姫はご機嫌麗しくない?(3月上旬)
表からではなく旧参道を通って訪ねた本殿では、自分に声を呼びつけた青年が地元の酒を手にして待っていた。
「命様、まだ梅は咲いていないようですが?」
「俺は咲いてる、とは言ってないぞ。そろそろだからどうだ、とは言ったが」
胡座を掻いて座る青年の前に腰を下ろすと、手元にぐい呑を突きつけられる。反射的に受け取ったそれに酒を注ぎながら、青年はしれっと答えた。
普通は見頃に誘うものだが、そんな事を言って「そうか、じゃあ」と堅い蕾から一足飛びに開花させられても困るので大人しく引き下がる。
「心配しなくても『花』なら他のが見られる」
掃き出せない言葉と一緒にぐいと酒を煽る自分を意地の悪い微笑みを浮かべながら見ていた青年は、意味深なことを言うとついと表を指差した。青年の指し示す方に目をやると、正面の朱塗の楼門を小柄な狛犬を先頭にして、ひとりの少女がくぐり抜けるところだった。
目にした瞬間に、その少女が噂の巫女姫である事はすぐに分かった。
話には聞いていたけれど実物を見るのは初めてだったので、思わず器を手にしたまま腰を上げる。よく見えるようにと拝殿入口まで移動し、幼さを残すその姿を目で追い掛けていると、少女がぴたりと動きを止めた。
何事かと振り向く護衛の初代狛犬達を片手で制し、ゆるりと顔を巡らせた少女は拝殿をしばらく見つめた後、すっと目を細めた。
「……巫女姫はご機嫌が麗しくないのですか?」
「何だ、いきなり」
「険しい表情をしていました」
「ああ、それは緊張してるだけ」
「緊張?」
砂利音を立てながら社務所へ向かう後ろ姿は噂の大きさに比べて、まだまだ小さい。
「中旬に『春季大祭』があるだろ。そこで浦安の舞をやる事になってる。……小さい頃から舞に苦手意識があってな」
そう言いながら青年は楽しそうにくすくすと笑う。
「気のせいか睨まれたような気がしたのですが」
先ほど拝殿に向けた眼光は思いのほか鋭くて、息を飲むほどだった。
「顔見知りでもないお前の何に怒る? 仮に怒っているとしたら俺にだな」
「命様に? なぜです?」
「自分が大変な時に、呑気に知り合いを連れて来ているのが癇に触ったんだろう」
「それはまた……」
子供らしい八つ当たりが微笑ましかったが、次の瞬間とんでもない事に気が付いた。
「それってつまり、私に気付いていたって事ですか?」
「そうじゃないと怒らないだろうが」
青年は手酌で酒を煽りながら当たり前のように答えたが、とんでもない事だった。
「だって神気は押さえているのにっ」
他の神にテリトリーに入ったら、人でいう気配である『神気』を押さえる。境内に漂う気配に影響を与えないためと、神職につく者達の精神を乱さないためであるーーー中には不在もしくは乱入を隠すために、なんて者もいるが。誰とは言わないが。
末端でも神に名を列ねる従者達に気付かれないのはさすがに無理でも、宮司達がこちらを察知する事はまずない。
それなのに少女は一瞬でこちらに気付いた。驚くべき感知能力である。
「それが巫女たる理由。OK?」
「……OKです」
「まあ、それだけじゃないけどな」
言いながら何かを思い出したのか、ふっと青年が笑う。
おそらくこの神宮の者達だけで共有している記憶だろう。どんなものか興味が湧いたが、今の青年が答えてくれるとは思えなかった。
久々に誕生した巫女。
少女に関わる事柄はここの者達にとって、何もかもが宝物に等しいだろう。そういうことは簡単には話せないし、話したくないものだ。それが分かるから、とりあえず今日のところは引くことにした。でもチャンスがあれば、とことん掘り下げて聞こうと心に決める。
梅の代わりに見た『花』は久しぶりに自分に驚きを与えた。きっと次に訪れた時は別の驚きがあるだろう。
それがどんなものなのか。
『花』がどのように成長していくのか。
長い時の中、楽しみがひとつ増えた事が今回の訪問の最大の収穫だった。
旧サイト 2006.3.1UP分を加筆修正
『セリフ100』様の「ショートバージョン2」のひとつ
神宮には狛犬が3世代います。
境内の外まで巫女と関われるのは「初代狛犬」のみです。