社会構造でよむ「科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌」
今回は、あの人気作『科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌』を、
“社会構造”という視点で読み解く雑談です。
作品の内容に触れる部分が多く、
ネタバレを含みます。
といってもストーリーの核心を壊すようなものではなく、作中の“社会制度の面白さ”に関する部分が中心です。
クリーチャー娘と言えば、
「可愛い」「ちょいエロ」「異世界」と思いがちですが、
読んでいるうちに私はこう思いました。
「これ……異世界漫画の皮をかぶった社会哲学では?」
そんな気づきを、気楽に書いていきます。
『科学的に存在しうるクリーチャー娘の観察日誌』を読んでいて最初に驚いたのは、
生物設定より社会構造のほうがはるかにリアルで精密だったことです。
たとえばアラクネの女性優位社会。
体格差が大きく、縄張りを守るのは雌。
オスは生殖のとき以外ほとんど価値を持たない——。
これはほぼ実在のクモの社会をそのまま反映しています。
逆にケンタウロスは男性優位。
しかし“男性優位=女性が苦しい”ではない。
むしろ女性の負担が軽く、守られる立場として成立している。
哺乳類の群れ社会では、メスが集団の内側で守られる形こそが自然で、
この発想をそのまま社会制度に落とし込むとこうなるのだ、と納得させられます。
ヴァンパイアの“種族絶対主義”もそう。
同族間では貞操観念が固いのに、
人間との交わりは“遊び”として扱われる。
倫理とは“同族かどうか”によって変わる、という価値観の相対性が、
軽いノリの中にしれっと描かれているのが面白い。
そして極めつけのゴブリンです。
乱交が当たり前の種族にとって、
人間の「くっ!殺せ!」という反応は完全な異文化。
ゴブリン側からすれば、
> 「なんで怒るの?」
「これ、仲良くなるための行動なんだけど?」
という感覚。
拒絶され、暴れられれば敵対行動とみなして排除に動く。
これは生物行動学的にも社会学的にも筋が通っている。
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特に注目したのが女性社会という“失われた構造”でした。
クリーチャー娘の世界を読むと気づくのは、
「子育て単位」と「社会構造」が、種族ごとに完全に噛み合っている」
ということです。
ケンタウロスは群れを雄が守るため、
雌は子育てに集中できる。
つまり“女性社会が全体として子育てを前提に設計されている”。
アラクネはその概念を輸入します。
アラクネは女性優位で、
巣作りも防衛も子育てもすべて雌が中心。
だから女性社会が成立し、
負担は“複数の女性”で自然に分散される。
よって、女性社会という概念に相性が良かった。
では人間はどうか。
現代は男女平等が進んだように見えて、
実は“男性社会の枠組みの中に女性が入っているだけ”です。
しかし生物として見た時、
授乳し、妊娠し、産むのは女性だけ。
この“絶対的な差”を前提にしなければ、本来社会制度は成立しません。
昔の家制度や拡大家族は、
実は“女性社会の代替”でした。
複数の女性がいて、子育て負担を分散し、
若い女性が孤立しない仕組みが自然と働いていた。
ところが核家族化し、
“女性ひとり育児”という、本来ありえない負担が発生した。
その結果、社会構造が子育てに追いつかなくなった。
クリーチャー娘の世界を読むと、
それぞれの種族は“生物学的に無理のない育児構造”を持っている。
逆に言えば、
現代人間社会こそが、もっとも生物学に逆らった社会
になってしまっているのでは?
——と私は感じてしまうのです。
クリーチャー娘たちの社会は、
フィクションであるはずなのに、
どれも人間社会より“理にかなっている”。
異世界漫画を読んでいるはずなのに、
気づけば社会哲学を読んでいる。
そんな作品、めったにありません。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
クリーチャー娘の社会構造を通して見ると、
“人間社会のほうが不自然に見えてくる”という逆転現象が起きて面白いですね。




