竜族の洞窟
地面に足が打ち付けられた。ひんやりとした空気が手に触れた。押し付けられた腕が離れると同時に、私は素早く距離をとって周囲を見渡した。そこは、灰色の岩で囲まれた洞窟だった。入口は近く、光が差し込んでいた。どこからか水の音がしていて、地面は濡れていた。
警官は大きく息を吐いた。
「通報者との待ち合わせ場所に行くよ。時間がないからついてきて。日中は仕事しないといけないから」
最初に連れていってくれるんじゃないんだ、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。仕事があるなら、終わってから呼びに来てくれてもよかったはずなのに警官はそれをしなかった。
「あの魔法は一日一回しか使えないんですか」
振り返りもせずに、洞窟の奥へ進んでいくその後ろ姿にそう尋ねた。すると、警官は足を止め、くるりと振り返った。
「一回しか使えないわけではないけれど、僕はできる限り使いたくない」
言葉だけ聞けば刺々しいものだったが、なぜか悪意は感じられなかった。すぐに前を向き、歩きだした足取りはゆっくりだった。私は早足でついていった。
突然、動物の低い唸り声が響いた。一頭の声に呼応するように、複数の何かが唸る。私は突然のことで、思わず足がすくんだ。
「竜だよ。ここは竜使いの村」
振り返ることなく、警官は言った。
私は竜を見たことがないわけではなかった。ごく稀に遠くの空を飛んでいるのを見ることがあった。あれが竜なんだよ、と言われなければわからないほど、遠くの空を飛ぶものだった。竜の声など聞いたことがなかった。竜を間近で見ることができるのだろうか。そのような期待をしていたが、その時は竜の姿を見ることはなかった。
洞窟の曲がり角の向こうに初老の男が立っていた。
「遅くなってすみません。辺境警察のセツと申します。あなたエレオリスカさんですか」
「本当にわざわざありがとうございます」
「いえいえ」
警官は男に駆け寄った。私もそれについていき、警官の後ろに立った。初老の男性は穏やかそうな顔だちをしていて、その手は傷だらけだった。
「話は聞いています。竜の卵が盗まれているようですね」
「ええ。ちょうど一か月前から、夕方に生まれた卵が翌朝にはなくなっているのです」
警官は何かを考え込むような表情をしたあと、尋ねた。
「この周辺のことを詳しく教えてください」
「この近辺には山村がありますが、東の森を通り抜けなくてはいけないので、人が降りてくることはありません。東の森は崖が多く、魔女が居を構えているので」
魔女。
魔法使いと対をなす存在だが、魔法使いと違い、魔女は監視と制限を受けて生きなくてはいけなかった。しかし、田舎には未だ監視も制限も受けずに魔女が暮らしているという話を、耳にしたことがあった。魔女は犯罪の原因になることが多いと言われている。それゆえ、都市では恐れられているが、田舎で共存の歴史が長いと、放っておかれることが多いらしい。
監視下にない魔女を追うのは、警察の役目だった。それを思い出したのだろう、初老の竜使いは慌てた様子で口を開いた。
「古くから住んでいた魔女です。今さら何かをしようなどとは考えるはずもありません。我々は長い間、魔女と共存していました」
「大丈夫ですよ。盗賊やら隣国やら治安に関するものは、基本的には管轄外ですので」
警官はあっさりとそう返した。ただ、何かを考え込んでいるのか、どこか別の場所を見ているかのようだった。
「ありがとうございます。私は今から東の森の方を見てきます。また何かあればお世話になります」
軽く会釈をして、踵を返す。斜め上を向きながら、おそらく無意識に私を避けて歩いていった。私は慌ててついていった。随分と何かを考え込んでいるかのようで、話しかけるべきか迷った。そのままついていくと、最初にやってきた場所まで戻った。
私は息を吸った。冷たい空気が肺を満たした。
「すみません、私は」
「ごめん。忘れてた」
我に返ったかのようだった。今まで聞いた警官の言葉から、一番感情というものが見えた。やってしまった、という言葉が顔に書いてあった。あまりにもひどい言いようだったが、わざとには見えなかった。
余程真剣に考えていたのだろう。
「どうする? 特に危険なところに行くわけではないはずだから、ついてきても構わないけど」
「ついていきます」
洞窟を出ると、森が広がっていた。明るい森で、林床を藪が覆っていた。藪の真ん中には道が通っていたが、警官は道から出るとすぐに、再び藪の中に入った。そこは周囲に比べれば藪は少ないが、到底道とは言えないような獣道だった。
警官は枝をナイフで切り落としながらゆっくりと進んだ。時々地面近くの蔓に引っかかって転びそうになっていた。背の高い警官の通ったあとだからか、私が通る時には随分と歩きやすくなっていた。
「少し休憩をしよう」
しばらく歩いたところで、警官は立ち止った。そこは岩がちなせいで、少し開けた場所だった。警官はそこに長い足を伸ばして、鞄を開けた。私は近くの岩に座った。
「現場は見なくて大丈夫だったんですか?」
「見たかったけれど、竜も気が立っているだろうから、見せてくれなかっただろうね」
警官は鞄からパンを出すと、半分に割った。バリバリという音とともに、粉が散った。
「全然おいしくないけど」
「ありがとうございます。私も持っていますから」
私はパンを受け取ると、市場で貰ったパンを半分に割った。安いパンは粉を散らして半分に割れる。
私は警官から貰ったパンを口にした。警官は私が差し出したパンに噛みついた。堅いパンはなかなか噛みちぎれない。何とか噛みちぎって咀嚼すると、口の中の水分が奪われていく。
「ひどい味だ」
「そうですね」
パンは土の味がした。
警官は、枝と蜘蛛の巣だらけになった黒い髪をかき分けた。そして、また考えごとをしているのか、どこか遠くを見やった。