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世界怪談名作集・岡本綺堂訳 行間200%

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空行を用いて段落を使用した場合のレイアウトです。

文字数は凡そ一万五千文字です。

本文は青空文庫より。



【世界怪談名作集・岡本綺堂訳 貸家/リットン Edward George Earle Bulwer-Lytton】


       一


 わたしの友達――著述家で哲学者である男が、ある日、冗談と真面目と半分まじりな調子で、わたしに話した。

「われわれは最近思いもつかないことに出逢ったよ。ロンドンのまんなかにもの屋敷を見つけたぜ」

「ほんとうか。何が出る。……幽霊か」

「さあ、たしかな返事はできないが、僕の知っているのはまずこれだけのことだ。六週間以前に、家内と僕とが二人連れで、家具付きのアパートメントをさがしに出て、ある閑静な町をとおると、窓に家具付き貸間というふだが貼ってある家を見つけたのだ。場所もわれわれに適当であると思ったので、はいってみると部屋も気に入った。そこでまず一週間の約束で借りる約束をしたのだが……。三日目に立ちのいてしまった。誰がどう言ったって、家内はもうその家にいるのはいやだという。それも無理はないのだ」

「君は何か見たのか」

「別にいろいろの不思議を見たり聞いたりしたわけでもないのだが、家具のないある部屋の前を通ると、なんとも説明することの出来ない一種の凄気せいきにうたれるのだ。ただし、その部屋で何も見えたのではなし、聞こえたのでもないが……。そこで、僕は四日目の朝、その家の番をしている女を呼んで、あの部屋は何分なにぶんわれわれに適当しないから、約束の一週間の終わるまでここにいることは出来ないと言い聞かせると、女は平気でこう言うのだ。

〈わたしはそのわけを知っています。それでもあなたがたはほかの人たちよりも長くいたほうです。ふた晩辛抱する人さえ少ないくらいで、三晩泊まっていたのはあなたがたが初めてです。それも恐らくあの連中があなたがたに好意を持ったせいでしょう〉

 なんだかおかしな返事だから、僕は笑いながら〈あの連中とはなんだ〉といてみると、女はまたこう言うのだ。

〈なんだか知りませんが、ここのうちり着いている者です。わたしは遠い昔からあの連中を識っています。その頃わたしは奉公人ではなしに、ここの家に住んでいたことがあるのです。あの連中はいずれ私を殺すだろうと思っていますが、そんなことはかまいません。わたしはこの通りの年寄りですから、どのみちやがて死ぬからだです。死ねばあの連中と一緒になって、やはりこの家に住んでいることが出来るのです〉

 いや、どうも驚いたね。女はそんなことを実に怖ろしいほど平気で話しているのだ。僕は薄気味が悪くなって、もう何も話す元気がなくなったので、そうそうに立ち去ってしまった。もちろん約束通りに一週間分の間代まだいを払って来たが、そのくらいのことで逃げ出せればやすいものさ」

「不思議だね」と、わたしは言った。「そう聞くと、僕はぜひその化け物屋敷に寝てみたいよ。君が不名誉の退却をしたという、その家のありかを後生ごしょうだから教えてくれないか」

 友達はそのありかを教えてくれた。彼に別れたのち、わたしはまっすぐにかの化け物屋敷だという家へたずねて行くと、その家はオックスフォード・ストリートの北側で、陰気ではあるが家並やなみの悪くない抜け道にあったが、家はまったくめ切って、窓に貸間の札もみえない。戸を叩いても返事がない。仕方がなしに引っ返そうとすると、となりの空地にビールの配達が白い金属のかんをあつめていて、わたしのほうを見かえりながら声をかけた。

「あなたはそこの家で誰かをおたずねなさるんですか」

「むむ。貸家があるということを聞いたので……」

「貸家ですか。そこはJさんが雇い婆さんに一週間一ポンドずつやって、窓のてをさせていたんですがね。もういけませんよ」

「いけない。なぜだね」

「その家は何かにたたられているんですよ。雇い婆さんは眼を大きくあいたままで、寝床のなかに死んでいたんです。世間の評判じゃあ、化け物にめ殺されたんだと言いますが……」

「ふむう。そのJさんというのは、この家の持ち主かね」

「そうです」

「どこに住んでいるね」

「G町です」と、配達はその番地をも教えてくれた。

 わたしは彼にいくらかの心付けをやって、それから教えられた所へたずねて行くと、主人のJ氏は都合よく在宅であった。J氏はもう初老を過ぎた人で、理智に富んでいるらしい風貌と、人好きのするような態度をそなえていた。

 正直に自分の姓名と職業とを明かした上で、わたしはかの貸間の家に何かの祟りがあるらしく思われるということを話した。そうして、わたしはぜひその家を探険してみたいから、ひと晩でもいいからどうぞ貸してくれまいか。それを承知してくれれば、お望み通りの金を払うと言った。

 J氏はそれに対して、非常に丁寧に答えた。

「よろしゅうございます。あなたのご用の済むまでお貸し申しましょう。家賃などはどうでもかまいません。あの婆さんは宿やどなしの貧乏人で養育院にいたのを、わたしが引き取って来たのです。あの婆さんは子供の時にわたしの家族のある者と知り合いであったと言いますし、またその以前は都合がよくって、わたしの叔父からあの家を借りて住んでいたこともあるというので、それらの関係からわたしが引き取って番人に雇っておいたのですが、可哀そうに三週間前に死んでしまいました。あの婆さんは高等の教育もあり、気性もしっかりした女で、わたしが今まで連れて来た番人のうちで無事にあの家に踏みとどまっていたのは、あの女ばかりでした。それが今度死んで、しかも突然に死んだものですから、検視が来るなどという騒ぎになって、近所でもいろいろのいやな噂を立てます。したがって、そのかわりの番人を見つけるのも困難ですし、もちろん借り手もあるまいと思いますから、今後一年間はその人がすべての税金さえ納めてくれればいいという約束で、無代ただで誰にでも貸そうと考えているのです」

「いったい、いつごろからそんな評判が立つようになったのです」

「それは確かには申されませんが、もうよほど以前からのことです。唯今ただいまお話し申した婆さんが借りていた時、すなわち三十年前から四十年前のあいだだそうですが、すでにそのころから怪しいことがあったといいます。わたしが覚えてからでも、あの家に三日とつづけて住んでいた人はありません。その怪談はいろいろですから、いちいちにそのお話をすることは出来ませんし、また、そのお話をしてあなたに何かの予覚をあたえるよりも、あなた自身があの家へ入り込んで直接にご判断なさるほうがよろしかろうと思います。ただ、なにかしら見えるかもしれない、聞こえるかもしれないというお覚悟で、あなたがご随意に警戒をなさればよろしいのです」

「あなたはあの家に、一夜を明かそうというような好奇心をお持ちになったことはありませんか」

「一夜を明かしたことはありませんが、真っ昼間に三時間ほど、たった一人であの家のなかにいたことがあります。わたしの好奇心は満足されませんでしたが、その好奇心も消滅して、ふたたび経験を新たにする気も出なくなりました。と申したら、なぜ十分に探究しないかとおっしゃるかもしれませんが、それにはまたわけがあるのです。そこで、あなたもこの一件について非常に興味を持ち、また、あなたの神経が非常に強いというのであれば格別、さもなければあの家で一夜を明かすということは、まあ、お考えになったほうがよろしくはないかと思います」

「いや、わたしは非常の興味を持っているのです」と、私は言った。「臆病者はともかくも、わたしの神経はいかなる危険にも馴れています。化け物屋敷でも驚きません」

 J氏も深くは言わないで、用箪笥ようだんすから鍵をとり出して私に渡してくれた。その腹蔵ふくぞうのない態度にわたしは衷心ちゅうしんから感謝し、また、わたしの希望に対して紳士的の許可をあたえてくれたことをも感謝して、わたしは自分の望むものを手に入れることになった。そうなると気がくので、わたしはひとまず我が家へ戻るやいなや、日ごろ自分が信用しているFという雇い人を呼んだ。彼は年も若いし、快活で、物を恐れぬ性質で、わたしの知っている中では最も迷信的の偏見へんけんなどを持っていない人間であった。

「おい、おまえも覚えているだろう」と、わたしは言った。「ドイツにいるときに、古い城のなかへ首のない化け物が出るというので、その幽霊を見つけに行ったところが、何事もないので失望したことがある。ところが、今度はお望み通り、ロンドンの市中で確かに化け物の出る家のあることを聞いたのだ。おれは今夜そこへ泊まりに行くつもりだ。おれの聞いたところによると、そこの家には確かに何かが見えるか聞こえるかするのだ。その何かがすこぶる怖ろしい物らしい。そこで、おまえが一緒に行ってくれれば、何事が起こっても非常に気丈夫だと思うのだが、どうだろう」

「よろしい、旦那。わたくしをお連れください」と、彼は歯をむき出して愉快そうに笑った。

「では、ここにそのいえの鍵がある。これがその所在地だ。これを持ってすぐに行って、おまえのいいと思う部屋へおれの寝床を用意しておいてくれ。それから幾週間も空家あきやになっていたのだから、ストーブの火をよくおこしてくれ。寝床へも空気を入れるようにしてくれ。もちろん、そこに蝋燭ろうそくき物があるかどうだか見てくれ。おれの短銃ピストル匕首あいくちも持って行ってくれ。おれの武器はそれでたくさんだ。おまえも同じように武装して行け。たとい一ダースの幽霊が出て来たからといって、それと勝負をすることが出来ないようでは、英国人のつらよごしだぞ」

 しかし、私は非常に差し迫った仕事をかかえているので、その日の残りの時間はもっぱらその仕事についやさなければならなかった。わたしは自分の名誉をけたる今夜の冒険について、あまり多く考えるひまを持たないほどにいそがしく働いた。わたしははなはだ遅くなってから、ただひとりで夕飯を食った。食うあいだに何か読むのが私の習慣であるので、わたしはマコーレーの論文の一冊を取り出した。そうして、今夜はこの書物をたずさえて行こうと思った。マコーレーの作は、その文章も健全であり、その主題も実生活に触れているので、今夜のような場合には、迷信的空想に対する一種の解毒剤げどくざいの役を勤めるであろうと考えたからである。

 午後九時半頃に、かの書物をポケットへ押し込んで、わたしは化け物屋敷の方へぶらぶらと歩いて行った。わたしはほかに一匹の犬を連れていた。それは敏捷で、大胆で、勇猛なるブルテリア種の犬で、鼠をさがすために薄気味のわるい路の隅や、暗い小径こみちなどを夜歩きするのが大好きであった。かれは幽霊狩りなどには最も適当の犬であった。

 時は夏であったが、身にしむように冷えびえする夜で、空はやや暗く曇っていた。それでも月は出ているのである。たといその光りが弱く曇っていても、やはり月には相違ないのであるから、夜半よなかを過ぎて雲が散れぱ、明かるくなるであろうと思われた。

 かの家にゆき着いて戸をたたくと、わたしの雇い人は愉快らしい微笑を含んで主人を迎えた。

「支度は万事できています。すこぶる上等です」

 それを聞いて、わたしはむしろ失望した。

「何か注意すべきようなことを、見も聞きもしなかったか」

「なんだか変な音を聞きましたよ」

「どんなことだ、どんなことだ」

「わたくしのうしろをぱたぱた通るような跫音あしおとを聞きました。それから、わたくしの耳のそばで何かささやくような声が一度か二度……。そのほかには何事もありませんでした」

こわくなかったか」

「ちっとも……」

 こう言う彼の大胆な顔をみて、何事が起こっても彼はわたしを見捨てて逃げるような男でないということが、いよいよ確かめられた。

 わたしたちは広間へ通った。往来にむかった窓はしまっている。わたしの注意は今やかの犬の方へ向けられたのである。犬もはじめのうちは非常に威勢よく駈け廻っていたが、やがてドアの方へしりごみして、しきりに外へ出ようとして引っ掻いたり、泣くような声をしてうなったりしているので、私はしずかにその頭をたたいたりして勇気をつけてやると、犬もようよう落ち着いたらしく、私とFのあとについて来たが、いつもは見識みしらない場所へ来るとまっさきに立って駈け出すにもかかわらず、今夜はわたしの靴のかかとにこすりついて来るのであった。

 私たちはまず地下室や台所を見まわった。そうして、穴蔵に二、三本の葡萄酒のびんがころがっているのを見つけた。その罎には蜘蛛くもの巣が一面にかかっていて、多年そのままにしてあったことが明らかに察せられると同時に、ここに棲む幽霊が酒好きでないことも確かにわかったが、そのほかには別に私たちの興味をひくような物も発見されなかった。外には薄暗い小さな裏庭があって、高い塀にかこまれている。この庭の敷石はひどくしめっているので、その湿気とほこりと煤煙ばいえんとのために、わたしたちが歩くたびに薄い足跡が残った。

 わたしは今や初めて、この不思議なる借家において第一の不思議を見たのである。

 わたしはあたかも自分の前に一つの足跡を見つけたので、急に立ちどまってFに指さして注意した。一つの足跡がまたたちまち二つになったのを、わたしたちふたりは同時に見た。ふたりはあわててその場所を検査すると、わたしの方へむかって来たその足跡はすこぶる小さく、それは子供の足であった。その印象はすこぶる薄いもので、その形を明らかに判断するのは困難であったが、それが跣足はだしの跡であるということは私たちにも認められた。

 この現象は私たちが向うの塀にゆき着いたときに消えてしまって、帰る時にはそれを繰り返すようなこともなかった。階段を昇って一階へ出ると、そこには食堂と小さい控室がある。またそのうしろには更に小さい部屋がある。この第三の部屋は下男の居間であったらしい。それから座敷へ通ると、ここは新しくて綺麗であった。そこへはいって、わたしは肘かけ椅子にると、Fは蝋燭立てをテーブルの上に置いた。わたしにドアをしめろと言いつけられて、彼が振りむいて行ったときに、わたしの正面にある一脚の椅子が急速に、しかもなんの音もせずに壁の方から動き出して、わたしの方から一ヤードほどの所へ来て、にわかに向きを変えて止まった。

「ははあ、これはテーブル廻しよりもおもしろいな」と、わたしは半分笑いながら言った。

 そうして、わたしがほんとうに笑い出したときに、わたしの犬はその頭をあとへひいてえた。

 Fはドアをしめて戻って来たが、椅子の一件には気がつかないらしく、吠える犬をしきりに鎮めていた。わたしはいつまでもかの椅子を見つめていると、そこに青白いもやのようなものが現われた。その輪郭りんかくは人間の形のようであるが、わたしは自分の眼を疑うほどにきわめて朦朧たるものであった。犬はもうおとなしくなっていた。

「その椅子を片付けてくれ。むこうの壁の方へ戻して置いてくれ」と、わたしは言った。

 Fはその通りにしたが、急に振りむいて言った。

「あなたですか。そんなことをしたのは……」

「わたしが……。何をしたというのだ」

「でも、何かがわたくしをぶちました。肩のところを強くぶちました。ちょうどここの所を……」

「わたしではない。しかし、おれたちの前には魔術師どもがいるからな。その手妻てづまはまだ見つけ出さないが、あいつらがおれたちをおどかす前に、こっちがあいつらを取っつかまえてやるぞ」

 しかし、私たちはこの座敷に長居することはできなかった。実際どの部屋へや湿しめっぽくて寒いので、わたしは二階の火のある所へ行きたくなったのである。私たちは警戒のために座敷のドアにじょうをおろして出た。今まで見まわった下の部屋もみなそうして来たのであった。

 Fがわたしのためにえらんでおいてくれた寝室は、二階じゅうでは最もよい部屋で、往来にむかって二つの窓を持っている大きい一室であった。規則正しい四脚の寝台が火にむかって据えられて、ストーブの火は美しくさかんに燃えていた。その寝台と窓とのあいだの壁の左寄りにドアがあって、そこからFの居間になっている部屋へ通ずるようになっていた。

 次にソファー・ベッドの付いている小さい部屋があって、それは階段のあがり場になんの交通もなく、わたしの寝室に通ずるただ一つのドアがあるだけであった。

 寝室の火のそばには、衣裳戸棚が壁とおなじ平面に立っていて、それには錠をおろさずに、にぶいとび色の紙をもっておおわれていた。試みにその戸棚をあらためたが、そこには女の着物をかける掛け釘があるばかりで、ほかには何物もなかった。さらに壁を叩いてみたが、それは確かに固形体で、外は建物の壁になっていた。

 これでまず家じゅうの見分けんぶんを終わって、わたしはしばらく火に暖まりながらシガーをくゆらした。この時まで私のそばについていたFは、さらにわたしの探査を十分ならしめるために出て行くと、昇り口の部屋のドアが堅くしまっていた。

「旦那」と、彼は驚いたように言った。「わたくしはこのドアに錠をおろした覚えはないのです。このドアは内から錠をおろすことは出来ないようになっているのですから……」

 その言葉のまだ終わらないうちに、そのドアは誰も手を触れないにもかかわらず、また自然にしずかにあいたので、私たちはしばらく黙って眼を見あわせた。化け物ではない、何か人間の働きがここで発見されるであろうという考えが、同時に二人の胸に浮かんだので、わたしはまずその部屋へ駈け込むと、Fもつづいた。

 そこは家具もない、なんの装飾もない、小さい部屋で、少しばかりの空き箱とかごのたぐいが片隅にころがっているばかりであった。小さい窓の鎧戸よろいどはとじられて、火を焚くところもなく、私たちが今はいって来た入り口のほかには、ドアもなかった。床には敷物もなく、その床も非常に古くむしばまれて、そこにもここにも手入れをした継ぎ木の跡が白くみえた。しかもそこに生きているらしい物はなんにも見えないばかりか、生きている物の隠れているような場所も見いだされなかった。

 私たちが突っ立って、そこらを見まわしているうちに、いったんあいたドアはまたしずかにしまった。二人はここに閉じこめられてしまったのである。


       二


 私はここに初めて一種の言い知れない恐怖のきざして来るのを覚えたが、Fはそうではなかった。

「われわれをわなに掛けようなどとは駄目だめなことです。こんな薄っぺらなドアなどは、わたしの足で一度蹴ればすぐにこわれます」

「おまえの手であくかどうだか、まずためしてみろ」と、わたしも勇気を振るい起こして言った。「その間におれは鎧戸をあけて、外に何があるか見とどけるから」

 わたしは鎧戸の貫木かんぬきをはずすと、窓は前にいった裏庭にむかっているが、そこには張り出しも何もないので、切っ立てになっている壁を降りる便宜よすがもなく、庭の敷石の上へ落ちるまでのあいだに足がかりとするような物は見あたらなかった。

 Fはしばらくドアをあけようと試みていたが、それがどうにもならないので、わたしの方へ振りむいて、もうこの上は暴力を用いてもいいかと聞いた。

 彼が迷信的の恐怖に打ちって、こういう非常の場合にも沈着で快活であることは、実にあっぱれとも言うべきで、わたしはいろいろの意味において、いい味方を連れて来たことを祝さなければならなかった。そこで、わたしは喜んで彼の申しいでを許可したが、いかに彼が勇者であってもその力は弱いものと見えて、どんなに蹴ってもドアはびくともしなかった。

 彼はしまいには息が切れて、蹴ることをあきらめたので、わたしが立ち代ってむかったが、やはりなんの効もなかった。それをやめると、ふたたび一種の恐怖がわたしの胸にきざして来たが、今度はそれが以前よりもぞっとするような、根強いものであった。

 そのとき私は、ささくれ立ったゆかの裂け目から何だか奇怪な物凄いような煙りが立ち昇って来て、人間には有害でありそうな毒気が次第に充満するのを見たかと思うと、ドアはさながら我が意思をもって働くように、またもやしずかにあいたので、監禁をゆるされた二人はそうそうに階段のあがり場へ逃げ出した。

 一つの大きい青ざめた光り――人間の形ぐらいの大きさであるが、形もなくて、ただふわふわしているのである。それが私たちの方へ動いて来て、あがり場から屋根裏の部屋へつづいている階段を昇ってゆくので、私はその光りを追って行った。Fもつづいた。

 光りは階段の右にある小さい部屋にはいったが、その入り口のドアはあいていたので、私もすぐあとからはいると、その光りはうず巻いて、小さい玉になって、非常に明かるく、あたかも生けるがごとくに輝いて、部屋の隅にある寝台の上にとどまっていたが、やがてふるえるように消えてしまったので、私たちはすぐにその寝台をあらためると、それは奉公人などの住む屋根裏の部屋には珍らしくない半天蓋はんてんがいの寝台であった。

 寝台のそばに立っている抽斗ひきだし戸棚の上には絹の古いハンカチーフがあって、そのほころびを縫いかけの針が残っていた。ハンカチーフはほこりだらけになっていたが、それは恐らく先日ここで死んだという婆さんの物で、婆さんはここを自分の寝床にしていたのであろう。

 わたしは多大の好奇心をもって抽斗をいちいちあけてみると、そのなかには女の着物の切れっぱしと二通の手紙があって、手紙には色のさめた細い黄いろいリボンをまきつけて結んであった。わたしは勝手にその手紙を取りあげて自分の物にしたが、ほかには何も注意をひくような物は発見されなかった。

 かの光りは再び現われなかったが、二人が引っ返してここを出るときに、ちょうどわたしたちの前にあたって、床をぱたぱたと踏んでゆくような跫音あしおとがきこえた。私たちはそれから都合四間(よま)の部屋を通りぬけてみたが、かの跫音はいつも二人のさきに立って行く。しかもその形はなんにも見えないで、ただその跫音が聞こえるばかりであった。

 わたしはかの二通の手紙を手に持っていたが、あたかも階段を降りようとする時に、何ものかが私のひじをとらえたのを明らかに感じた。そうして、わたしの手から手紙を取ろうとするらしいのを軽く感じたが、私はしっかりとつかんで放さなかったので、それはそのままになってしまった。

 二人は私のために設けられている以前の寝室に戻ったが、ここで私は自分の犬が私たちのあとについて来なかったことに気がついた。犬は火のそばにり付いてふるえているのであった。

 私はすぐにかの手紙をよみ始めると、Fはわたしが命令した通りの武器を入れて来た小さい箱をあけて、短銃ピストル匕首あいくちを取り出して、わたしの寝台の頭のほうに近いテーブルの上に置いた。そうして、かの犬をいたわるようにでていたが、犬は一向にその相手にならないようであった。

 手紙は短いもので、その日付けによると、あたかも三十五年前のものであった。それは明らかに情人がその情婦に送ったものか、あるいは夫が若い妻に宛てたものと見られた。文章の調子ばかりでなく、以前の旅行のことなどが書いてあるのを参酌さんしゃくしてみると、この手紙の書き手は船乗りであって、その文字の綴り方や書き方をみると、彼はあまり教育のある人物とは思われなかったが、しかも言葉そのものには力がこもっていて、あらっぽい強烈な愛情が満ちていた。しかし、そのうちのそこここに何らかの暗い不可解の点があって、それは愛情の問題ではなく、ある犯罪の秘密を暗示しているように思われた。すなわち、その一節にこんなことが書いてあったのを、私は記憶していた。

[#ここから2字下げ]

――すべてのことが発覚して、すべての人がわれわれをののしり憎んでも、たがいの心は変わらないはずだ――

――けっして他人をおまえと同じ部屋に寝かしてはならないぞ。夜なかにおまえがどんな寝言を言わないとも限らない――

――どんなことがあっても、われわれの破滅にはならない。死ぬ時が来れば格別、それまではなんにも恐れることはない――

[#ここで字下げ終わり]

 それらの文句の下に、それよりも上手な女文字で「その通りに」と書き入れてあった。そうして、最後の日付けの手紙の終わりには、やはり同じ女文字で「六月四日、海に死す。その同じ日に――」と書き入れてあった。わたしは二通の手紙を下に置いて、それらの内容について考え始めた。

 そういうことを考えるのは、神経を不安定にするものだとは思いながら、わたしは今夜これからいかなる不思議に出逢おうとも、それに対抗するだけの決心は十分に固めていた。

 わたしはちあがって、かの手紙をテーブルの上に置いて、まださかんに輝いている火をかきおこして、それにむかってマコーレーの論文集をひらいて、十一時半頃まで読んだ。それから着物のままで寝台へのぼって、Fにも自分の部屋へさがってもよいと言い聞かせた。ただし、今夜は起きていろ、そうして私の部屋との間のドアをあけておけと命じた。

 それから私は一人になって、寝台の枕もとのテーブルに二本の蝋燭をともした。二つの武器のそばに懐中時計を置いて、ふたたびマコーレーを読み始めると、わたしの前の火は明かるく燃えて、犬はの前の敷物の上に眠っているらしく寝ころんでいた。二十分ほど過ぎたころに、すきもる風が不意に吹き込んで来たように、ひどく冷たい空気がわたしの頬を撫でたので、もしやあがり場に通じている右手のドアがあいているのではないかと見返ると、ドアはちゃんとしまっていた。さらに左手をみかえると、蝋燭の火は風に吹かれたように揺れていた。それと同時に、テーブルの上にある時計がしずかに、眼にみえない手につかみ去られるように消え失せてしまった。

 わたしは片手に短銃、かた手に匕首を持ってび起きた。時計とおなじように、この二つの武器をも奪われてはならないと思ったからである。こう用心して床の上を見まわしたが、どこにも時計は見えなかった。このとき枕もとでしずかに、しかも大きく叩く音が三つ聞こえた。

「旦那。あなたですか」と、次の部屋でFが呼びかけた。

「いや、おれではない。おまえも用心しろ」

 犬は今起きあがって、からだを立てて坐った。その耳を左右に早く動かしながら、不思議な眼をして私を見つめているのが、わたしの注意をひいた。犬はやがてしずかに身を起こしたが、なおまっすぐに立ったままで、総身そうみの毛を逆立さかだたせながら、やはりあらあらしい眼をして私をじっと見つめていた。しかも、私は犬のほうなどを詳しく検査しているひまはなかった。Fがたちまちに自分の部屋からころげ出して来たのである。

 人間の顔にあらわれた恐怖の色というものを、私はこのときに見た。もし往来で突然出逢ったならば、おそらく自分の雇い人とは認められないであろうと思われるほどに、Fの相好そうごうはまったく変わっていた。彼はわたしのそばを足早に通り過ぎながら、あるかないかの低い声で言った。

「早くお逃げなさい、お逃げなさい。わたしのあとからついて来ます」

 彼はあがり場のドアを押しあけて、むやみに外へ駈け出すので、わたしは待て待てと呼び戻しながら続いて出ると、Fはわたしを見返りもせずに、階段をね降りて、手摺りに取りついて、一度に幾足もばたばたさせながら、あわてて逃げ去った。わたしは立ちどまって耳を澄ましていると、表の入り口のドアがあいたかと思うと、またしまる音がきこえた。頼みのFは逃げてしまって、私はひとりでこの化け物屋敷に取り残されたのである。


 ここに踏みとどまろうか、Fのあとを追って出ようかと、わたしもちょっと考えたが、わたしの自尊心と好奇心とが卑怯に逃げるなと命じたので、わたしは再び自分の部屋へ引っ返して、寝台の方へ警戒しながら近づいた。なにぶんにも不意撃ちを食ったので、Fがいったい何を恐れたのか、私にはよく分からなかったのである。もしやそこに隠し戸でもあるかと思って、わたしは再び壁を調べてみたが、もちろんそんな形跡もないばかりか、にぶい褐色の紙には継ぎ目さえも見いだされなかった。してみると、Fをおびやかしたものは、それが何物であろうとも、わたしの寝室を通って進入したのであろうか。わたしは内部の部屋のドアに錠をおろして、何か来るかと待ち構えながら、爐の前に立っていた。

 このとき私は壁の隅に犬ののめり込んでいるのを見た。犬は無理にそこから逃げ路を見つけようとするように、からだを壁に押しつけているので、わたしは近寄って呼んだ。

 哀れなる動物はひどい恐怖に襲われているらしく、歯をむき出して、あごからよだれを垂らして、わたしが迂濶うかつにさわったらばすぐにみつきそうな様子で、主人のわたしをも知らないように見えた。動物園で大蛇だいじゃに呑まれようとする兎のふるえてすくんだ様子を見たことのある人には、誰でも想像ができるに相違ない。わたしの犬の姿はあたかもそれと同様であった。いろいろになだめてもすかしても無駄であるばかりか、恐水病にでもかかっているようなこの犬に咬みつかれて、なにかの毒にでも感じてはならないと思ったので、わたしはかれを打ち捨てて、爐のそばのテーブルの上に武器を置いて、椅子に腰をおろして再びマコーレーを読み始めた。

 やがて読んでいる書物のページと燈火あかりとのあいだへ何か邪魔にはいって来たものがあるらしく、紙の上が薄暗くなったので、わたしは仰いで見まわすと、それはなんとも説明し難いものであった。それは、はなはだ朦朧たる黒い影で、明らかに人間の形であるともいえないが、それに似た物を探せばやはり人間の形か影かというのほかはないのであった。それが周囲の空気や燈火から離れて立っているのを見ると、その面積はすこぶる大きいもので、頭は天井にとどいていた。それをじっとにらんでいると、わたしは身にしみるような寒さを感じたのである。その寒さというものがまた格別で、たとい氷山がわたしの前にあってもこうではあるまい。氷山の寒さのほうがもっと物理的であろうと思われた。しかも、それが恐怖のための寒さでないことは私にも分かっていた。

 わたしはその奇怪な物を睨みつづけていると、自分にも確かにはいえないが、二つの眼が高いところから私を見おろしているように思われた。ある一瞬間には、それがはっきりと見えるようで、次の瞬間にはまた消えてしまうのであるが、ともかくも青いような、青白いような二つの光りが暗い中からしばしばあらわれて、半信半疑のわたしを照らしていた。わたしは口をきこうと思っても、声が出ない。ただ、これが怖いか、いや怖くはないと考えるだけであった。つとめてちあがろうとしても、支え難い力におしすくめられているようで起つことが出来ない。わたしは私の意思に反抗し、人間の力を圧倒するこの大いなる力を認めないわけにはいかなかった。物理的にいえば、海上で暴風雨に出逢ったとか、あるいは大火災に出逢ったとかいうたぐいである。精神的にいえば、何か怖ろしい野獣と闘っているか、あるいは大洋中でふかに出逢ったとでもいうべきである。すなわち、わたしの意思に反抗する他の意思があって、その強い程度においては風雨あらしのごとく、火のごとく、その実力においてはかの鱶のごときものであった。

 こういう感想がだんだんにたかまると、なんともいえない恐怖が湧いて来た。それでも私は自尊心――勇気ではなくとも――をたもっていて、それは外部から自然に襲って来る怖ろしさであって、わたし自身が怖れているのではないと、心のうちで言っていた。わたしに直接危害を加えないものを恐れるはずはない。わたしの理性は妖怪などを承認しないのである。いま見るものは一種の幻影に過ぎないと思っていた。

 一生懸命の力を振るい起こして、わたしはついに自分の手を伸ばすことが出来た。そうして、テーブルの上の武器をとろうとする時、突然わたしの肩と腕に不思議の攻撃を受けて、わたしの手はぐたり[#「ぐたり」に傍点]となってしまった。そればかりでなく、蝋燭の火が消えたというのでもないが、その光りは次第に衰えて来た。爐の火も同様で、焚き物のひかりは吸い取られるように薄れて来て、部屋の中はまったく暗くなった。この暗いなかで、かの「黒い物」に威力をふるわれてはたまらない。わたしの恐怖は絶頂に達して、もうこうなったら気を失うか、呶鳴どなるかのほかはなかった。わたしは呶鳴った。一種の悲鳴に近いものではあったが、ともかくも呶鳴った。

「恐れはしないぞ。おれの魂は恐れないぞ」と、こんなことを呶鳴ったように記憶している。

 それと同時に私はちあがった。真っ暗のなかを窓の方へ突進して、カーテンを引きめくって、鎧戸よろいどをはねあけた。まず第一に外部の光線を入れようと思ったのである。外には月が高く明かるく懸かっているのを見て、わたしは今までの恐怖を忘れたように嬉しく感じた。空には月がある。眠った街にはガス燈の光りがある。わたしは部屋の方を振り返ってみると、月の影はそこへもさし込んで、その光りははなはだ青白く、かつ一部分ではあったが、ともかくもそこらが明かるくなっていた。かの黒い物はなんであったか知らないが、形はもう消えてしまって、正面の壁にその幽霊かとも見えるような薄い影をとどめているのみであった。

 わたしは今、テーブルの上に眼を配ると、テーブル――それにはクロスもカヴァーもない、マホガニーの木で作られた円い古いテーブルであった――の下から一本の手がひじのあたりまでぬう[#「ぬう」に傍点]と出て来た。その手は私たちの手のように血や肉の多くない、せた、しわだらけの、小さい手で、おそらく老人、ことに女の手であるらしく思われたが、そろりそろりと伸びて来て、テーブルの上にある二通の手紙に近づいたかと見るうちに、その手も手紙も共に消えうせた。

 この時さっき聴いたと同じような、物を撃つ音が大きく三度ひびいた。その音がしずかにやむと、この一室が震動するように感じられて、床の上のそこからもここからも、光りの泡のような火花と火の玉があらわれた。それは緑や黄や、火のごとくあかいのや、空のごとく薄青いのや、いろいろの色をなしているのであった。椅子は誰が動かすともなしに壁ぎわを離れて、寝台の正面に直されたかと思うと、女の形がそこにあらわれた。それは死人のように物凄いものではあったが、生きている者の形であるらしく明らかに認められた。

 それは悲しみを含んだ若い美人の顔であった。身には雲のように白いローブ(長いゆるやかな着物)をまとって、のどから肩のあたりは露出あらわになっていた。女は肩に垂れかかる長い黄いろい髪をきはじめたが、私のほうへは眼もくれずに、耳を傾けるような、注意するような、待つような態度で、ドアの方を見つめていると、うしろの壁に残っている「黒い物」の影はまた次第に濃くなって、その頭にある二つの眼のようなものが女の姿を窺っているらしくも思われた。

 ドアはしまっているのであるが、あたかもそこからはいって来たように、他の形があらわれた。それも女とおなじくはっきりしていて、同じく物凄く見えるような、若い男の顔であった。男は前世紀か、またはそれに似たような服を着ていたが、そのひだの付いた襟や、レースや、帯どめの細工さいくをこらした旧式の美しい服装が、それを着ている死人のような男と不思議の対照をなして、いかにも奇怪に、むしろ怖ろしいようにも見られた。

 男の形が女に近づくと、壁の黒い影も動き出して来て、この三つがたちまちに暗いなかに包まれてしまったが、やがて青白い光りが再び照らされると、男と女の二つの幽霊は、かれらのあいだに突っ立っている大きい黒い影につかまれているように見えた。女の胸には血のあとがにじんでいた。男は剣を杖にして、これもその胸のあたりから血がしたたっていた。黒い影はかれらをんで、いずれも皆そのままに消えてしまうと、以前の火の玉がまたあらわれて、走ったりころがったりしているうちに、だんだんにそれが濃くなって、さらに激しく入り乱れて動いた。







底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社

1987(昭和62)年9月4日初版発行

2002(平成14)年6月20日新装版初版発行

入力:門田裕志、小林繁雄

校正:大久保ゆう

2004年9月26日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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