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02-5.ある旅館の現実と社長の言い分

 客が土下座をしろといえば、謝罪の言葉を口にしながら、床に額をぶつける勢いで土下座をしなければならない。


 この職場で働いていく限りは避けては通れない謝罪の仕方だ。


 それが間違っていると言える人はいない。


 役職者は口を揃えて、客が満足をして帰ることができるのならば、土下座くらいするべきだと言う。リピーターを得ることができるのならば、罵詈雑言も体を触られるのも、下心しかない下品な言動に巻き込まれるのも、業務の一環だと笑って言われたことをリカは生涯忘れることができないだろう。


 それが当然だと言ったのにもかかわらず、被害者面で泣いている友香が歪な化け物に見えた。


 この場には正常な人は誰もいない。


 それが妙に恐ろしく思えた。


「鈴木さん。社長が来ます」


 友香は泣きながら告げた。


 その言葉を聞きながら、次の提供をする料理の席を確認していたリカの視線が従業員用のエレベーターに向けられた。


 エレベーターの表示が一階と示した途端、動きが止まり、矢印が上を向いた。


「え? ……ミーティングに行くと伝えなかったのですか?」


 リカの声が震える。


 エレベーターが止まった。そして、当然のように扉が開いた。


「状況は聞きました。ミーティングは二回に分けます。まず、お客様を困らせないようにしましょう」


 社長の機嫌は最悪だった。


 仕事を怠けていたのだろうと決めつけた視線をリカに向け、わざとらしくため息を吐いた。


「鈴木さんは九席を担当していましたね? それなのに、全席の食事提供は終わっていますね」


「はい。そうです。先ほど、デザートをお出ししました」


「そうですか。それは適切な判断でしたね」


 社長は淡々と答える。


 社長はまったく状況を理解しようとしていないわけではない。全員が何席を受け持っているのか、把握している。だからこそ、もっとも担当している数が多いリカに話しかけてきたのだ。


 ……時間配分とか開始時間とか、気にもしてないんだろうな。


 リカが九席を受け持てたのは、食事開始時間が少しずつ違ったからだ。


 それでも走り回って、忙しなく動き回っていたのは事実である。


 食事処は全部で十五席ある。


 今日は全席埋まっていたが、基本的には三人で回すように指示され、時々人の目を掻い潜って、接待長が手伝ってくれたものの、それも主任たちに気づかれないように気を張っている為、些細な手伝いであった。


 ……そもそも、無理がある。


 円滑に進める為には、最低でも五人は必要だ。


 しかし、人員削減の為、全体を見渡す指示役とすべての席を全員で受け持つというデシャップ式を廃止し、自分の受け持った席以外は見ないという担当制に変わった。


 その弊害は大きいのにもかかわらず、従業員の人員削減したという事実に執着し、自らの手柄にすることに余念がない主任は現場の悲鳴に耳を塞いでいた。


 自分の部下の首を絞めている自覚はないのだろう。


 それができるようにならなければいけないと、これは成長する為の試練だと綺麗事を口にする主任に対し、リカは殴りかかりたくなるのを堪えていた。


 そういう人だと知っていながらも、誰も反論できなかった。もう一人の主任はフロント業務を主に担当をしている為、食事の提供に関わる権限を持っておらず、なにもすることができない自分自身を恨んでいた。


「山田さん。三件も回せないのですか?」


 社長は続けて夏鈴に声をかける。


 露骨なまでに声色を変え、責めるような視線を向ける。


 夏鈴が萎縮し、震えていることを気にかけるようなことはなく、社長は呆れたような顔をした。 


「教育担当の田村さんに聞きながら仕事を覚えているはずですが、それを放棄して、倍以上の数をこなしている鈴木さんに仕事を押し付ければいいと思っていますよね」


「あ、えっ、ちが……」


「違いませんよね? 忙しい教育担当をつけて、その上、体を壊している鈴木さんに無理を押し付けて、それでミーティングに出れないのは田村さんの采配ミスですか? それは本当に田村さんが悪いと思いますか?」


 社長は夏鈴を追い詰める。


 反論の余地は与えない。反射的に流れてしまっている涙を拭う余裕すらも夏鈴にはなかった。


 ……鬼か。悪魔か。


 リカは視線を友香に向ける。


 目を逸らされた。


 友香は社長の怒りの矛先を夏鈴に向けることで、自分を守ろうとしたのだろう。


 ……この場にいたくない。


 リカは逃げたかった。


 それが叶わないと知っていながら、視線を友香から外した。視線の先にはホワイトボードがある。どの席にどこまで提供されたのか、わかるように磁石が貼られている。


「学生気分でいられると困るんですよ。社会人ならしっかりとしてもらわないと。後輩がそんな有り様だから、先輩が体を壊すような働き方を強いられても仕方ないと思いませんか?」


 社長は淡々と話を続ける。


 夏鈴がなにも言えないとわかっているからこそ、心を突き刺すような言葉を選ぶ。まるで夏鈴に非があるのだから仕方がないのだと、夏鈴の心に刷り込むような悪意の籠った言葉は呪いのようであった。


 ……黒い靄?


 見間違いだろうか。


 心身の不調からくる幻覚かもしれない。


 ホワイトボードを見ていたリカの前を黒い靄が通っていった。それは人の形が崩れた歪なものであり、社長にまとわりつこうとしたが、弾かれてしまった。


 弾かれてしまった黒い靄は形をさらに壊す。霧のように消えていき、その姿は見えなくなったのだが、リカたちの動向を見張っているかのような視線を感じた。


「先にミーティングを終わらせた人と交代をします。引き継ぎはインカムでしてもらったので、大丈夫ですね? 貴女たちのせいで時間を無駄にしているのは、自覚していますよね?」


 社長はそれを伝える為に、わざわざ、業務用のエスカレーターを使って二階に来たようだ。


 言いたいことを一方的に告げ、背を向ける。


 ……エスカレーターは使えない。


 リカは気づかれないように注意を払いながら、手で汗を拭った。


 冷や汗が引かない。警告をするかのように、頭の中で黒板を爪で引っ掻いているような音が鳴り響く。動悸は静まることなく、寒気までしてきた。


 まるでその場からすぐに逃げるように警告をされているようだった。


「田村さん! お待たせしました! 代わります!」


 宴会場と食事処の境にある従業員専用の出入り口から飛び出してきたのは、二橋茜だ。三年目の正社員であり、社長と支配人のお気に入りだ。

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