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六番目の魔法

 朝の市場での仕事が終わり、私は帰路についた。種まきの時はまだ先で、まだ随分と寒かった。家には母と弟がいる。他にも兄弟がいたらしいが、みな家から出ているようだった。

 貧しい家だった。父の残した借金を返しながら、生活をするのが精一杯だった。


 家は、田舎のそこそこ大きな町のはずれにあった。町から出ると、麦畑が広がっていた。

 畑の中を歩いていくが、周囲に人の姿は見えなかった。この時間は子どもは学校に、母親は家の掃除でもしているような時間なのだろう。

 風が吹いた。土煙が立った。私は咄嗟に目を瞑った。頬を砂が叩きつけた。


「君はシンだね」


 風が止んだ。私はゆっくりと瞼を上げた。目の前には若い男が立っていた。周囲に人はいなかった。彼は魔法使いであり、魔法を使って自分の前に現れたのだろうと思った。

 国には、偉大な魔法使いクロスケンをはじめとして、僅かながら魔法使いたちがいることは、田舎の貧しい家に生まれた私でも知っていた。

 汚れ一つ見当たらない黒いマントと中折れ帽、そして鈍く光る黒い靴。金持ちなのだろう。

 私は慌てて周囲を見渡した。このような魔法使いと関わり合いはなかったし、金持ちと話したことなど一度もなかった。ただ、この魔法使いは自分の名前を知っていた。その事実を私は素直に受け入れられなかった。


「君はシンでよかったか」

「誰ですか? どうして、私のことを……」


 相手に敵意はない、恐れることはない、と言い聞かせながらも、私の声は震えていた。

 魔法使いは溜息を吐きながら笑った。そして、黒い手袋をつけた手が私を指さした。


「トゥリー、ダー、オン」


 唇が動いた。その言葉をまるで歌っているかのようだった。頭がくらくらした。私は目を瞑って、その場に座りこんだ。意識がもうろうとした。自分がどこにいるのか忘れてしまうような感覚がした。


 目を開けた時には、もう魔法使いはなくなっていた。

 私は自分の体の感覚が違うことに気付いた。随分と体は軽くなっているかのように感じられた。そして、立った時、その違和感は決定的なものとなった。私の背は伸びていた。そして腕は筋張って太くなっていた。

 私は慌てて体を触った。体はかたくなっていた。そして、あるはずのものがなくなり、ないはずのものがあった。私は男になっていた。


 私は町に向かって走った。あの魔法使いを見つけなければいけないと思った。苦労して見つけた市場の仕事も、男の姿ではできない。私は走った。そして、町に入るか入らないかのところで、男とぶつかった。すみません、と口にしながら顔を上げた。

 ぶつかられた男は怪訝そうに眉をひそめた。


「君、それ、何?」


 男は随分とくたびれたコートを着ていた。しわくちゃな髪と人の好さそうな顔。やはり若い男だった。高くも低くもない平均的な高さの、軽やかな声。


「男じゃないよね」

「私が女だとわかるのですか?」

「まぁ、わかるけど」


 普通の人間ならばわかるはずもない。きっと魔法使いなのだろうと私は思った。しかし、魔法使いといえば大体はよい職業で、お金も稼げるはずなのだが、目の前の男は私とほとんど変わらないような生活をしているように見えた。


「困ってる?」

「はい。突然、魔法をかけられて、私、何も分からないんです」


 男は腕を組み、不快そうに目を細めた。


「仕事だから、そう言われると放っておけないんだよね。警官って本当に大変」


 警官だったのか、と私は驚いた。偏見は承知しているが、警官にしては随分と温厚な顔立ちであり、頼りなさげなひょろりとした体つきで、さらには魔法使いだ。魔法使いの警官など、私は聞いたことがなかった。


「トゥリー、ダー、オン」


 頭が軽く揺れた。しかし、先ほどのように意識が朦朧とするようなことはなかった。そして、体も何一つ変わっていないようだった。

 警官は溜息を吐いた。


「僕には無理だ。この魔法をかけたのはクロスケンの六人目の弟子だから」

「大魔法使いのクロスケンですか?」


 大魔法使いクロスケンの名前を知らない者はいない。それ程に有名な魔法使いだった。国を守る魔法をかけ、この国の法律や制度の改革にも関わった。数年前に亡くなったはずだ。数年前までは生きていたのに関わらず、伝説のような存在になっていた。

 その、六番目の弟子。それならば、この警官をやっているような魔法使いに解けなくて当然なのだろう。


「僕は解けないけど、兄さんたちなら解けるかもしれない。少なくともハルなら解ける」

「ハルって……」

「君に魔法をかけた六番目の弟子の名前」

「知り合いなんですか?」

「僕はクロスケンの七番目の弟子だから」


 私はそれを聞いてようやく理解した。「兄さん」はクロスケンの他の弟子なのだろう。しかし、七番目とはいえ、クロスケンの弟子が、なぜこのようなところで警官をやっているのかが私にはわからなかった。


「ハルはどこに住んでいるの?」

「さぁ。他の兄さんたちはちゃんとした職についているんだけど、ハルはよくわかんないんだよね。兄さんたちならわかるかもしれないけど」


 私はハルの姿を思い出した。上等なマントと靴、そして帽子。良い仕事についていることぐらいしかわからない。


「今から仕事で行くところに、兄の一人がいる。ハルが今何をしているのか知っているかもしれない。どう、一緒に来る?」

「家に一度……」


 家では母と弟が農作業をしているはずだ。二人は、私が朝の仕事を終えて真っ直ぐ帰ってくると思いこんでいる。私が帰って来ないと心配するはずだ。


「それだったら、君はずっとその姿のままかもしれないね。僕は今すぐにここを出たいから」

「時間がたてば解けることは?」

「ないよ」


 警官はあっさりと言い切った。


「それで、来る? 来ない?」

「行きます」


 体が戻らないことだけは避けたかった。私が職を失って食べていけるほど、私の家は裕福ではなかった。逆に、私がいないことによって、弟の頑張りようでは、少し生活が楽になるかもしれないぐらいだった。

 私が元の姿に戻って、その時には職も家族も失っていたとしても、一人ならば生きていける。住み込みで働けるところを探せばいい。私は自分にそう言い聞かせた。


「じゃあ、掴まって」


 掴まって、と言う割には強引に腕をとられ、くたくたになった柔らかいコートに顔を押し付けられた。その時、今の私よりはやや太いが、決して服とはない腕がコートから見えた。コートからは雨の匂いがした。


「名前はなんていうんですか」

「セツ。君は?」

「シン」


 セツ。

 見た目通りの、庶民らしい簡素な名前だった。


「じゃあ、行くよ、シン。トゥリー、ダー、オン」


 ハルという魔法使いの、口ずさむような言い方とは反対に、真剣な声だった。風が巻き起こった。土煙が服の隙間から入ってきた。ただ、顔はコートのおかげで、少しも痛くなかった。

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