第五章 白夢中の街
夜の街を走っているはずなのに、耳に届く音は水の底のように遠かった。
信号機の赤が、血の色ではなく灯篭の明かりのように見えた。
足が地面を蹴る感覚も、どこか現実のものではない。
――これは夢だ。
そう思えば思うほど、景色は白く霞んでいった。
ビルの壁は紙細工のように薄く、路地の影は墨で描かれたように濃い。
人々の顔は判別できず、声も届かない。
ただ、自分の呼吸だけが鋭く耳に響く。
「まだ、走れる」
口に出すと、言葉は宙で弾け、光の粒になって散った。
体は疲弊しているはずなのに、不思議な軽さがある。
羽根をつけられたように、石畳から数センチ浮かんでいる錯覚さえあった。
だが次の瞬間、胸の奥で焼けるような痛みが走った。
視界の白が強くなり、息を吸うたびに肺の中が焦げついていく。
夢と現実の境界が崩れ、足は確かに動いているのに、頭は別の世界をさまよっている。
高いビルの非常階段に飛び込み、錆びた手すりを握った。
指先が震え、冷たさと血の匂いが混ざる。
上へ、さらに上へ――。
登れば登るほど、地上が遠ざかり、世界が真っ白に消えていく。
「……母さん」
思わず漏れた声に、自分で驚いた。
呼びかけた相手の姿はどこにもない。
けれど、白い霧の奥から誰かがこちらを見ているような気がした。
夢中で階段を登り切ったとき、屋上に冷たい夜風が吹き込んできた。
白夢中は一気に薄れ、現実の痛みが牙を剥く。
腹の奥に残った虚無が波のように押し寄せ、膝が折れそうになる。
だが、後ろからは確かに足音が迫っていた。
追手はすぐそこまで来ている。
夢の世界は終わった。
現実が牙を剥き、彼女を捕らえようとしていた。