無味の存在感〜数の子〜
正月料理には、毎年同じ顔ぶれが並ぶようでいて、実は家ごとに大きな差がある。
その違いは、味の好みというより、どの文化を引き継いできたかの違いである。
数の子は、その差が最もわかりやすく表れる料理だと思う。
正月の定番だと言われながら、出ない家では本当に出ない。
あったとしても、それは惣菜としての日常的な数の子であり、正月料理としての数の子ではない。
本稿は、そんな数の子という食べ物について、
味ではなく、存在感について考えた記録である。
正月の定番だと言われる数の子だが、私の実家では出なかった。
食べた経験がなかったわけではない。惣菜売り場で見かける、切れ子をワカメや昆布と和えたものなら、生活の中にあった。ただし、それは正月料理としての数の子ではなかった。
正月の数の子は、奥さんが持ち込んだ文化である。
一本物を塩抜きし、正月の皿に据える。
そこで初めて、数の子という食べ物を正面から味わうことになった。
塩を抜いた数の子は、驚くほど無味である。
旨味もない。香りもない。甘味もない。
残るのは、コリコリとした食感だけだ。
不思議な食べ物である。
だからこそ、鰹節で旨味を足し、醤油で味をつける。
数の子は、自分自身では何も完結していない。外からすべてを与えられて、ようやく料理になる食材である。
それにもかかわらず、記憶に残るのは鰹節でも醤油でもない。
「数の子を食べた正月」という感覚だけが残る。
数の子は嗜好品だと思う。
栄養のためでも、空腹を満たすためでもない。
ただ、あのコリコリした食感を噛むための食べ物である。
しかも高価である。
しかし、高価でありながら自己主張がない。
旨さを誇るわけでもなく、主役を張るわけでもない。
それでも、存在感だけは確かにある。
なければ、「何か足りない正月」になる。
あれば、「今年も来た」と静かに認識させられる。
数の子は、味で評価されているのではない。
意味によって席に座っている。
だから、どこか憎い。
それでも毎年、きちんと食べてしまう。
正月という、合理性から少し距離を置いた時間にだけ許される、
静かで、無意味で、しかし確かにそこにある嗜好品。
コリコリとした食感だけで、こちらの価値観を試してくる。
なかなかに憎いやつである。
数の子は、考えてみれば不思議な食べ物だ。
旨味もなく、香りもなく、自己主張もしない。
それでも正月の席に、当然のように座っている。
高価であることも、縁起が良いことも、すべて後付けの理由に見える。
それでも毎年、きちんと用意され、きちんと食べられる。
味ではなく、意味によって残ってきた食べ物。
合理性から少し距離を置く時間だからこそ、許されている嗜好品。
そう考えると、数の子は正月そのものを象徴しているのかもしれない。
無味で、静かで、それでも確かにそこにある存在として。




