冷たい微笑
鈍い音とともに体が沈み込んだ。視界に入ったのは、深紅の柔かな布だった。丁寧に織り込まれたそれは、上等なものであることが、私でもわかった。顔を上げると、模様の描かれた豪奢な天井にランプがかかっていた。ランプは明るく、窓がないのにかかわらず部屋中が光に満ち溢れていた。
「さぁ、これを飲みなさい。本当にボロボロじゃないですか」
細い足が見えた。私は慌てて体を起こした。私が横たわっていたのは、柔かいソファーだった。私はソファーに軽く触れるように腰かけ、縮こまるようにして目の前のカップを受け取った。
「ありがとうございます」
カップには、湯気の立った乳白色の液体が入っていた。甘い香りが漂うそれは、やはり甘い味がして、死なずに生きていることを実感した。知らない場所なのに関わらず、安心したのか足の力が抜けていった。
「私は彼の兄弟子の魔法使い。名前はフウリン。仕事はまぁ、隠居みたいなものですね」
私は、と言いかけた時だった。
「親の遺産を、使ってしまわないとまずいんでしょ」
やや早口の掠れ声だった。警官は、向かいのソファーに横たわっていた。背もたれ側に顔を向けているせいで、表情は見えなかった。ひゅうひゅうと息が漏れるような音をさせていること、ぐったりしていることはわかった。
「努力には余裕が必要なんですよ。ところで、喋れるようになったんですか、セツ」
フウリンと名乗る警官の兄弟子は、澄んだ碧眼を細めて微笑み、私と警官の間に置かれたソファーに腰かけた。
「オカゲサマデ」
警官はぶっきらぼうに答えると、体を起こした。しかし、行儀悪く肘をつき、態度も悪ければ機嫌も悪そうだ。まるで子どものように口をへの字にして、兄弟子と目を合わせようともしない。
対するフウリンの方は、弟弟子の様子がおもしろいのだろう、くすくすと笑っていた。警官の方はさらに顔をしかめるだけで何も言わなかったが、すぐにフウリンから話し始めることはないと判断したのか、口を開いた。
「フウリン、魔女っていうことになっていたよ」
城に棲み、長く竜使いの一族と共存してきたという魔女は、フウリンだったのだろう。
そして、その言葉は警官にとって、兄弟子が魔女と勘違いされる危険に対する心配から出たというよりも、嫌がらせに近い言葉だったのだろう。
「私は魔女ではないので大丈夫ですよ。彼らもそれは知っています」
しかし、当の本人は気にも留めていない様子だった。
「しかし、セツ。お前の方がずっと女らしい体つきじゃないですか。ちゃんと食べてます? 華奢なのはイオだけでじゅうぶんですよ」
フウリンはペラペラしと話し始めた。警官はその表情をさらに険しくした。
「食べていてこれだ」
警官の声は、地を這うような低い声だった。
「はいはい、そーですか」
フウリンは笑いながら軽い調子で答えた。警官はそれ以上表情を変えることなく、フウリンと目も合わせないまま何も返さなかった。
「そして、そこのお嬢さんはお前の弟子なんですか」
「私のことがわかるんですか」
私は、警官へ対しての質問だったのにかかわらず、思わず口を挟んでしまった。しかし、よくよく考え見れば警官もそのことに気づいたのだから、フウリンが気づくのは当然だと思い、考え足らずの言動が恥ずかしくなった。
「わかりますよ。ハルに魔法をかけられたんですね」
「ハルさんが何をしているかご存知ですか」
フウリンは私の質問に困ったように笑った。
「それはそれは。申し訳ございませんね。ハルの居場所はわかりませんし、その魔法……」
「ハルとは面識はなさそうなんだけど、突然魔法をかけられたらしい。兄さんなら解けるか?」
フウリンは目を細めた。
「半年あれば解けますよ。ただ、今は無理ですね」
半年。
随分と長いと思った。ただ、解けるものだと言われたときに、体の力がすっと抜けていくような気がした。安心したのだ。
「それで、お嬢さん。お名前は?」
「シンです。カレン村のシンです。家は農家です」
フウリンの目が細くなった。碧眼が私に向けられる。掃いて捨てるほどある平凡で辺鄙な村と、国で最も多い職業。私は、彼の表情の理由がわからなかった。
「ハルのことだ。何の意味もなく魔法をかけたりしない」
警官は小机に肘をついたまま、コップを手にした。掠れ声だったが、目は真剣なものだった。
「ああ、そうですね」
そんな警官の顔を見て、フウリンは微笑んだ。そして、どこか嬉しそうに警官の言葉に同意を示した。そして、フウリンは私の方を向いた。
「思い当たる節はありませんか」
碧い優しい色の双眸だった。ただ、その目は私を射抜くようで、全てを見透かされたような気持ちになった。私は、少し考えた後に答えた。
「ありません」
そうですか、とフウリンはあっさりと返した。警官に向けた微笑とは程遠い、冷たく綺麗なだけの微笑を私に向けながら。