先生の日本語が分からなかった日〜言葉が数式になる瞬間〜
高校の頃、私は数学が得意でした。
説明を聞けば理解できるし、どんな問題も言葉で整理できた。
「数学は日本語でわかる学問」――そう信じて疑わなかったんです。
でも、大学に入ったその春。
私は初めて、“言葉が通じない”という経験をしました。
先生の話す日本語が、まるで日本語に聞こえなかったのです。
これは、
日本語が数式に変わっていくまでの、
私の小さな「理解の物語」です。
第一章 分かると思っていた日本語
高校の授業では、先生がすべてを説明してくれました。
「なぜこうなるか」「どうしてその式にできるか」。
数式には、ちゃんと日本語の意味がついていた。
だから、私は思っていたんです。
数学とは、“言葉で説明できるもの”だと。
黒板に並ぶ文字列が日本語の文法で理解できるうちは、
安心できた。
「意味がわかる」=「できる」と信じていました。
けれど、それは“高校の数学”の中だけの話だったのです。
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第二章 日本語が日本語に聞こえなかった日
大学の講義。
黒板に書かれるのは「ε―δ論法」「写像」「可換環」。
先生の声は確かに日本語なのに、内容がまったく頭に入ってこない。
なんじゃこりゃ?マジやばい。
講義ノートを見返しても、
そこにあるのは見慣れない記号と、“分かった気がしない”日本語。
「定義とは」「命題とは」「同値とは」。
その一つひとつの言葉が、
日常の意味を失っていく。
そして、ある瞬間に気づいた。
先生は説明しているのではなく、定義しているのだ、と。
黒板の「~とは」「~であるとする」は、
文ではなく、約束の宣言だった。
つまり、彼の話す日本語は、
私たちの知っている日本語ではなく――
数式を動かすための文法だったのです。
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第三章 数式の中に言葉がある
夏休み前、前期試験の勉強。
眠気と戦いながら、何度も定義を読み返した。
「連続とは」「写像とは」。
何度もノートに書き写すうち、ある瞬間が訪れた。
――あ、分かる。
それは、翻訳された日本語が理解できたというよりも、
数式そのものが語りかけてきた感覚でした。
「連続である」とは、
“どんなに小さなεに対しても、あるδが存在する”という、
完全に論理だけでできた物語。
私はその中に、言葉の温度を見つけた。
数学は言葉の外にあるんじゃない。
言葉そのものが、数式の形をしているんだ。
日本語が日本語でなくなった日、
私はようやく“数学”という言語を少しだけ話せるようになった。
あの頃、先生の言葉は冷たくて、遠くて、
まるで別の星の言語のように思えました。
けれど今ならわかります。
“分からない”という状態こそが、
新しい言葉を覚える最初の瞬間だったのです。
理解とは、
知っている言葉の中に答えを探すことではなく、
知らない言葉を受け入れることから始まる。
それは、数学だけでなく、
人生のあらゆる場面にも当てはまる気がします。




