第三章 血の繋がり
夜の病室は、静けさの中に不気味なざわめきを孕んでいた。
同室の母親は乳児を胸に抱き、寝息とともに子守唄を小さく口ずさんでいる。その声はあまりに優しく、私の胸を抉った。
――産むのは難しい。
昼間の女医の声が、冷たい刃物のように耳に残っている。
私は腹に手を置いた。そこにはまだ小さな鼓動しかない。それなのに、自分の体の奥では確実に死が近づいていた。
「ごめん……」
思わず口にした言葉は、誰に向けたのかわからない。
子にか、それとも自分にか。
翌日、診察室で女医に問い詰めた。
「子どもを産んだら……私は死にますか」
「高確率で。あなたの体力は持たない」
「じゃあ……堕ろしたら」
女医は一瞬、眉を寄せたが、やがて首を縦に振った。
「母体を優先するなら、中絶しか選択肢はない」
私は頷いた。唇を噛みしめながら。
――子を抱く未来を捨てることでしか、生き延びられない。
けれど、その「生き延びる」時間すら限られている。
私の余命は、薄氷のように脆かった。
廊下に出ると、売店の前で足が止まった。
そこには新聞が積まれていて、見出しの片隅に「暴力団抗争」の文字が踊っていた。
心臓が跳ねる。
――忘れていたはずの影。
かつて働いていた店。踊り子に売春を強制するあの場所で、私は一度だけ声を荒げた。
「何言ってんの。ここじゃ踊りも売りも同じだよ」
ママの冷笑が脳裏に蘇る。
私は酒に酔ったヤクザに金を投げつけた。「てめえらの相手なんか、するか!」と。
あの時、空気が一瞬凍りつき、背筋に走った寒気。
すぐに仲間が割って入り、大事にはならなかったが――。
新聞に載るその組の名前を見た瞬間、背中にじっとりと汗が滲んだ。
逃げ場はない。病院の白い壁の中にも、外の闇の中にも。
病室に戻ると、窓の外に気配を感じた。
非常灯に照らされた駐車場に、黒塗りの車が停まっている。
男たちが煙草を吹かしながら立ち、こちらを見上げていた。
息が詰まった。
子どもを堕ろす決断をした今もなお、私は「生き残れる」保証などない。
命を脅かすのは病だけではなかった。
カーテンを閉め、シーツに潜り込む。
それでも、頭の中ではあの男の顔が浮かぶ。
――父親の可能性がある、ヤクザのトップ。
彼は私を追っているのか、それとも利用しようとしているのか。
子を失うことへの痛みと、死への恐怖と、追手の影。
そのすべてが重なり、胸の奥で心臓が軋んだ。
呼吸を数えようとするが、四で止まり、五に届かなかった。
頭の中が真っ白になり、世界が遠のいていく――。