表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

第三章 血の繋がり

 夜の病室は、静けさの中に不気味なざわめきを孕んでいた。

 同室の母親は乳児を胸に抱き、寝息とともに子守唄を小さく口ずさんでいる。その声はあまりに優しく、私の胸を抉った。


 ――産むのは難しい。

 昼間の女医の声が、冷たい刃物のように耳に残っている。


 私は腹に手を置いた。そこにはまだ小さな鼓動しかない。それなのに、自分の体の奥では確実に死が近づいていた。

「ごめん……」

 思わず口にした言葉は、誰に向けたのかわからない。

 子にか、それとも自分にか。


 翌日、診察室で女医に問い詰めた。

「子どもを産んだら……私は死にますか」

「高確率で。あなたの体力は持たない」

「じゃあ……堕ろしたら」

 女医は一瞬、眉を寄せたが、やがて首を縦に振った。

「母体を優先するなら、中絶しか選択肢はない」


 私は頷いた。唇を噛みしめながら。

 ――子を抱く未来を捨てることでしか、生き延びられない。

 けれど、その「生き延びる」時間すら限られている。

 私の余命は、薄氷のように脆かった。


 廊下に出ると、売店の前で足が止まった。

 そこには新聞が積まれていて、見出しの片隅に「暴力団抗争」の文字が踊っていた。

 心臓が跳ねる。

 ――忘れていたはずの影。

 かつて働いていた店。踊り子に売春を強制するあの場所で、私は一度だけ声を荒げた。


 「何言ってんの。ここじゃ踊りも売りも同じだよ」

 ママの冷笑が脳裏に蘇る。

 私は酒に酔ったヤクザに金を投げつけた。「てめえらの相手なんか、するか!」と。

 あの時、空気が一瞬凍りつき、背筋に走った寒気。

 すぐに仲間が割って入り、大事にはならなかったが――。


 新聞に載るその組の名前を見た瞬間、背中にじっとりと汗が滲んだ。

 逃げ場はない。病院の白い壁の中にも、外の闇の中にも。


 病室に戻ると、窓の外に気配を感じた。

 非常灯に照らされた駐車場に、黒塗りの車が停まっている。

 男たちが煙草を吹かしながら立ち、こちらを見上げていた。


 息が詰まった。

 子どもを堕ろす決断をした今もなお、私は「生き残れる」保証などない。

 命を脅かすのは病だけではなかった。


 カーテンを閉め、シーツに潜り込む。

 それでも、頭の中ではあの男の顔が浮かぶ。

 ――父親の可能性がある、ヤクザのトップ。

 彼は私を追っているのか、それとも利用しようとしているのか。


 子を失うことへの痛みと、死への恐怖と、追手の影。

 そのすべてが重なり、胸の奥で心臓が軋んだ。

 呼吸を数えようとするが、四で止まり、五に届かなかった。

 頭の中が真っ白になり、世界が遠のいていく――。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ