水面に銃声
ひどい味のパンを食べると、警官は再び歩き出した。乾いていた道は徐々にぬかるんできた。柔らかい靴の中には水が入ってきた。気持ち悪いと思いながら、前の警官の足を見た。警官の靴は私のものよりもずっとくたびれていて、ぐっしょりと濡れて重そうだった。
程なくして、沢が見えた。小川にもなりきれないそれの前で、警官はしゃがみこんだ。そして、水の流れてくる方向を見やった。落ち葉の上を、ゆっくりと滑るようにして水が動いている。どこにでもありそうな沢だった。
「水で何かわかるのですか」
「ああ。もう少し、上流に遡った方がよさそうだ」
警官は水が流れてきている方向を眺めた。
「犯人の見当はついているんですか」
「原因の見当はついていないけど、これよりも上流に行かないとわからないことはわかる」
______ 原因。
警官は原因と言った。原因ということは、卵は盗まれたというわけではないのだろう。それについて尋ねようとしたが、警官の横顔を見て喉まで出かかった言葉を引っ込めた。
警官は険しい表情をしていた。恐ろしいとは思えなかった。ただ、声をかけようとは思えなかった。
警官は言葉通りさらに山の斜面を登っていった。先ほどよりもさらに早足だった。そして、随分と登ったころでまた立ち止まった。大きな岩が並ぶ場所だった。そも岩の隙間を水が流れていた。
「ここはね、さっきいた洞窟の真上なんだよ」
警官はそこまで言うと、考え込むような動作をした。
「話はあとだ。下山しよう。ここに留まるのは______」
突然唸り声がした。あの洞窟で響いてきた唸り声と同じ唸り声だった。心臓を掴まれるような感覚がした。足がすくんだ。
「急げ」
「はい」
周囲を見渡す余裕などなかった。何も考えず、ただ警官の細い背だけを見た。乱暴に岩をよじ登り前に進み、体中が岩と擦れた。
視界の隅を、黒い鱗でおおわれた尾が横切った。
______竜の尾だ。
ひぃ、と悲鳴が口からもれそうになったが、それはかき消された。轟音がした。岩が雪崩れてくる。竜の何かが岩にあたったのだろう。警官の背が止まる。
「トゥリー、ダー、オン」
怒鳴り声に近かった。
途端、岩崩が止まった。私は呆然とする間もなく、瓦礫の斜面を駆け上がるその後ろを追う。岩を這いあがり、小石を蹴散らしながら斜面を登る。ヒューヒューと息が漏れる。肺が割れそうだった。
突然、前を走る警官に腕を掴まれた。目の前の大きな岩の陰に引きずり込まれる。大きな岩に膝が当たり、膝が擦り剝けたような感覚がした。暗い岩の陰には、痩せた人間二人が座れる場所しかなかった。座り込み、息を潜めた。
「僕たちを卵を盗んだ犯人だと思っているんだと思う。見かけない人間だからね」
警官の言葉はとぎれとぎれだった。私は頷いた。隣では警官の声と浅い息の音に混じって、がちゃがちゃと金物がぶつかる音がした。隣を見ると、警官が拳銃に弾丸と思われるものをを詰めていた。銃は政府の役人以外は持つことを許されない武器だった。無論触ったことはなかったが、存在は知っていた。
警官は身を乗り出した。そして、銃を構えた。
「耳を閉じて」
まるで悲鳴のような声だった。裏返った声はまっすぐと私の耳に届いた。私は耳を押さえた。
それでも割れるような銃声が頭を打ちつけた。頭に衝撃が走るような感覚がした。ただ、腕を掴まれた。痣になるのではないかと思えるほどに強く掴まれ、私は小さく悲鳴を上げた。
腕を掴む手の力は僅かに緩んだような気がした。ただ、それでも力は強く、そのまま上に引っ張り上げられる。
「走るよ」
______わかるから、声は出さなくていいよ。
口に出したと思ったはずの声はただの息に変わっていた。体が熱い。全身が痛い。内臓が捻じれ、張り裂けそうだった。頭は酔った後のようにくらくらとしていて、重かった。ただ、その足だけは異様に軽くて、私はおぼろげな意識の中、ただ足だけを動かした。
視界にぼんやりと、警官の横顔が浮かんだ。疲れ果てた傷だらけの顔と、ただ前だけを見ている黒い眼が。
「トゥリー、ダー、オン」
風と一緒に流れてきた声は、警官のものとは違った。警官よりも落ち着いていて、軽やかだが重みがあった。私たちの体は茂みの中に突っ込んでいき、そのまま茂みの中を転がっていった。頬を枝がついていく。岩が骨にあたっていき、体中に痛みが響いた。服が破ける音がして、熱い体にひんやりとした風が舞い込んだ。
竜の唸り声は消えていた。先ほどあったすべてのことが嘘のようだった。耳に入る音は、木々を揺する風の音とのん気な鳥のさえずりだけだった。
「久しぶり、セツ。ところで、そちらのお嬢さんは」
顔を上げた。そこにいたのは、金色の髪を緩く一本に束ねた背の高い男だった。
「答えられるわけがないか」
そのまま視線を横にやった。警官が倒れこんでいた。警官は肩を上下させて、荒い息をしていた。男の方を見る余裕もないようだった。
男はカタカタと笑った。長い指を動かしながら笑う。まるで人形のようだった。人間の匂いが感じられず、道化じみていた。貴族のような黒い長衣のことを見なかったことにしたとしても。
「二人とも命に別状はないみたいですねぇ」
男は警官を見下ろしながらそう続けて。
「トゥリー、ダー、オン」
疲れた体と疲れた頭。体の力はすべて抜けていた。体が持ち上がるような感覚がした。彼は警官の兄弟子の一人なのかもしれない、などと思いながら、私はすべてを預けた。