっている。だって、魔王さん家に会いに行ったら本当の魔王が出てくるなんて聞いてない!
3時間前。
榊圭太はとてもウキウキしていた。入学してから3か月、ずっと憧れて見ていた副担任の浅海先生と二人きりになれたのだ。じゃんけんで負けて学級委員になった甲斐がやっと巡ってきた、と思った。
小柄で華奢な線の細い体は今にも抱きしめたくなる可憐さで、黒ぶちの眼鏡から覗く大きな灰色の瞳はとても澄んだ色をしている。一言で言えば、守りたくなる可愛さ。それでいて奥ゆかしく、そしてどじっ子だなんて、最高じゃないか。
「あ、あの、榊くん。わざわざ準備室まで来てもらっちゃってごめんね」
形のいい細めの眉を下げ、許しを得るように小首をかしげるその仕草は天使のように目映い愛らしさだ。その華奢で折れそうな指には不釣り合いな分厚い書類の束をどさりと机に置き、圭太を隣の椅子に座るように目線で促す。浅海先生が自分の椅子に腰かける動作を礼儀として待っていたのではなく、その緩慢な一挙手一投足にも優美さを覚えて感嘆し見惚れているだけの圭太は、なぜ座らないの?という疑問の籠った灰色の瞳に見られて、ようやく思い出したように腰をかけた。
「ごめんね、書類の整理なんて、先生の仕事なのに手伝わせちゃって」といいつつ、さっと書類を折り始める浅海先生の手さばきは綺麗だ。そんな陶器のような手で折られていく白い紙が羨ましいとさえ思うくらいだ。
「いえいえ!先生のお手伝いをするのが学級委員の仕事ですから!」
胸を張り、ついでに決め顔と精一杯の爽やかボイスで圭太は答えた。そのまま数秒先生を見遣るが、こっちに一瞥することなく黙々と書類を折り進めている。そんな仕事に実直なところの可愛い、と絶賛しつつも圭太は作業に加担することにした。
縦に細長い狭い準備室は、ほぼ倉庫とされており、粗末な机と椅子が置かれている以外はほぼ全てそこら中を書類で埋め尽くされている。日焼けした紙の古びたかび臭さと、静寂に響き渡るぺらぺらという紙のしなる音だけが部屋に充満していた。誰も来ないような廊下の隅にある部屋だ、外からの物音は一切聞こえないだろうし、ここに人がいることを誰にも知られていないだろう。狭く薄暗い室内には、膝が擦り合いそうになるほど近い距離で座る男女があって、これはもう先生と生徒のイケナイ指導が始まるしかない!と心の中で声高に主張する。こんな密室に、二人きりで、しかも女性特有のいい香りまでしてきて年頃の男子としてはもう辛抱堪らんとくらくらしてくるほどだ。
実際俺は浅海先生に憧れている。年上好きと揶揄されるかもしれないがこの一見地味ともとれる奥ゆかしさに隠れた儚い雪のような可憐さたるや。この価値が分からないものは正直損していると思う。絹糸のようなふわりと空気の孕んだ栗色の髪が窓から細く差し込む西日に照らされて蠱惑的に白く輝いている。その匂い立つような清廉な色香は、長い睫毛を落として作業をする愛らしい顔に不釣り合いなくらいどこか妖艶でもあった。しかし、その外見の非凡さとは別に圭太に特別な憧れを抱かせるのはその雰囲気にあった。浅海先生はそう、かの往年のアイドル、アイドル界のレジェンドとよく似た雰囲気をその瞳から発しているのだ。
あの、大天使聖子様とどこか似ている浅海先生にこんなにもお近づきになれるなんて!どこが似ているかと言われれば、目も鼻も口も、まったく別種の美しさを持つものだったが、彼女の纏う空気感と言うしかない。つまり、浅海先生は天使の血族に違いない!
と、荒唐無稽な理論を脳内で展開しながら浅海先生の可憐な横顔を目下脳裏に、角膜に焼き付け作業中の圭太。その心情を知ってか知らずか、浅海先生は作業効率の悪くなった圭太を咎めもせずに、大きな牡丹の花のようなふんわりとした優しい笑みを愛らしい顔に咲かせ、圭太に向けて見せた。
そのあまりの破壊力に一瞬ぐらりと世界が揺らいだような感覚と、香水とは違う深く甘い花の香が圭太の鼻腔を充満した気がした。眼前に広がる甘い微笑みを湛える浅海先生の薄桃の唇がぬらりと妖艶に光り、灰色の瞳が眼鏡の硝子を越して、僅かな熱気を孕んで濡れている。何かを囁くように微かに揺れるピンク色の唇が艶やかで甘美な旋律を奏でる、気がした。
何だ、今のは。圭太は心臓が3回転半のルッツを決めた感覚を味わった。ドキドキと、それはもう8ビートの音楽よりも早く脈を打つ。少し暑い室内と、密室であることと、先生の香水の香りが鼻をくすぐるのと、腕がたまに触れ合うのと、さらに言えば先生が動く度に胸元の谷間がチラと存在を示してくるのと、その他諸々が相まって頭がどうにかしてしまったのかもしれない。外見を見れば分かること必須のように女性経験の乏しい平凡な男子高生の圭太にはあまりにも刺激が強すぎた。そういうことにしておきたい。いくら憧れの先生だからって、本人の前で堂々と、"け・い・た・く・ん"と先生に囁かれたような気がした、否、そんな白昼夢という名の妄想を幻視幻聴してしまう等とは。さすがの妄想大好きな平凡健全男子高生も己の阿保さ加減に失望を禁じ得ない。その、白昼夢と自己嫌悪を行った、時間にしておよそ5秒。圭太は胸の高鳴りとバツの悪い顔を隠すようにして先生に慌てて話題を振った。
「これ全部不登校生の書類ですよね。さすがにいくら現代社会の心の闇が蔓延してる灰色の社会の時代でも、ちょっと多すぎません?」
折っても折っても無くならない書類の束に目を馳せながら圭太は零した。それに浅海先生はそうね、と優しい眉を下げ
「・・・そうよね。何か問題があるのかな、先生すごく心配なんだけど。先生に何かおかしいと感じることがあったら何でも言って?何かある?」と済んだ瞳を揺らして見せた。
「いや、そんな、先生はいつも優しくて、完璧で、とにかくそんな問題なんて!俺はむしろ先生が責任を感じて学校からいなくなったりとかしたら逆に不登校になるかも」
それは全くの本心からだったのだが、浅海先生はそれを上手いお世辞と受け取ったのか、ふふっと鈴の転げるように笑いながらありがとうと言ってきた。ああ、そんな笑顔も愛らしいです先生。
二人の目の前にあるのは先ほど圭太が言った通り不登校生の書類を家庭に郵送するためのもので、その数はざっと10人分は超えていた。1つの高校に10人も不登校となると、教育委員会が腕まくって乗り込んできそうな勢いだ。しかし、現実この高校、天上高校が目立った問題を抱えている様子でないのは学級委員としてそれなりに役目を務めているはずの圭太が何よりも熟知していた。暴力沙汰も手に負えない不良も凄惨ないじめも集団ヒステリーもこの高校にはない。なのになぜか不登校生が多い。それを改めて、不登校生へのDM折り込み作業中に感じさせられる。そして困った不登校生は圭太のクラス、浅海先生の担当するクラスにも存在した。
「魔王 勇子、か」
正直名前でいじめられたんじゃないかと思っている。魔王なんていう物珍しい名字と、その名字に全く釣り合わない勇子という名前。名字と名前で善悪戦争が出来そうなそんな、言ってしまえばへんてこは名はきっと彼女を苦しめたに違いない。きっと、幼稚園とか小学校とか中学校で。まだ顔も見ぬクラスメイトに得も言えぬ同情を感じながらその宛名をしげしげと眺めていた。
「ああ、魔王さんのことなんだけど」その様子を見て、先生が思い出したように高い声をだして手をぽんと叩いた。その仕草も可愛いです先生。
「魔王さんのおうちね、確かに住所はあってるはずなのに、前回送った分が戻ってきちゃってたの。受け取り拒否でもされたのかな、でもそんなに学校嫌いなのか不思議で。電話でたまにご挨拶するお母さまはすごく優しく対応してくださるのに、なんでだろう?」
「さぁ、前回はそのお母さまじゃなくて魔王さん本人がわざわざ返送してきたとかじゃないですか?」
賢そうな口ぶりで当たり前の推論をして見せる圭太だが、その目は小首を傾げるなんて破壊力のあふれる仕草をしてくる浅海先生に釘付けだ。もはや書類を折るスピードはナマケモノとタイマンを張れる程度だった。
「先生すごく、心配。魔王さんのお家に直接これを届けに行きたいところだけど、不登校の家に教師が行ったりするとプレッシャーをかけてるって怒られちゃて・・・。」
見よ、圭太よ。そんな声が頭の後ろが聞こえた気がした。なにせあの天使のような愛らしい顔がこんなにも不安に瞳を揺らしているのだ。浅海先生親衛隊長第一号(自称)としては見過ごせるものではなかった。それに、と圭太は浅知恵を回す。もしここで自分が先生を助け先生の為に活躍したら、すごい頼りになる圭太君として自分を見てくれるかもしれない。あくまでも憧れというのは憧憬に過ぎず恋慕の域ではないものの、男ならその眼中に少しでも置かれたいと思うもの。頑張れ、俺。今こそ男を見せる時ではないか、この学級委員という無駄な役回りを使って。そう思った圭太の行動は早い。
「じゃあ俺が魔王さん家に書類渡しに行ってきますよ!」
キリっと効果音の付きそうなくらい素早く顔を向けて、圭太はそう言った、もとい安請け合いしたのだった。
その場所は意外にも思いがけない場所にあった。路地を2回ほど曲がり、多少人目に付きにくい場所ではあったが。そこは圭太の家の左隣であった。
そう。隣。
えっ、そんな偶然あります?と圭太は内心でツッコミをフルスイングする。そういえば隣に新しく家が建って数か月、挨拶もしてこない隣人だなとは思っていたが。
外から見た限りでは心の闇を抱えて部屋から出てこなくなった少女のいるような荒んだ雰囲気もしない。昔から怖い人や近づいてはいけない場所の雰囲気を敏感に感じ取れるという妙な特技も持ち主である圭太は自分自身の見解を信頼していた。魔王さんは意外と荒んでないんじゃないか?もしかしたら何か家庭の事情とかで来られないだけかも、と推測する。お母さんは優しかったと先生が言っていたし、ますます不登校児の家という気まずさは感じられなくなっていた。
これは案外、実はちょっと飼い猫が身重で心配で登校できなかっただけなんです、とかそんな理由の優しい少女かもしれないぞまだ顔も知らない勇子さん。圭太は楽観的に、特に躊躇いもせずに、魔王と表札のかかったすぐ近くにあったインターホンのボタンを、押した。
「どうも、天上高校の、魔王勇子さんのクラスメイトで学級委員の榊 圭太というもです。ちょっと学校の書類もってきました。」間延びした男子高生の声が響き渡った。7月の、少し暑い夏の日のことである。
インターホンの返事はなく、代わりにガチャリという金属音と共に開かれた薄茶色の扉の向こうには。
魔王がいた。