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第四章 逃走

 白い廊下を歩く靴音がやけに乾いて響いていた。

 処置室へ向かう途中、看護師が短く「大丈夫です」と言った。その声は慰めにも響かず、ただ淡々とした日常の一部にすぎなかった。


 手術台の上、冷たい器具の感触が肌に触れた瞬間、全身が硬直した。

 麻酔の匂いが鼻を突き、視界が滲んでいく。

 ――ごめんね。

 言葉にならない叫びが喉の奥でくすぶった。


 遠くで機械音が鳴り、女医の低い声が響いた。

「始めます」

 金属の擦れる音。

 それから、体の奥で何かが引きはがされる感覚があった。

 痛みというより、存在の一部が抉り取られるような――。


 涙は出なかった。

 ただ、天井の白がやけに広くて、どこまでも遠かった。

 心は空洞になり、手足の先から生気が抜け落ちていく。


 処置が終わったあと、私は車椅子に乗せられて病室へ戻された。

 ベッドに横たわると、隣の母親患者がこちらを見て、胸の子を抱き寄せる仕草をした。

 その視線に言葉はなかったが、私には十分すぎるほど突き刺さった。


 ――母になる資格なんて、最初からなかった。

 そう思った瞬間、腹に置いた自分の手が、別人のもののように冷たく見えた。


 夜。

 窓の外でサイレンが鳴った。赤い光が壁を撫で、波紋のように室内を染めた。

 私は毛布を握りしめたが、指先は震えが止まらない。

 子を失った虚しさと、迫り来る死の影、そして外に潜む追手の存在が一斉に胸を押し潰してくる。


 その時だった。

 非常口の扉が遠くで開く音がした。

 足音。複数。

 廊下に重い影が差し込む。


 心臓が跳ね上がった。

 病気も、手術の疲弊も、今は感じなかった。

 ただ――逃げなければ。


 私は点滴を引き抜き、足を床に落とした。

 体はふらついていたのに、不思議と軽かった。

 裸足の足裏に冷たいタイルの感触が広がり、その冷たさが生きている証のように思えた。


 ドアを開け、夜の病院を駆け出した。

 背後で誰かの声が響いたが、振り返らなかった。

 呼吸が荒く、胸が焼けつくように痛い。

 それでも、走るほどに全身が羽のように軽くなっていった。


 ――生きたい。

 ――死にたくない。


 矛盾する叫びが、心臓の奥で交錯していた。

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