第一話
『次は早鐘橋です』
運転手の低い声がバスの中に響いた。マイクを通しての声は余計に低く聞こえる。少年は不安を感じながら降車ボタンに手をかけた。もう、何年ぶりだろうか。大きな窓から見える深緑の山々も、ガードレールの下に点在する鮮やかな菜の花も、舗装されてない道をガタガタと小刻に揺れながら進んでいくバスの感覚も憶えのないものだった。ボタンを押し停車の合図が告げられたが、本当にそこで良かったのかわかるはずもない。
ひたすら前を見ていると小さなプレハブの屋根の下に錆び付いたバス停の標識がたっているのが目にはいってきた。その横を流れる川に架る橋を少年は思い出した。確に、ここで間違いない。そう安心した時、ふと懐かしさがこみあげてきた。バスの黒ずんだ手摺も、色褪せた座席も全てひっくるめて懐かしいような気分に駆られた。
バスが停車して腰を上げ、立とうとした時、先に通路を挟んで隣に座っていた女性が席をたった。その方へ少年は一瞥を投げた。
整った顔付きのショートカットの女性はとても美しかった。一見、華美な女性の印象を持ったが、二重瞼で一点を見つめる凛とした目や真一文字に結んだ口はどこか寂しい感じがする。その女性に続いて、少年はバスを後にした。バスの運転手の『ありがとうございました。』という声はほとんど耳に入っていなかった。バスがぎこちない音をたてながら、遠のいていくのを見送るより先にプレハブの小屋の中にある古びたベンチに荷物を降ろし、女性が歩いて行った方を見た。
これから自分がどのようにして親戚の家まで行けば良いのかわからなかったが、自分の行き先より、女性の行き先の方が気になった。ハイヒールと地面がぶつかりあうコツッ、コツッという音に少年は酔い痴れながら、スカートを棚引かせ、橋を渡っていく女性の後ろ姿をいつまでも、いつまでも見守っていた。