特別になる方法
テスト前で部活は休みの週末。
「よかったら一緒に勉強してくれないか!?」という恒太郎の懇願に近い誘いを受け、私は彼の家に来た。
成績が赤点だと問答無用で試合に出られないルールがある中、いつもラインギリギリな彼は今回かなり危機感があるらしく、他の部員にも心配されていた。
同じクラスなのは私だけということもあり、いつもはふたり、学校で勉強していたのだが、今回は週末を挟んでのテスト期間ということもあり、彼の家で勉強することとなった。
ふたりっきりでの彼との勉強会は初めてでもなんでもなく、楽しすぎて勉強になってないのではと思うくらいなので、むしろそっちの心配をしていた。
両親は仕事でずっと留守なのだと以前から聞いていた。実際誰もいなくて、いざ家の中へ入ろうとした時、少し足が止まった。
いくらなんでも、『そんなこと』など確実にしないであろう彼とはいえ、男性と二人で彼の家に行く……そこが気になったのだ。そもそものところ、私は彼女でもないのに。
そんな私を見て一瞬彼の顔が曇ったのに気づいた。しかし次の瞬間明るく笑う。
「いや、大丈夫だって! って言っても、やっぱ不安か? ちなみが嫌ならやめとく? 他探す?」
「あ……そんな」
そう言って私の顔を覗いて、「この時間じゃ図書館の自習室は確実に空いてないなー」と呟きながらスマホを弄りだした。
部員である恒太郎と、その部のマネージャーである私。私たちは高校に入ってからの付き合いで、クラスも部活も同じ。友達以上、恋人未満。そんな関係。
もし彼が告白してきたら、私はきっとOKする。そんな風に思えるくらい、私たちは気が合っていた。
……ここまで来て、私を信頼している彼を信頼せずにどうするんだ私。
「なんでもないよ! ごめん、早く中入ろう。勉強しないとね!」
「え、そう? ……それなら、どうぞどうぞ。狭い家ですが」
「イヤミかな? 恒太郎ん家、うちより断然でかいよ? セレブ?」
「またまたーご謙遜を」
――テーブルの上には開かれた参考書と、彼が用意してくれた麦茶とお菓子。
彼の答えが出るまでの沈黙を紛らわそうとコップを持ちあげる。カラン、と涼しげな音が鳴った。
ふとノートに目を向ける彼の顔に目が行く。いつもは天然っぽさで周囲を和ませ、何も飾らない自然体な笑顔が眩しいとこっそり思っている彼なのだが、今日はどこか……違うというか。
真剣に勉強している姿くらい見たことあるのに、何が違うのかはよく分からない。……気のせい?
「……なあ、ここ。どういう意味だっけ?」
彼が突然、私の参考書の上にノートを置き、問題のページを指差した。
彼の手が、私の手に少し触れる。一瞬、彼の熱を感じてビクッと手を動かしてしまう。
やだもう、意識してるみたいじゃん! 実際してるけど!
「あ、あー! ここ? これはね、このページに公式が載ってるから。ちょっと待って!」
反省しつつ、ちゃんと解説をしようと急いでページをめくる。と、彼は私が見せようとしている参考書のページではなく、私の、さっき彼と触れた方の手をじっと見つめていた。
その瞳に、いつもの彼には微塵もない、暗く粘着質なものを感じて、思わず言葉を詰まらせる。
「……恒太郎? そっちじゃなくてここを」
「あのさ。俺、正直、勉強なんかどうでもいいんだよ」
静かに、私の言葉を遮るようにそう言った。
いつもの明るい声色とは違う、低く、熱を持った……怖い声で。
「あれ? 今……なんて?」
戸惑う私を見て、彼はふっと口を緩ませた。
だが、その笑顔は普段私が素敵だと思っていたものとは違って、どこかまとわりつくようなもの。
彼はおもむろに立ち上がり、リビングのドアへ向かうと、ノブに手をかけ、ガチャリと音がした。
「……なんで、鍵、かけたの……?」
かすれた声しか出ない私の問いに、彼は振り返って答えてくれる。
「だって、ちなみ、開いてたら帰っちゃうだろ?」
「かえっ、え? 何言ってんの……?」
彼は、ほんのさっきまでは存在したくすぐったい笑顔から、見たことのない歪んだ表情に変わっていた。
「ちなみって俺のこと、ちょっとは気にしてるみたいだけど、そこまでだよなぁ……。他のやつが頼み込んだら、きっと俺以外のやつの家にも行くんだろうなぁ。あー悲しい」
そう言いながらテーブルにある私のコップを持ち上げて、グッと飲み干す。清涼飲料水のCMみたいに喉を鳴らして。
飲み終わるとハァーッと息を吐いて、少し間を明けて、こちらへ近づいてきた。
……一気に脳からシグナルが出て、立ち上がった。
どうにかして逃げなきゃいけない、なのに、うまく足に力が入らない。
震える足を無理やり動かす。たどり着いた窓は、鍵を触っても全く動かない。よく見ると端で固定されている。
最悪だ。冗談であってほしいのに。私は、本当に閉じ込められた。目の前の「彼」は、もう、私の知っている同級生じゃない。
「……あれ、なんで窓際へ?」
「そんなの、……逃げるために決まってるでしょ!」
「そっか。まあ、開かないようにはしてるからいいんだけど」
もっと威圧感を出さないといけないのに、声が上ずってしまった。
ゆっくりと、こちらを焦らすように距離を詰めてくる恒太郎を見つめるしかない自分が歯がゆい。
「逃げないで。大丈夫って言ったろ?」
「何を、こんなの、嘘つき!」
「別に俺、嘘はついてないよ? 嫌なら他のところでもいいっても言ったし……君が、自分で、選んだのが、これ」
「馬鹿なこと、言ってる自覚ある?」
「俺、そこまで馬鹿じゃない。ちなみが俺のこと、まあまあ好きってことも分かるし」
「なっ」
「的外れ、ってこともないよね? もし告白してたらOKしてたっしょ?」
心臓がキュッと縮んだ気がした。そう話している彼の顔はいつもとそう変わらない。同じ顔だ。ただ、それでも違う人のように感じる。
告白してたら受け入れたかどうか。否定はできない。だって、実際そうだから。いや、そうだったから。
「でも、今は関係ない。……こんなことしといて、おかしいでしょ!」
恒太郎が一歩、また一歩近づいてくる。
窓際に追い詰められた私は、脇のカーテンを掴んだまま、彼と向き合っていた。
ほんの少しで、手が届く距離。
「別におかしくない。俺はちなみと――」
その言葉を最後まで聞く気はなかった。恒太郎が手を伸ばしてくる、今しかないと思っていた。
咄嗟に恒太郎の手を逆につかんでこちらへ思いっきり引っ張った。バランスを崩し倒れそうになる恒太郎の脇をすり抜けるためだ。
しかし思ったほどバランスを崩してはくれず、伸びてきた手が肩を掴んだ。ダメ、か……。
「っ、待てよ!」
「いや!」
必死で腕を振りほどこうともがく。恒太郎の手が私の手首も掴んだ瞬間、私は反射的に腕を捻った。
すると上からガタン、という音。恒太郎の上へ、何かが落ちたのだ。
引っ張られたカーテンレールは外れて彼の頭にぶつかり、グラッと彼を揺らす。
鈍い音と共に、彼が床に倒れ込んだ。倒れる際に角へ頭をぶつけたのか、恒太郎が小さく呻く。
「……っ!?」
今だ!
私は躊躇せず、リビングのドアへ走った。
幸い、ここの鍵は普通に回せば開くものだったので廊下へ飛び出す。あとは玄関へ行けば——!
「く、いな……!」
背後から恒太郎の声がする。でも振り返ろうとは思わなかった。見たくない。聞きたくない。振り返ったら終わりだ。
廊下を駆け抜けて玄関へ。鍵を回し、ドアノブに手をかけて、思いっきり引く。……開かなかった。
もう一度引いて、回して、押して……。何度やっても、ドアは微動だにしない。
よく見ると、ドアノブの上に内側からかける、別の鍵穴。二重ロックというものだろうか。
「そんな……嘘っ!」
ガタガタと音を立ててドアノブを揺らすが、開く気配はない。
後ろから、恒太郎の声が聞こえてきた。
「……無駄だって」
さっきより少し掠れている。
振り返ると、彼が廊下の向こうから、頭を押さえながらゆっくりと歩いてくる。頭から流れる血が、抑える手や目にも垂れていた。
「恒太郎……!」
「全部、鍵かけてある。窓も、ドアも」
玄関を諦め、目についた隣の部屋へ駆け込む。窓、ひとつくらいは、どこかは!
そう思い、カーテンを開けて、鍵を回して、窓を開けようとする。が、やっぱり開かない。
窓枠を見ると、そこも端で固定されていた。
次の部屋も。廊下に出て、階段の横の和室も。トイレも。お風呂場も。どこもかしこも。……ダメだ。開かない。
「――ちなみー! ……もういい?」
廊下から恒太郎の声。彼は急ぐこともなく、恐らく治療しながら、それでも追いかけてきている。
私は階段を駆け上がった。もう2階しか逃げ場がなかった。
踊り場で一瞬立ち止まって後ろを見ると、恒太郎が階段の下にいた。
タオルか何かで止血したようだ。普段だったら絶対助けたいと思うような姿。でも、今この目にはおぞましく映る。彼は、やはり笑っていた。
「ごめん。2階も行き止まり」
……嘘だ。嘘であってほしい。
私は階段を登りきって、すぐ目の前の部屋に飛び込んだ。
入って、気づく。彼の部屋だ。まず最初に匂いが彼のものだったから。置いてあるものも見覚えがある。
ふと目についた机の上に、大事そうに飾ってあるのはトロフィーでもメダルでもなく、私を含むマネージャー一同で毎回大会のために作ったお守りや手紙だった。みんなで撮った写真もその横に飾られている。
余計グシャグシャに壊れてしまいそうな気持ちを抑え、窓の鍵を開けようとする。やっぱり開かない。
「はぁ、はぁ……っ!」
心臓が破裂しそうだ。涙も出そう。吐き気もする。このままだと私……!
廊下から、ゆっくりとした足音。一段、また一段、階段を登ってくる音。
「……逃げられるわけないじゃん」
悠々と階段を登りきったであろう恒太郎の声が、部屋の外から聞こえてくる。
「ここ、俺の家だよ?」
ドアノブがゆっくりと回る音がした。窓際、ベッドの向こう側へ回り込む。彼から少しでも距離を取りたかった。
ドアが開いた先にいる彼の、頭に巻かれたタオルは赤く染まっていた。痛くないわけがない。その原因を作って逃げる私にイラついてないわけがない。
それでも、穏やかな顔で彼は笑っていた。
「いやー追いかけっこ疲れたっしょ? 汗凄いし顔色悪いけど」
まるで鬼ごっこでもしていたかのような口ぶりで、一瞬脳が勘違いしそうになった。
でも違う。そうだったらよかったのに。喉が渇いて口がねとつく。
恒太郎は部屋に入り、ドアを閉め、鍵をかけた。
そのままこちらへ来るのかと思いきや、私を見ないで机の方へ歩いていく。
「……なぁ。これ、覚えてる?」
彼が手に取ったのは、一年の時、先輩マネージャーに教わって作った不格好なお守り。恒太郎が補欠ながらベンチ入りした初めての大会の時の……。
「ちなみが初めてくれたプレゼントってこれだよな。誕生日より前でそこまで仲良くなかったころだし。でもめちゃくちゃ嬉しかったんだ」
返事をしない私は気にしてないのか、お守りを優しく撫でながら彼は続けた。
「幸せだなって思えるんだ、これを見ると。高校入って、新しい環境だけど、部活も授業も楽しくて。仲間が出来て、ちなみとも、仲良くなれて」
正直今はいつもの彼そのものに見えた。私といっしょに部活や教室で過ごしてきたような、テスト勉強で勉強よりも話が盛り上がって、顔が痛くなるほど笑った時みたいな、私の好きな彼の姿に。
違うのにそう見えてしまうのがつらい。
「今までごまかしてたけど中学の時さ、部活でいじめられてた」
「……え?」
思わず声が漏れてしまった。笑顔のまま、陰のある知らない彼の顔にまた、戻っていく。
「人より勉強できて、レギュラーで、キャプテンになったんだけどそっから……いろいろあって不登校になった。もう部活なんて二度とやらないって思ってた」
彼はお守りを元の場所に戻して、こちらに向き直ると空いた手を眺めている。
「でも、引っ越して、新しい学校で、もう一回やり直せた。仲間もできた。ちなみが、ちなみが、入学前の説明会で部活に誘ってくれたから」
「確かに誘ったけど……」
「そのおかげ。今までと変えようと馬鹿のふりしようとしていた時にそんな話されたから、断り方が分からなくて、うっかりその話に乗ったら……人生で一番楽しい日々が始まったんだ……」
彼の声が揺れている。
「……不登校の時、最初は辛かったよ。いじめてきたやつらも、同じくらい苦しめばいいって思ってた」
声に明らかな怒りが混じってきた。
「でもあいつら、俺がいなくても普通に幸せそうだった。部活も楽しそうで。俺だけが苦しんでて」
「……それは、辛かったね。恒太郎」
「辛かったよ。すっげー辛かった。でもある時気づいた。家にいるのって……意外と、悪くないんだって」
……なんだか話の方向がおかしくなって進んでいることに気づく。
「外は楽しいこともあるけど、苦しいことも多いだろ。人間関係、期待、比較、嫉妬、羨望……」
恒太郎が私を見ながらそう言い捨てる。そうなるのも分からないでもないけど、でも、それは。
「でも家の中じゃそういうのはない。凪って感じ?」
「恒太郎。それは、逃げ――」
「逃げ? そうだよ。逃げそのものだ。でも良くね? 何が悪いんだよ。安全の確保だろ?」
そりゃ私だって、辛い時は家にいたいと思う。でも……それとこれは全く違う。だって私は、恒太郎じゃないのだから。
「このままだとダメなのはわかってたよ。だから高校からは変えようとした。目立たないように。特別じゃないように。無害でいいやつの、俺になった」
手を広げ、こちらにプレゼンでもするかのようなポーズで続ける。
「馬鹿のフリして、へらへらして、部活も他のもそこそこにして。赤点ギリギリとか、ほぼ演技でさ」
「……ほぼ、演技」
「ショック? 本当はさ、そろそろ親から海外で一緒に暮らすように言われてたんだ」
何を言ってるの? 何度目かの疑問が口に出る前に話が進む。
「向こうなら飛び級もできるって。実際、中学の時の成績なら余裕だし、ちょっと頑張れば取り戻せる範囲だって親も」
「飛び級……?」
赤点ギリギリで、いつも私に勉強教わってた彼は、私の好きな彼は、本当にいないの?
まだその彼がこうしている方がもっとマシだったという事実が、私の胸を痛めつける。
「でも断り続けてた。日本にいたかったから。この生活が楽しかったから。みんなと笑って、ちなみと一緒にいられる毎日が」
「なら、なんでこんなこと――」
「最近気づいた。特別じゃない自分になろうとしてこうなったくせに、ちなみにとって特別じゃない自分が嫌で嫌でたまらないんだ」
「違う! 恒太郎は私にとって」
特別な存在だった。そう言おうとしたのに言わせてもらえない。たぶん、言っても彼には届かない。
「特別じゃないよね? クラス同じなだけで、あとは他の部員と同じ。俺がいなくても、ちなみはちっとも困らない」
「そんなことない」
「そんなことない? じゃあ、仮に他の部員が『勉強教えて』って頼んできたら、ちなみは断る? 行くだろ、絶対」
言葉に詰まる。実際、頼まれたら断らないかもしれない。
すると、恒太郎がこちらへ歩いてきたので私は反対側へ回り込む。
「恐怖だよ。絶望だよ。そんなの実現したら。『俺の立場って、なに?』って。……だから考えた。どうすれば俺が君だけの特別になれるのかって」
「まさか……」
「そして出たのが、『他の選択肢を全部なくせばいい』。……当たってた?」
言ってる意味が分からない。いや、分かりたくない。
「ちなみが頼れる人を俺だけにすれば、俺が唯一の存在になれる」
「それは特別じゃない! ただの、犯罪」
「犯罪かどうかどうでもいい。特別かどうか。ちなみ、今ここに誰がいる?」
今この瞬間、ここには……彼しかいない。いや違う。外に出たらそんなことはないんだ。そんなことはない!
「別にさ、他のやつを恨んだり傷つけたいわけじゃない。みんな大事だし、こういう手段に」
「待ってよ! 私! 私は大事じゃないの!?」
「大事だ。いっちばん大事。だから守りたい」
「は? 守る? これが?」
「うん。外の苦しいことから。君が傷つかないように」
「……誰かの自己中のせいで、とんでもなく傷ついてるけどそれは?」
「まぁ、どうしても最初はそうなるか」
また恒太郎がベッドを回り込んできたので必死に後ろに下がる。足がもつれそうだ。私の体力気力が著しく消耗している実感が嫌でも湧いてくる。
「でも慣れるさ。俺も慣れたし。家の方が楽だってそのうち分かる」
「分からない! こんなのおかしいよ!」
「おかしくない」
押し問答の間に足がカーペットに引っ掛かってベットに倒れてしまった。しまったと思ったがもう遅いらしい。……もう逃げ場がない。
「ここには食料、服、生活用品、金も含めて全部ある。親は海外から帰ってこない」
恒太郎が目の前に覆いかぶさる。もう彼しか見えない状態だ。彼のにおいと、かすかに血のにおい。
「最低でも大学は向こうって散々言われてるからさ。ちなみが観念したら、一緒に海外いくつもり」
「観念って……私が、諦めるのを待つってこと……?」
「そう。時間はまだあるから、大丈夫。他にもパスポートの準備とか、色々しないといけないし」
頭が真っ白になる。全部、全部計画されてたんだ。私の気持ちなんて、まったく放っておいて……。
とうとう手が伸びてくるのに、体が動かない。
「だからさ……怖がらなくったって」
恒太郎の手がそっと頬に触れる。温かくて優しい、好きだった人の手。ただひたすらに恐怖しかない。
「俺、ちゃんと守れるよ? 全部任せてもらってもいいから」
「守る……?」
「俺だけを見て」
涙が溢れて止まらない。私をもう守れていないことにも気づいてないんだ。この人は。
愛おしげに私の涙を拭う指からは、なにか嫌な熱を感じた。
「俺だけの、ちなみ」
この人の懇願から逃れられずに私は、声も出なかった。




