三十年以上変わらないしおり
名古屋市の選挙に行くと、しおりをもらう。
投票を終え、出口に向かうと、当たり前のように手渡されるあの細長い紙片だ。
私はこれを、長いあいだ疑問に思ったことがなかった。
なにしろ、二十歳の頃からずっと同じだからである。
つまり、三十年以上。私にとっては「選挙とは、しおりをもらうイベント」であり、それは呼吸のように自然な風景だった。
ところが、ある日ふと思った。
これ、誰が使っているのだろう。
しおりというのは、本を読む人間のための道具である。
紙の本を読み、途中で閉じ、再び開くときの目印。そういう生活習慣が前提になっている。
だが、私はAudibleである。
耳で本を読む。ページをめくるという行為そのものが存在しない。
つまり、しおりの出番がない。
そう考えた瞬間、三十年以上続いた風景が急に奇妙に見えてきた。
もちろん、癒着だとか、そういう話をしたいわけではない。
正直なところ、それはどうでもいい。
問題はそこではなく、「なぜ三十年以上も変わらないのか」という一点にある。
変わらないということは、思考が止まっているように見える。
それが市民側の率直な感覚だ。
しおりは悪いものではない。
ただ、時代に合っているかと問われれば、疑問が残る。
紙の本を読む人が減り、スマートフォンで文字を追い、あるいは音声で本を聞く時代。
その中で、しおりという物体は、どこか過去の空気をまとっている。
では何が良いのか。
答えは単純である。
ポケットティッシュだ。
ティッシュは裏切らない。
読書習慣の有無も、年齢も、趣味も関係ない。
誰でも使う。必ず消費される。生活の中に自然に溶け込む。
行政は啓発をしたいのだろう。
ならば、使われるものを選ぶべきではないか。
しおりは記念品だが、ティッシュは生活用品である。
そして、多くの場合、人は記念品より生活を選ぶ。
三十年以上続いたものを変えるのは勇気がいる。
前例というのは強い。変えなければ責任は生まれないからだ。
しかし、変えないことにもまた、別の責任がある。
時代に合わせて小さく変化すること。
それは改革でも革命でもなく、ただの呼吸のような更新である。
次の選挙で、もし出口にティッシュが置かれていたら。
私は少しだけ、名古屋市を見直すかもしれない。




