第1章 監督就任 (1)
初めてオリジナルフィクションを手掛けました。時折、実話もフィクションを上手く混ぜ合わせつつ書いていきます。感想、評価も是非ともして頂ければ、幸いです。拙い文章ですが宜しくお願いします。
「小林先生、これは我が校にとって、生き残るか、統廃合の憂き目に遭うか、究極の選択なの」
11月下旬の寒く雪が降った日。私は、校長室に呼ばれ、校長から、業務命令を受けた。
原因は一昨年の夏の県知事選挙だった。この県は代々、知事は、副知事からの県庁出身者、総務省内の事務次官レースから漏れたキャリア官僚が政権与党の了解を得てと2つのルートから交互に立候補して決めていた。だが、総務省からのキャリア官僚系前知事が、浪費癖が祟り、多重債務者に成り果てた妻を助けるため、賄賂欲しさに県下水道処理場施設建設工事に介入し、首都に本社を置く最大手建設土木会社に単独で落札させた。
この県のしきたりでは、この場合技術向上と称して地元建設土木会社(地場ゼネコン)とJV(共同企業体)を組むことになっていた。事前に各社が受注数の調整(人はこれを談合と呼んでいる)落札企業体を決める仕組みになっていた。だが、前知事は落札したゼネコンに落札価格を漏らし、謝礼を受けとった。謝礼は妻の債務に当てた。
当然、激怒した地元政財界は、漏洩という名の報復に動き、知事が、妻が債務の返済にゼネコンから受け取った賄賂を流用した疑惑が持ち上がり、辞職に追い込まれた。そして前副知事を立候補に押し立て秩序を守るべく選挙に出た。
だが逆恨みした前知事側からマスコミに談合組織の存在を表沙汰にした。双方の子どものケンカじみたネガティブキャンペーンは、県民感情に呆れと閉塞感が生まれた。
そこで間隙を縫ってTVで歯に着せぬ言動で人気者となった在京の弁護士が、故郷の危機を救うべく、知事候補者に名乗りを上げた。元々、県内一の名門進学校出身であり、好感度も群れを抜いていた彼が、脱談合、大型公共事業依存による県財政の立て直し、などを掲げて立候補した。選挙戦は、県政財界の推す候補者を圧倒的知名度と清潔なイメージを生かしてダブルスコアで圧勝した。
一敗地塗れた県政財界側は、議会を支配している余裕からか飴と鞭を使いながら彼を取り込もうとしていた。
しかし、知事側が先手を打った。県庁内の掃除と称して、部局内の裏金や忌まわしき慣習を一掃した。その際に前知事時代以前の議会、財界の法律に触れる癒着の証拠資料を手にいれたのだった。新知事は好機とばかりに資料を司直の手に委ねた。結果、県議会議長や商工会議所の重鎮などこれまで県政財界を担ってきた有力者が軒並み逮捕されていった。
その一方で、弁護士活動で得た人脈やメディア露出、優遇税制などを利点に大企業の工場誘致、農産品をトップセールスを丹念に行って低迷していた雇用を確保した。高支持率を背景に県内の利権勢力を沈黙させた知事は、次に県内の教育改革を訴えた。都道府県別学力テストで下から数えた方が早い県内の小中校に自身と太いパイプを持つシンクタンクから得たプログラムを教育委員会に授けた。
そして、今度は高校改革である。生徒数に見合った学校の統廃合をすすめる計画を作り、3年後に学校名を公表すると発表したのだった。各高校は、それまでに実績評価を上げなければならくなった。
私の勤務する高校は海坂商業高校。女生徒が圧倒的に多い。偏差値は中ぐらい。情報処理科、流通経済科、国際経済科、商業科とある。部活動は10年くらい前までは女子系のスポーツが強かったが今では私立高校に押されてしまっている。近くの工業高校との統廃合を考えられているが、その工業高校は高橋ヒロシや吉田聡の少年マンガ雑誌を地でいく学校と言えばわかる通り、長い歴史だけはある海坂商OB、OG達にとっては許されるものではなかった。校長もここのOGで圧力は相当あったのだろう。
「あなたには、野球部の監督になって、3年以内に甲子園出場を目指してもらいます」
「で、何で私に?それに高校野球の指導なんかしたことないですよ」
私はやる気なさげに否定した。高校野球指導者は労働基準監督署からすれば、尊敬だけで高給なんて望めない派遣労働者も真っ青の法律に触れるが訴えられることの劣悪な職業だからだ。
しかも倫理基準だけは仏教のなんとか宗の貫主と同じくらい求められる。自分はもちろん部員の非行で謹慎を命じられる。恐ろしい仕事だ。
【いやだ!なりたくない!さとみの為にもなりたくない!】
私は妻の名前を心の中でそらんじながら拒絶していた。
「何を言っているの!あなたには誇るべきものがあるじゃない『元全日本の4番』、『アマ最強のクラッチヒッター』さん」
言わないで欲しかった。ひっそりと暮らしたいのに・・・。
校長が、なにがしかの資料を見ながら、駄々を捏ねる子どもに言い聞かせる親のように言った。
「あなた、これだけの実績があるのになに世捨て人みたいなこと言っているの!
都市対抗や日本選手権で満塁でも敬遠されていったことも知っているわ。あなたと勝負する時は、相手の監督は辞任覚悟だったらしいわね。それから全日本の時、あなたのせいでキューバ代表の監督が、国家反逆罪に問われて亡命したと聞いているわ。たしか、あなたが打席に入るとき、ダースベイダーの登場シーンがチャンステーマとして流れるそうね」
【言わないで!俺はひっそりとさとみと暮らしたいんだー!】
私は心の中でリビドーを叫んでいた。
「与坂先生がいるじゃないですか。だって甲子園出場経験者だし」
私は、喘ぐように野球部顧問を務めているベテラン教師の名前を口にした。
「与坂先生には、昨日付けで野球部監督を勇退して頂きました。次の異動で他校への転勤が決まっています。スーパースターのおかげで甲子園に行けて、しかもお情けでベンチに入れた彼に指導者としての才能があれば、今あなたに頼みません」
事実だった。確かに男子の少ない。商業高校に野球部員が入ることは強くない限り難しい。中学や地元を丹念に回ってなんとかだが、指導者としての情熱をなくし、サラリーマン教師になった彼にそれを求めるのは酷だった。
「幸い、あなたが我が校にいた。PTA、桜木会(OB、OG会の名前)も秘密裡に根回しが済んでいます。後は、あなたが頷くだけよ」
校長は、外堀を埋めたと言わんばかりに苦笑していた。
私は顔を上げた。この校長は、高校野球の現実を知っているのか、甚だ疑問だったからだ。勝てば官軍、勝っても非行の密告や監督の起用、采配に介入するOB会、後援会。リトル、シニア、ボーイズなどに選手獲得の際に利権を貪る闇ブローカーの存在、持参するのはパンツ一枚という私立の特待生制度など、光と影がある高校野球。表向きは、厳格なアマチュアリズムを標榜するが現実はそうはいかない。
「公立とは言え、あらゆる意味で『お金』が、かかりますよ。覚悟はあるのですか?」
私は現実を要約して伝えた。
「なめないでちょうだい。我が校は歴史の長さと危機管理の結束力だけは、あるの。法や規定、通達の許す限り、あなたを支えることを約束するわ」
校長は私の目を見て言った。あまり見たことがなかった眼光を見せていた。
「妻に相談させてくれませんか?彼女は、私が野球をしていたことすら見せた事がないんで」
私は即答出来なかったことを済まなそうにして言った。
「明日には、返事をくれるのでしょうね」
校長はセットした髪を少し触ってから言った。
「もちろんです」
「わかったわ。あなたも大変ね。20歳過ぎの奥さんなんか貰うからよ。どこで知りあったんだか」
校長は私を見透かすように言った。背中には、晩秋の冷たさにもまして冷や汗をかいていた。
もう日が暮れていた。学校を出る前に妻に帰宅時間を告げる。いつものように優しい声をかけてくれた。
私の家はハイツ。所謂賃貸である。妻と二人で暮らすには丁度よい。学校からは車で10分、程よい距離にある。
海坂市は小京都と言われる城下町だ。落ち着いた風情があるところだ。郊外にはシネコンもある都会の百貨店とタイアップした大型ショッピングセンターやスーパーもあり、暮らすのには困らない。新知事が誘致した工場も5年後には稼働する予定だ。
家の前に着いた。グレーのワンボックスカーに乗っている私はハイツのガレージにバックで入れた。ライトを消して、エンジンを切る。玄関では、待ちきれないのか、妻がガレージで待っていた。私がドアを開けると妻は、ひったくるように鞄を持った。そして駆け足で妻は玄関に入って行った。私は車のドアを閉め、キーレスのスイッチを入れる。私は後から玄関に着くとドアが開けられる。私はは家の中へと入った。
「お帰りなさい。あなた」
「ただいま」
妻は、はにかむような笑顔で迎えてくれた。そして軽くフレンチキスをする。
やや細身で肌理の細かい白い肌、切れ長の瞳と目鼻立ちがすっきりしている。背は160cm以上だが185cmの私よりは低い。背中まで届く長い亜麻色の艶のある髪を一つに纏め、妻の好きな熊の絵柄のエプロンに白黒のよこしまの長いTシャツに黒の膝下のスカートを履いていた。妻の顔を見ると本人は嫌うが、森田童子の『ぼくたちの失敗』が頭の中で流れる。それは、私達の出逢いが原因だった。
妻とは、確かに一年前に結婚した。だが知り合ったのは、妻が16歳の時だった。私が野球を避け、ひっそりと生きたいと願うのは、さとみとこの二人の生活を守りたいからだ。
きっかけは、新任の社会科教諭として赴任した前任校は、県内で最も歴史の古い名門の県立女子高だった。先輩教師に生徒会を無理矢理押し付けられた。その時、会計をしていたのが彼女だった。彼女は、私の赴任した時から私しか見ていなかった。その時、私にとっては一人の生徒に過ぎなかった。確かに美しさは、学校では群れを抜いて、今から考えれば際立っていた。だが、その頃は全く、あの時までは・・・。
「早く、暖まってきてね。ご飯は、もう少しだから」
私は、スーツを彼女の手によって脱がされると、背中を押されるように脱衣場へと追いたてられた。服を脱ぎ、身体を洗い、湯船に浸かった。結婚してから、私は家で入浴する時、温度調節をしたことがない。妻は、私の適温を知っているからだ。しかも季節に応じてである。
入浴中私は、あの日のことを思い出していた。今も鮮明に覚えている。夏の日の午後、さとみは、焦った顔つきで職員室に入ってきた。私の机に近寄り
「お金が合わないんです」と小声で伝えてきた。
「わかった。在原(妻の旧姓)。先に、生徒会室で待ってて」
私は彼女に伝えるとすぐ仕事を切り上げてた。職員室には、私一人しかいなかったので職員室の鍵を閉めた。午前中に部活動は全て終わっていて、午後からは、彼女以外、誰もいなかった。
「在原、入るぞ」
生徒会室に入ると誰もいなかった。奥にいるのかと思い、中へと進んだ。
(・・・カチャリ)
内鍵が閉まる。振り向くとさとみが立っていた。
「在原、いたのか。開けたらいないから、びっくりしたぞ」私は笑顔で言った。
いきなりだった。さとみは、私に近づくと顔を私の胸に埋めて、力強く抱きついてきた。
「・・・どうして?そんなに眩しい笑顔でわたしを見るの?・・・わたしは、センセの中で窒息しそうだよ・・・。わたしが苦しんでいるのにどうしてセンセはわからないの?いや、わかろうとしないんだよ・・・。こんなに近くにいるのに・・・」
この時は彼女が何を言っているのかわからなかった。以前に妻にその時の事を聞くと顔を赤らめ、はにかんだ微笑みを見せたきり答えてくれない。
「・・・在原。落ち着くんだ」乱暴に引き離さず、言い聞かせるように彼女に声をかけた。
彼女は私を見上げるように見つめた。透き通る水晶のような瞳を潤ませ、じっくりと私を見つめた。瞳だけで彼女に吸い込まれるような錯覚を覚えた。
私の中から背徳感という名の欲求が、全身を支配しようとしていた。しかし、理性がそれをなんとか押し留めた。
「・・・在原、やめよう。先生には、きみの将来を邪魔する資格を持ち合わせてはいない。今なら引き返せる。事故で済む・・・」
言葉は続かなかった。彼女の形の整った美しい唇が言い募ろうする私の口を塞いだ。彼女は唇を離した。後から聞いたが、これが、彼女にとってはじめてのキスだった。
「・・・センセ、好き」
再び彼女に唇を塞がれてしまった。そして、彼女の口から私の理性を崩壊に追い込むべく私の耳元に呪文を詠唱した。
「センセは、悪くないんだよ・・・。このことは二人だけしか知らないことだから・・・」
この世に全てが許されたような贖罪の言葉に思えた。理性は見事なまでに突き崩された。全身を甘美な背徳感が包んだ。
私はもう一度彼女の瞳を見た。いや、見てはいけなかった。水晶の瞳が捉えて離さない。私は、彼女に吸い込まれるように支配された。
さっきまで、夏の空が広がり太陽が燦々照りつけていたのに暗くなっていた。生徒会室のアルミサッシとガラスが夕立の雨音に叩きつけてられていた。
「私も・・・好きだ・・・」
私は、開けてはいけない扉を開ける為の禁断の呪文を詠唱した。
「嬉しい・・・」
彼女は、きつく私を抱き締めキスをせがんだ。
私は夕立が止むまで、誘われるまま、彼女を貪っていった。
体が暖まり、気持ちよくなっていた。
「上がったら、栓は抜かなくていいからそのままにしてね」
脱衣場から声がかかった。
「わかった」
風呂から上がり、着替えた。暑がりの私は、食後まではTシャツ短パンで過ごす。今日の夕食は、ホッケの開き、小松菜の煮浸し、野菜とポテトのサラダ、漬物、雑穀米のご飯と具だくさんの味噌汁だった。昨日は肉料理だったので今日のは控え目なメニューだ。妻は、体調管理を考えて作ってくれている。炊事洗濯家事一切『病的』なまでに手を抜かない。味噌や梅干しまで手作りである。実家の母親に聞いてしているようだ。寸分の隙がないというのはこのようなことだろう。結婚してから『病的』なまでに私を知り尽くしいる妻は、旦那フェチと言えばきこえがいいかも知れない。
妻と私は、出逢いが、あまりに、野島伸司や中島丈博が喜んで書きそうな台本通りの恋愛関係であったが為に結婚するまで精神的にかなり禁欲的な我慢を強いられてきた。だからだと思う。妻の旦那フェチと私の嫁スキーぶりは、結婚生活後に爆発したのだと。
食事が終わった後、私の口数の少なさに気付いた妻が、私の側によってきた。
「どうしたの?何かあったの?」
「さとみ、話がある」
「なぁに」
「今日、校長から野球部の監督をやるように言われた」
妻は黙って聞いていた。
「断る理由がないんだ。しかも業務命令ときた」
私は、神に許しを請う懺悔をしに来た信者のような声を上げた。
「返事は、まだしていない。さとみにまず話してからだと思ったから」
一気にいうと妻がいれてくれたお茶を一口飲んだ。
「今度の新しい知事、橋村さんだっけ?わたしは嫌いだよ」
妻は、私の後ろに回ると背中に胸を押し付け抱き締めた。
「あなたをこんなに苦しめるんだよ。最低だよ」
妻は、頭がよかった。新聞なども毎日ちゃんと読み、特に私の仕事上、年度末の公務員の人事異動記事は、変化すら見逃さない。高校時代、学年5位以内を3年間守り抜いた。特筆すべきは、私との関係をはじめてから1位を一度も奪われた事がなかった。彼女は、卒業するまで周到に用心深く、周囲に変化を気取られなかった。
「海坂商のみんなからしたら、海坂工なんかと統合なんてありえないだろうね。でも、だからってあなたに押し付けることなんてもっとありえないよ!」
妻が目に涙を浮かべ、啜り上げるように言った。
「あなたは、わたしと結婚するために、野球すら避けなきゃならない日々を過ごしてきたもんね。ごめんね」
さとみは、私に許しを請うた。
「さとみが、気にする事じゃない。それは、俺自身が、課してきたことだから」
「・・・あなた」
妻は、抱き締める力をさらに強くした。
「それにね、出来ないわけじゃない」
「・・・えっ」
さとみは、顔を見上げ、私を見つめた。後から聞いた話だが、ビデオで現役の私がしていた眼と同じ眼をしていたそうだった。
「幸いにもこの県では、過去に海藻館高(藩校)が旧制中学以来、半世紀以上全国優勝なんてしていないし、私学四天王も3回戦がやっとだからね。やり方次第でなんとかなる」
「勝算があるんだね」
妻は、この時になってはじめて笑顔を見せてくれた。
「ああ」
妻は、私の前にきて、膝の上に座った。両手を私の首に回してきた。私を求めてくる時の仕草だ。
「・・・センセ。わたしからのお願いを言うね。遅くなって帰ってきても『女の子の日』以外、必ずわたしを愛して。・・・それが条件♪」
妻は、あの時と同じように私を吸い込むような水晶のような瞳を潤ませて言った。