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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蝶の羽音

作者: 闇男

表面的には理想的な家庭の主婦である美咲が、密かに他人の家庭を破綻させることに異常な快感を覚えるようになる物語。彼女の行動の背後には、自身の完璧すぎる生活への反動と、他者の不幸を通じて自己の優位性を確認したいという歪んだ欲求が潜んでいた。美咲は巧妙に他人の夫婦関係に介入し、疑心暗鬼を植え付け、最終的には家庭を崩壊に導く。しかし、その行為が次第にエスカレートする中で、彼女自身の精神状態も徐々に不安定になっていく。


## 第一章 完璧という仮面


午前七時ちょうど。目覚まし時計のアラームが鳴る三分前に、田中美咲は自然に目を覚ました。三十二歳の彼女にとって、これは日常の始まりを告げる儀式のようなものだった。枕元の時計を確認し、満足げに微笑む。完璧なタイミングでの覚醒は、彼女の自制心の証明でもあった。


隣で眠る夫の健一の寝顔を静かに見つめる。四十一歳の夫は、大手商社で課長職に就く典型的なサラリーマンだった。規則正しい生活を送り、家庭を顧みる模範的な夫。そして美咲自身も、近所では「理想的な奥様」として評判が高かった。二人の間に子供はいないが、それも含めて周囲からは羨望の眼差しを向けられている。


美咲は音を立てないよう細心の注意を払いながらベッドから起き上がった。スリッパを履き、洗面所に向かう。鏡に映る自分の顔を見つめながら、いつものスキンケアを始める。化粧水、美容液、乳液、クリーム。それぞれの工程を丁寧に、決められた順序で行う。


朝の支度を終えた美咲は、キッチンに立った。健一の朝食は毎朝七時半にテーブルに並べられる。和食中心のバランスの取れたメニューを、彼女は毎日欠かさず準備していた。味噌汁の具材は季節に応じて変え、ご飯は土鍋で炊く。卵焼きの焼き加減は健一の好みに合わせて少し甘めに。すべてが計算され、完璧に調整されていた。


「おはよう、美咲」


健一が起きてきた声が聞こえる。美咲は振り返り、いつもの優しい笑顔を浮かべた。


「おはようございます。お疲れ様でした」


夫婦の間でも敬語を使う美咲。それは彼女なりの距離感の保ち方でもあった。健一は最初こそ違和感を覚えていたが、今では慣れてしまっている。むしろ、それが美咲らしさだと思うようになっていた。


朝食の間、健一は新聞を読みながら食事を取る。美咲は向かいに座り、お茶を飲みながら夫の様子を観察していた。健一の表情、食べる速度、箸の動き。すべてを注意深く見つめ、何か変化がないかを確認する。それは愛情からくる行動というより、むしろ監視に近かった。


「今日は少し遅くなるかもしれない。新しいプロジェクトの件で会議があるんだ」


健一が何気なく告げた言葉に、美咲の心は微かに揺れた。しかし表情には一切現れない。


「そうですか。お疲れ様です。お弁当は冷蔵庫に入れておきますね」


「ありがとう。いつもすまないね」


健一は申し訳なさそうに言ったが、美咲はただ微笑むだけだった。夫を見送った後、美咲は一人になったリビングで深く息を吸った。完璧な妻を演じ続けることは、思っている以上に疲れる作業だった。


午前中は掃除と洗濯の時間だった。美咲の家は常に隅々まで清潔に保たれている。床には一粒の埃も落ちていない。家具の配置も寸分の狂いもなく、まるでモデルルームのような完璧さを保っていた。近所の主婦たちからは「どうやってあそこまで綺麗にしているのか」と尋ねられることも多い。美咲はいつも謙遜しながら答えるが、内心では優越感を覚えていた。


午後になると、美咲は近所のスーパーマーケットに買い物に出かけた。ここでも彼女は完璧な主婦を演じ続ける。買い物リストは事前に作成され、栄養バランスを考慮した食材を効率的に購入する。レジでの支払いも手際よく、店員への対応も丁寧だった。


スーパーマーケットで美咲が最も関心を持つのは、他の主婦たちの様子だった。買い物かごの中身、服装、表情、会話の内容。すべてを注意深く観察し、心の中で分析する。どの家庭が幸せそうで、どの家庭に問題がありそうか。美咲にとって、それは一種の娯楽でもあった。


「美咲さん、こんにちは」


声をかけられて振り返ると、同じマンションに住む山田由紀子が立っていた。三十八歳の由紀子は、二人の子供を持つ専業主婦だった。いつも少し疲れた様子で、服装もやや無頓着な印象がある。


「山田さん、こんにちは。お疲れ様です」


美咲は完璧な笑顔で応じた。由紀子の買い物かごを一瞬見る。冷凍食品やインスタント食品が多く入っているのが見えた。


「最近忙しくて、なかなか手の込んだ料理が作れなくて」


由紀子は苦笑いを浮かべながら説明した。美咲は同情的な表情を作りながら頷く。


「お疲れ様です。お子さんたちも大変でしょうね」


「そうなんです。上の子が反抗期で、下の子はまだ手がかかるし。主人も最近帰りが遅くて」


由紀子の愚痴を聞きながら、美咲の心には奇妙な感情が湧き上がってきた。それは同情ではなく、むしろ優越感に近いものだった。自分には子供がいないため、由紀子のような苦労を経験する必要がない。夫との関係も表面上は良好で、経済的にも安定している。


「大変ですね。何かお手伝いできることがあれば、いつでもおっしゃってください」


美咲の申し出は表面的なものだった。実際に手伝う気はないが、そう言うことで自分の善良さをアピールできる。由紀子は感謝の言葉を述べて別れていったが、美咲の心には微かな満足感が残った。


家に帰った美咲は、夕食の準備を始めた。健一が帰宅するまでには、完璧な夕食が用意されている必要がある。メニューは事前に一週間分計画されており、栄養バランスと彩りが考慮されている。調理中も無駄な動きは一切なく、効率的に作業が進められる。


夕方六時半。健一からメールが届いた。会議が長引いているため、帰宅は九時頃になるという内容だった。美咲は特に不満を感じることもなく、夕食を保温状態にして待つことにした。一人で過ごす時間は、彼女にとって貴重な休息の時間でもあった。


リビングのソファに座り、お茶を飲みながらテレビを見る。しかし美咲が選ぶ番組は、ニュースや教養番組が中心だった。バラエティ番組や恋愛ドラマには興味を示さない。そうした番組は「低俗」だと考えているからだった。


テレビから流れるニュースは、連日のように家庭内暴力や離婚、不倫などの暗いニュースを報じていた。美咲はそうしたニュースを聞きながら、なぜか心が躍るのを感じていた。他人の不幸は、自分の幸せを際立たせる効果があった。自分は健一と穏やかな結婚生活を送っており、そうした問題とは無縁の存在だと感じることができる。


九時を少し過ぎて、健一が帰宅した。美咲は玄関で出迎え、いつものように夫の帰りを労った。健一は疲れた様子だったが、美咲の用意した夕食を見て安堵の表情を浮かべる。


「いつもありがとう。美咲がいてくれて本当に助かる」


健一の感謝の言葉に、美咲は微笑んで応じた。しかしその笑顔の奥には、何か冷たいものが潜んでいた。健一の感謝は、美咲にとって当然のことだった。完璧な妻として振る舞っているのだから、感謝されて当然だと考えている。


夕食後、健一はテレビを見ながらくつろいでいる。美咲は食器を洗い、キッチンを片付けた。すべての作業を終えると、彼女は健一の隣に座った。夫婦の時間と呼べるものだったが、美咲にとってそれは演技の延長でしかなかった。


「今日はどんな一日でしたか?」


美咲が健一に尋ねると、夫は仕事の話を始めた。新しいプロジェクトの進行状況、同僚との関係、上司からの評価。美咲は興味深そうに聞いているふりをしながら、実際には別のことを考えていた。


健一の話の中で、特に興味を引いたのは同僚の女性についての話だった。新しく配属された若い女性が、健一の部署で働いているという。美咲は表情を変えることなく、さりげなく詳細を聞き出そうとした。


「どのような方なんですか?」


「二十代後半の女性で、前職での経験も豊富らしい。仕事にも熱心で、みんなから信頼されているよ」


健一の話しぶりには特に変わった様子はなかったが、美咲の心には微かな警戒心が芽生えた。それは嫉妬とは異なる感情だった。むしろ、自分の完璧な生活に亀裂が入る可能性への不安に近かった。


就寝前、美咲は鏡の前で自分の顔を見つめていた。三十二歳の彼女の肌は手入れが行き届いており、年齢よりも若く見える。体型も維持されており、健一からの愛情を疑う理由はないはずだった。しかし心の奥底では、常に不安が渦巻いている。


その不安は、美咲自身の本性から来るものだった。彼女は完璧な妻を演じているが、それは本当の自分ではない。本当の美咲は、もっと冷たく、計算高く、そして他人の不幸を見ることに快感を覚える存在だった。その本性を隠すために、彼女は完璧な仮面を被り続けている。


ベッドに入り、隣で眠る健一の寝息を聞きながら、美咲は今日一日を振り返った。スーパーマーケットで会った山田由紀子の疲れた様子、テレビで見た他人の不幸なニュース、健一の新しい同僚の話。すべてが美咲の心に何らかの影響を与えていた。


特に山田由紀子の状況は、美咲にとって興味深いものだった。夫婦関係に問題があり、子育てに疲れている様子。そうした家庭の脆弱性を見抜く能力に、美咲は自信を持っていた。もし自分がその気になれば、山田家のような家庭を崩壊に導くことも可能だろう。


そんな危険な考えが頭をよぎったとき、美咲は慌ててその思考を振り払った。自分は完璧な主婦であり、そのような邪悪な考えを持つべきではない。しかし心の奥底では、その考えが完全に消え去ることはなかった。


深夜になっても、美咲はなかなか眠りにつくことができなかった。完璧な一日を過ごしたはずなのに、心は満たされていない。何か物足りなさを感じている。その物足りなさが何なのか、美咲自身にも明確には分からなかった。


しかし時間が経つにつれて、その正体が少しずつ明らかになってくる。美咲が求めているのは、単なる完璧な生活ではなかった。他者に対する優越感、そして他人の不幸を通じて感じる自己の価値。それが美咲の真の欲求だった。


翌朝も美咲は同じ時間に目を覚まし、同じルーティンで一日を始めた。完璧な朝食、完璧な見送り、完璧な家事。すべてが昨日と同じように進行する。しかし美咲の心の中では、昨夜から続く微かな欲求が徐々に大きくなっていた。


それは他人の家庭に介入したいという欲求だった。山田由紀子のような脆弱な家庭を見つけ、巧妙に働きかけて崩壊に導く。そのプロセスを楽しみ、結果として得られる優越感を味わう。美咲にとって、それは新しい刺激であり、完璧すぎる日常に変化をもたらす可能性を秘めていた。


しかし同時に、美咲は自分の考えの危険性も理解していた。そのような行為は道徳的に許されるものではなく、発覚すれば自分の完璧な生活も崩壊してしまう。理性では抑えるべきだと分かっているが、感情は別の方向を向いていた。


## 第二章 狩りの始まり


それから一週間後、美咲は再び山田由紀子と偶然を装って出会った。今度は近所のコンビニエンスストアでのことだった。由紀子は上の子供、小学校四年生の健太と一緒にいた。健太は母親から少し離れたところでゲーム雑誌を立ち読みしており、由紀子は疲れた表情でお弁当の棚を見つめていた。


「山田さん、こんにちは」


美咲が声をかけると、由紀子は振り返って少し驚いた様子を見せた。


「あ、田中さん。こんにちは」


由紀子の手には冷凍の唐揚げとお弁当が握られている。美咲は一瞬でその状況を理解した。夕食の準備をする時間がなく、手軽な食品で済ませようとしているのだろう。


「お疲れ様です。健太くんも一緒ですね」


美咲は優しい笑顔を浮かべながら、健太の方を見た。少年は母親の呼びかけにも反応せず、雑誌に夢中になっている。


「すみません、健太。挨拶をしなさい」


由紀子が息子を叱るが、健太は面倒そうに振り返るだけだった。その態度に由紀子の表情が曇る。美咲はそうした親子の微妙な関係を注意深く観察していた。


「お忙しそうですね。何かお困りのことがあれば、いつでもお声がけください」


美咲の申し出に、由紀子は少し戸惑った様子を見せた。近所付き合いはあっても、それほど親しい関係ではない。しかし美咲の優しい雰囲気に、由紀子は心を開きかけていた。


「ありがとうございます。実は主人の帰りが最近とても遅くて、一人で子供たちの面倒を見るのが大変で」


由紀子が思わず漏らした愚痴に、美咲は同情的な表情を作った。しかし内心では、期待していた情報が得られたことに満足していた。


「そうでしたか。お疲れ様です。ご主人はお忙しいお仕事なんですね」


「建設会社に勤めているんですが、最近大きなプロジェクトを抱えていて。土日も出勤することが多くて」


山田家の状況が徐々に明らかになってきた。夫の長時間労働、妻の孤独感、子供の反抗期。典型的な現代家庭の問題を抱えている。美咲にとって、これほど興味深いターゲットはなかった。


「それは大変ですね。お子さんたちも寂しがっているのではないですか?」


美咲の質問に、由紀子は困った表情を浮かべた。


「特に健太が最近反抗的で。父親がいないことへの不満もあるのかもしれません」


「お話を聞いているだけでも、山田さんの苦労がよく分かります。私で良ければ、いつでも相談に乗りますよ」


美咲の提案は、表面的には善意に満ちているように見えた。しかし実際には、山田家の内情をより詳しく知るための布石だった。由紀子は美咲の申し出に感謝の気持ちを表した。


「本当にありがとうございます。田中さんはいつも穏やかで、羨ましいです」


由紀子の言葉に、美咲は内心で微笑んだ。自分の完璧な演技が功を奏している証拠だった。


その日の夜、美咲は健一に山田家の話をした。もちろん、自分の真の意図は隠して、近所の人への同情という形で話を進めた。


「山田さんという方をご存知ですか?同じマンションの方なんですが」


「ああ、たまに廊下でお会いしますね。建設会社にお勤めの方でしたっけ?」


健一も山田家のことは知っているようだった。美咲はさりげなく情報を収集した。


「奥様がとても大変そうで。ご主人の帰りが遅くて、一人で子育てをされているとか」


「最近は残業が多い会社も多いからね。うちは恵まれている方かもしれない」


健一の何気ない言葉に、美咲は反応した。確かに健一の帰宅時間は比較的規則的で、山田家のような問題は抱えていない。しかしそれが当たり前だと思っていた美咲には、新鮮な気づきでもあった。


翌日から、美咲は山田家により注意を向けるようになった。朝の通勤時間帯に山田氏が出かける様子、昼間の由紀子の行動、夕方の子供たちの帰宅時間。すべてを観察し、家族の生活パターンを把握しようとした。


一週間ほど観察を続けた結果、美咲は山田家の生活リズムをほぼ完全に把握した。山田氏は朝七時半に出勤し、帰宅は夜十時を過ぎることが多い。土日も出勤することがあり、家族と過ごす時間は限られている。由紀子は午前中に下の子供、三歳の美香を保育園に送った後、一人で家事をこなしている。健太は学校から帰ると、一人でゲームをして過ごすことが多い。


そうした観察の中で、美咲は山田家の脆弱性をより明確に理解した。夫婦間のコミュニケーション不足、妻の孤独感、子供の寂しさ。これらすべてが家庭崩壊の要因となり得る。そして美咲は、それらの要因を巧妙に操作することで、山田家を破綻に導くことができると確信していた。


最初の行動は、由紀子との関係をより深めることだった。美咲は偶然を装って由紀子と出会う機会を増やし、徐々に信頼関係を築いていく。由紀子は美咲の優しさと理解に感謝し、次第に心を開くようになった。


「田中さんはご主人とはいつもお幸せそうですね」


ある日、由紀子が羨ましそうに言った。二人はマンションの共用ラウンジでお茶を飲んでいた。美咲は控えめに微笑んだ。


「そんなことはありませんよ。どの夫婦にも悩みはあると思います」


美咲の謙遜に、由紀子は少し驚いた様子を見せた。


「でも、田中さんのご主人はいつも優しそうで。うちの主人とは大違いです」


由紀子の言葉に、美咲は興味を示した。


「何かあったんですか?」


「最近、些細なことでよく喧嘩をしてしまうんです。主人が疲れているのは分かるんですが、子供たちのことでも相談できなくて」


由紀子の悩みを聞きながら、美咲は慎重に言葉を選んだ。ここで重要なのは、由紀子の不満を煽ることではなく、信頼を得ることだった。


「お疲れだからこそ、余裕がなくなってしまうのかもしれませんね。でも、お二人の間でしっかりと話し合いができれば」


美咲のアドバイスは表面的には建設的だった。しかし実際には、由紀子の夫への不満を引き出すための誘導でもあった。


「話し合いといっても、主人はいつも疲れていて。私も言いたいことがあるんですが、タイミングが」


由紀子の愚痴を聞きながら、美咲は山田夫婦の関係性をより深く理解した。コミュニケーション不足、相互理解の欠如、日常の忙しさによる感情的なすれ違い。これらすべてが、美咲の計画にとって有利な条件だった。


「もしよろしければ、今度お宅にお邺いして、お話をゆっくり聞かせていただけませんか?」


美咲の提案に、由紀子は喜んだ。久しぶりに心を開いて話せる相手を見つけたような気持ちだった。


翌週、美咲は初めて山田家を訪問した。三DKのマンションは、生活感にあふれているが整理整頓は行き届いていない。子供のおもちゃが散らばり、洗濯物が干されたままになっている。美咲の完璧に整備された家とは対照的だった。


「散らかっていてすみません」


由紀子が恥ずかしそうに謝ったが、美咲は気にしないふりをした。実際には、この混沌とした状況こそが山田家の現実を物語っていると感じていた。


リビングでお茶を飲みながら、由紀子は家庭の悩みを詳しく話し始めた。夫の帰りが遅いこと、子供たちとの関係、家計の不安、将来への漠然とした不安。美咲は同情的に相槌を打ちながら、すべての情報を記憶に留めていた。


「健太も最近反抗的で。父親と話をする機会も少ないし、私が注意しても聞いてくれなくて」


「お父さんとの時間が少ないと、お子さんも寂しいのかもしれませんね」


美咲の指摘に、由紀子は深くうなずいた。


「そうなんです。でも主人は仕事が忙しくて、週末も疲れて寝てばかり。家族で出かけることもほとんどなくて」


「ご主人も大変なんでしょうけれど、家族の時間も大切ですよね」


美咲の言葉は、由紀子の夫への不満をさりげなく正当化するものだった。表面的には理解を示しながら、実際には夫婦間の溝を深める効果を狙っていた。


その日の訪問で、美咲は山田家の内情をより詳しく把握することができた。夫婦の寝室は別々で、会話も必要最小限に留まっている。子供たちも両親の関係の冷たさを感じ取っており、家庭内に微妙な緊張感が漂っていた。


美咲にとって、これは絶好の機会だった。既に亀裂が入っている家庭に、巧妙に働きかけることで崩壊に導く。その過程を楽しみ、結果として得られる優越感を味わう。それは美咲の心の奥底に眠っていた暗い欲求を満たすものだった。


家に帰った美咲は、健一に山田家の話をした。もちろん、近所の人への同情という建前を保ちながら。


「山田さんのお宅にお茶をいただきに行ったんです。とても大変そうで」


「そうですか。何か手伝えることがあればいいんですが」


健一の善意に、美咲は表面的には同調した。しかし内心では、全く異なることを考えていた。


その夜、美咲は一人でリビングに座り、今後の計画を練っていた。山田家を崩壊に導くためには、慎重かつ巧妙なアプローチが必要だった。直接的な攻撃は避け、あくまでも善意の第三者として振る舞いながら、家族の絆を少しずつ切り裂いていく。


最初のターゲットは由紀子だった。彼女の夫への不満を煽り、結婚生活への疑問を植え付ける。そのためには、定期的な交流を続け、信頼関係をさらに深める必要がある。由紀子が美咲を完全に信頼するようになれば、より大胆な働きかけが可能になる。


次に、子供たちへのアプローチも考慮すべきだった。特に健太は反抗期で、父親への不満を抱えている。その感情を巧妙に利用すれば、家族内の対立をより深刻化させることができる。


そして最終的には、山田氏本人にも何らかの働きかけが必要になるだろう。ただし、これは最も慎重を要する部分だった。男性への直接的なアプローチは誤解を招く可能性があり、美咲自身の立場を危険にさらすリスクがある。


美咲は深夜まで計画を練り続けた。それは単なる思いつきではなく、綿密に計算された戦略だった。山田家の崩壊は、美咲にとって新しい刺激であり、完璧すぎる日常に変化をもたらす貴重な娯楽でもあった。


## 第三章 信頼という武器


翌月から、美咲と由紀子の交流はより頻繁になった。週に二、三回は顔を合わせ、お茶を飲みながら近況を報告し合う関係になっていた。由紀子にとって美咲は、唯一心を開いて話せる相手になっていた。夫にも言えない悩みや不満を、美咲になら安心して打ち明けることができる。


「昨夜も主人と喧嘩をしてしまいました」


ある日の午後、由紀子が疲れた様子で話し始めた。二人はいつものようにマンションの共用ラウンジにいた。


「何があったんですか?」


美咲は心配そうな表情を作りながら尋ねた。内心では、期待に胸を躍らせている。


「健太の成績のことで相談したかったんです。最近ゲームばかりで勉強をしなくて。でも主人は疲れているからって、真剣に聞いてくれなくて」


由紀子の愚痴を聞きながら、美咲は適切なタイミングで相槌を打った。


「お疲れなのは分かりますが、お子さんのことは大切ですよね」


「そうなんです。でも主人は『俺だって疲れているんだ』って言うばかりで。私だって疲れているのに」


由紀子の不満が表面化してきた。美咲はこの機会を逃さなかった。


「山田さんも十分頑張っていらっしゃると思います。お一人で子育てと家事をこなされて」


美咲の言葉は、由紀子の努力を認める一方で、夫の無理解を暗に批判するものだった。


「本当にそう思いますか?私、最近自分が間違っているのかって思うことがあるんです」


「なぜそう思われるんですか?」


「主人が私の話を聞いてくれないのは、私の伝え方が悪いからかもしれないって」


由紀子の自己否定的な言葉に、美咲は強く首を振った。


「そんなことありません。山田さんは十分コミュニケーションを取ろうとされています。問題は相手が聞く姿勢を持っているかどうかです」


美咲の断言に、由紀子は少し驚いた。今まで自分を責めてばかりいたが、夫の側にも問題があると指摘されたのは初めてだった。


「でも、夫婦なんてそういうものかもしれません」


「いえ、そんなことはありません。うちの主人とは何でも話し合いをします。夫婦は対等なパートナーであるべきだと思うんです」


美咲の発言は、由紀子にとって新鮮な驚きだった。自分の結婚生活がいかに一方的で不平等なものかを、改めて認識させられた。


「田中さんのご主人は理解がおありですね。羨ましいです」


「でも、それが普通だと思うんです。お互いを尊重し合える関係でなければ、結婚生活は続かないのではないでしょうか」


美咲の言葉は、由紀子の心に深く刺さった。自分の結婚生活に対する根本的な疑問が芽生え始めた。


その日の夜、由紀子は夫に対していつもより厳しい目を向けていた。仕事から帰ってきた山田氏は、いつものように疲れた様子でソファに座り、テレビを見始めた。夕食の準備をしている由紀子に対して、労いの言葉もかけない。


「お疲れ様です」


由紀子が声をかけても、山田氏は軽く手を振るだけだった。以前なら気にしなかったその態度が、今日は特に冷たく感じられた。


夕食中も、山田氏は無言でテレビを見続けている。子供たちも黙って食事を取り、家族の会話はほとんどない。由紀子は美咲の言葉を思い出していた。「夫婦は対等なパートナーであるべき」。自分たちの関係は、果たしてパートナーシップと呼べるものだろうか。


「健太の成績の件で相談があるんです」


由紀子が思い切って話を切り出した。山田氏は面倒そうな表情を見せる。


「今度にしてくれ。疲れているんだ」


「でも、これは大切なことです。親として話し合うべきことだと思うんです」


由紀子の強い口調に、山田氏は少し驚いた。いつもなら引き下がる妻が、今日は食い下がってくる。


「分かった。何なんだ」


渋々応じた夫に、由紀子は健太の学習状況について説明した。しかし山田氏の反応は予想通り素っ気ないものだった。


「そんなのお前が見ていればいいだろう。俺は仕事で忙しいんだ」


夫の言葉に、由紀子は深く失望した。美咲が言っていた通り、夫は聞く姿勢を持っていない。子育ては妻の責任だと考えており、自分は関与する必要がないと思っている。


その夜、由紀子は一人でベッドに横になりながら、結婚生活について深く考えていた。いつからこんな関係になってしまったのだろう。新婚の頃は、もっと話し合いができていたはずだった。しかし子供ができ、夫の仕事が忙しくなるにつれて、会話は減り、理解し合う努力も怠るようになった。


翌日、由紀子は美咲に昨夜の出来事を話した。美咲は同情的に聞きながら、内心では満足していた。計画は順調に進行している。


「やはりそうでしたか。お辛いでしょうね」


「田中さんのお話を聞いて、改めて自分たちの関係を見直してしまいました」


「それは悪いことではありません。現状を認識することは、改善への第一歩ですから」


美咲の言葉は表面的には励ましに聞こえたが、実際には由紀子の不満をさらに深める効果を狙っていた。


「でも、どうしたらいいのか分からないんです。主人に変わってもらうなんて無理ですよね」


「変わるかどうかは相手次第ですが、山田さんご自身が自分の気持ちを大切にすることは重要だと思います」


美咲の助言は、由紀子の自立心を煽るものだった。夫に依存するのではなく、自分自身の幸せを考えるべきだという示唆が含まれている。


「自分の気持ちを大切にする、ですか」


「そうです。山田さんには山田さんの人生があります。我慢ばかりしていては、いつか心が壊れてしまいます」


美咲の言葉は、由紀子の心に新しい視点をもたらした。今まで家族のために自分を犠牲にすることが当然だと思っていたが、自分自身の幸せも重要なのかもしれない。


数日後、美咲は次の段階に移ることを決めた。由紀子の信頼を十分に得た今、より直接的なアプローチが可能になっている。ターゲットは健太だった。


「健太くんと少しお話しできればと思うんです」


美咲が由紀子に提案すると、由紀子は少し戸惑った。


「健太とですか?どうしてでしょう」


「反抗期のお子さんは、親以外の大人と話すことで心を開くことがあります。私にできることがあれば」


美咲の提案は、表面的には健太への支援として提示されていた。しかし実際の目的は、健太の父親への不満を引き出し、家族内の対立を深めることだった。


「そうしていただけると助かります。最近健太が何を考えているのか分からなくて」


由紀子は美咲の申し出を歓迎した。息子との関係に悩んでいた彼女にとって、第三者の助けは貴重だった。


翌日の午後、美咲は健太と二人きりで話をする機会を得た。由紀子が美香を保育園に迎えに行っている間、健太は一人で家にいた。


「健太くん、こんにちは」


美咲が優しく声をかけると、健太は警戒心を露わにした。普段あまり接触のない大人からの突然のアプローチに、戸惑いを感じている。


「お母さんから聞いているかもしれませんが、私は田中といいます。お母さんとお友達なんです」


美咲は健太の警戒心を解くため、親しみやすい態度で接した。


「はい」


健太の返事は素っ気なかったが、美咲は気にしなかった。時間をかけて信頼関係を築けばいい。


「最近学校はどうですか?勉強は大変ですか?」


「普通です」


健太の反応は依然として冷たかったが、美咲は粘り強く会話を続けた。ゲームの話、友達の話、将来の夢。様々な話題を試しながら、健太の関心を引こうとした。


やがて、ゲームの話になったとき、健太の表情が少し明るくなった。美咲はその変化を見逃さなかった。


「私はゲームのことはよく分からないんですが、健太くんはどんなゲームが好きなんですか?」


健太は最初は遠慮がちだったが、次第に熱心にゲームについて語るようになった。美咲は興味深そうに聞きながら、適切なタイミングで質問を挟んだ。


「お父さんも一緒にゲームをされるんですか?」


美咲の何気ない質問に、健太の表情が曇った。


「お父さんはゲームなんてしません。いつも疲れてるから」


健太の言葉に、美咲は同情的な表情を作った。


「お忙しいんですね。でも、健太くんとお父さんで一緒にできることがあればいいのに」


「別にいいです。お父さんは仕事ばっかりだから」


健太の言葉には、明らかに父親への不満が込められていた。美咲はその感情を巧妙に引き出そうとした。


「寂しいですね。お父さんともっとお話ししたいと思いませんか?」


「思わないです。どうせお父さんは僕のことなんて見てないから」


健太の率直な言葉に、美咲は内心で微笑んだ。予想以上に父子関係に問題があることが確認できた。


「そんなことはないと思いますよ。お父さんも健太くんのことを愛していらっしゃるはずです」


美咲は表面的には父親を擁護しながら、実際には健太の不満をさらに引き出そうとした。


「愛してるって言うなら、もっと話をしてくれるはずです。うちのお父さんは家族のことなんてどうでもいいんです」


健太の激しい言葉に、美咲は驚いたふりをした。


「そんなに辛い思いをされているんですね」


「辛いとかじゃないです。もう慣れました。お父さんがいてもいなくても同じだから」


健太の諦めにも似た言葉は、美咲にとって非常に有用な情報だった。父子関係の修復が困難なレベルまで悪化していることが分かった。


その日の夜、美咲は健一に健太との会話について話した。もちろん、子供への支援という建前を保ちながら。


「近所の健太くんと少しお話をしたんです。お父さんとの関係で悩んでいるようで」


「そうですか。思春期の男の子は難しいですからね」


健一の反応は一般論に留まったが、美咲はさらに詳細を語った。


「お父さんとの時間がほとんどなくて、寂しがっているようです。仕事が忙しいのは分かりますが、やはり父親の存在は大切ですよね」


美咲の言葉は、健一に対する暗示でもあった。自分たちには子供がいないが、もし子供がいたら、健一はどのような父親になるだろうか。そんな想像を促す効果があった。


翌週、美咲は由紀子に健太との会話について報告した。ただし、健太の父親への不満については、慎重に伝える必要があった。


「健太くんとお話しさせていただきました」


「ありがとうございます。どうでしたか?」


「とても良い子ですね。ただ、少し寂しがっているようです」


美咲の言葉に、由紀子は心配そうな表情を見せた。


「やはりそうですか。主人との関係が気になっていたんです」


「お父さんと過ごす時間を求めているようです。でも、それが叶わないことを諦めてしまっているような印象も受けました」


美咲の報告は、由紀子の夫への不満をさらに深める効果があった。子供が父親を求めているのに、夫がそれに応えていない。母親として、その状況を見過ごすわけにはいかない。


「主人に話をしてみます」


由紀子の決意を聞いて、美咲は内心で満足した。夫婦間の対立がより表面化することが予想できる。


その夜、由紀子は夫に健太の件について話をした。しかし山田氏の反応は予想通り冷淡だった。


「俺だって疲れているんだ。子供の相手なんてできない」


「でも、健太は寂しがっています。父親として少しは時間を作っていただけませんか」


由紀子の懇願に、山田氏は苛立ちを見せた。


「お前が甘やかすからだ。男の子はもっと厳しく育てないと」


夫の言葉に、由紀子は深く失望した。子供への理解も共感もない。父親としての責任感も感じられない。美咲が指摘していた通り、この人は家族のことを本当に考えているのだろうか。


## 第四章 亀裂の拡大


美咲の計画は着実に進行していた。由紀子の夫への不満は日増しに強くなり、健太の父親への失望も深まっている。家族内のコミュニケーションはさらに悪化し、それぞれが孤立感を深めていた。美咲にとって、これは理想的な状況だった。


しかし、より決定的な破綻を招くためには、さらなる働きかけが必要だった。美咲は次の段階として、山田夫婦の信頼関係を根本的に破壊することを考えていた。そのためには、より大胆で巧妙な作戦が必要になる。


ある日の午後、美咲は由紀子と話をしていた。いつものように夫への愚痴が中心だったが、今日の由紀子はいつもより深刻な様子だった。


「最近、主人の帰りがさらに遅くなったんです」


由紀子の言葉に、美咲は興味を示した。


「お仕事が忙しくなったんでしょうか?」


「それがよく分からないんです。残業だと言うんですが、以前より帰る時間がずっと遅くて」


由紀子の疑念を察知して、美咲は慎重に反応した。


「心配ですね。体調を崩されないといいのですが」


「それもあるんですが、何だか様子がおかしいというか」


由紀子の直感的な不安を、美咲は見逃さなかった。


「どのような感じですか?」


「帰ってきても以前より疲れているように見えなくて。むしろ、どこか上の空というか」


由紀子の観察は鋭かった。夫の行動に何らかの変化があることを感じ取っている。美咲は、この疑念を巧妙に利用することを決めた。


「それは気になりますね。何か心当たりはありますか?」


「分からないんです。でも、最近携帯電話を肌身離さず持っているようになって」


夫の行動の変化に関する情報が、さらに詳しく明かされた。美咲は同情的な表情を作りながら、内心では計画を練っていた。


「それは心配ですね。もしかすると、何か隠し事があるのかもしれません」


美咲の示唆に、由紀子は動揺を見せた。


「隠し事って、まさか」


「いえ、そういう意味ではありません。仕事のことで心配をかけたくないと思っているのかもしれませんし」


美咲は一度否定しながらも、由紀子の心に疑念の種を植え付けた。「まさか」と思った内容こそ、由紀子が最も恐れていることだった。


その日の夜、由紀子は夫の行動をより注意深く観察していた。確かに携帯電話への態度が変わっている。以前は食事中もテーブルに置いていたが、最近は常に手元に置いている。メールの着信音が鳴っても、すぐに確認しようとしない。まるで見られては困る内容があるかのように。


美咲の指摘を思い出しながら、由紀子は様々な可能性を考えていた。仕事上の問題、健康上の問題、そして最も考えたくない可能性。夫の行動の変化には、何らかの理由があるはずだった。


翌日、美咲は由紀子の不安をさらに煽ることにした。しかし直接的なアプローチではリスクが高い。より巧妙で、追跡困難な方法を考える必要があった。


「昨日お話しした件、その後いかがですか?」


美咲が尋ねると、由紀子は困った表情を見せた。


「やはり様子がおかしいんです。昨夜も携帯が鳴ったとき、慌てて別の部屋に行ってしまって」


由紀子の報告に、美咲は心配そうに眉をひそめた。


「それは気になりますね。率直にお尋ねになってみてはいかがですか?」


「でも、もし何でもないことだったら、疑っているみたいで」


由紀子の躊躇を見て、美咲は別のアプローチを試した。


「確かにそうですね。でも、夫婦の間で隠し事があるのも心配です」


美咲の言葉は、由紀子の不安を正当化するものだった。疑うことは悪いことではなく、むしろ夫婦関係を守るための当然の行為だという印象を与える。


「実は、もう一つ気になることがあるんです」


由紀子が新しい情報を明かした。美咲は期待を込めて待った。


「最近、主人の服に知らない香水の匂いがすることがあるんです」


この情報は、美咲にとって予想以上に興味深いものだった。もし本当であれば、山田氏が他の女性と接触している可能性がある。それは美咲の計画にとって非常に有利な状況だった。


「それは気になりますね。お仕事関係の方とお食事をされることがあるのでしょうか?」


「以前はそんなことなかったんですが」


由紀子の回答は、美咲の期待を高めた。山田氏の行動に明らかな変化があることが確認できた。


その日の午後、美咲は一人で山田氏の勤務先周辺を訪れた。建設会社のオフィスビルは、美咲の住む地域から電車で三十分ほどの距離にあった。彼女は周辺のカフェや レストランを調査し、山田氏が利用する可能性のある場所を把握しようとした。


観察を続けているうち、美咲は興味深い光景を目撃した。山田氏がオフィスビルから出てきて、若い女性と一緒に近くのレストランに入っていく様子だった。女性は二十代後半で、スーツを着ている。同僚の可能性が高いが、二人の関係は単なる業務上のものを超えているように見えた。


美咲は慎重に観察を続けた。二人は窓際の席に座り、親しげに会話を交わしている。山田氏の表情は、家庭で見せる疲れた様子とは全く異なり、生き生きとしていた。女性も山田氏に好意を寄せているような態度を見せている。


約一時間後、二人はレストランを出た。山田氏は女性を駅まで送り、別れ際に軽く肩に手を置いた。それは明らかに単なる同僚関係を超えた親密さを示していた。


美咲は、この情報をどのように活用するか慎重に考えた。直接的に由紀子に伝えることはできない。それでは自分が山田氏を監視していたことがばれてしまう。より巧妙で、自然な方法で由紀子に疑念を抱かせる必要がある。


翌日、美咲は由紀子との会話で、さりげなく情報を提供した。


「そういえば昨日、偶然ご主人をお見かけしました」


美咲の言葉に、由紀子は驚いた。


「主人をですか?どちらで?」


「電車で出かけた先で。お仕事の関係の方と一緒にいらっしゃるようでした」


美咲は事実を伝えながらも、詳細については曖昧にした。


「仕事の関係の方ですか」


「女性の方でした。同僚の方かもしれませんね」


美咲の何気ない言葉に、由紀子の表情が変わった。夫が女性と一緒にいたという事実は、最近の疑念と重なって強いインパクトを与えた。


「どのような方でしたか?」


由紀子の質問に、美咲は慎重に答えた。


「若い方のようでした。スーツを着ていらしたので、お仕事関係の方だと思うのですが」


美咲の説明は事実に基づいているが、由紀子の不安を煽る効果も計算されていた。


「そうですか」


由紀子の反応は複雑だった。夫が女性の同僚と食事をすることは、必ずしも問題ではない。しかし最近の夫の行動の変化と合わせて考えると、不安は増大する。


その日の夜、由紀子は夫に直接尋ねてみることにした。


「今日はお疲れ様でした。お忙しかったですか?」


「まあ、普通かな」


山田氏の答えは素っ気なかった。由紀子は勇気を出して続けた。


「お仕事関係の方とお食事をされることがあるんですか?」


突然の質問に、山田氏は少し戸惑った様子を見せた。


「たまにあるよ。なんで?」


「いえ、田中さんがお見かけしたとおっしゃっていたので」


由紀子の説明に、山田氏の表情が変わった。明らかに動揺している。


「田中さんって、隣のマンションの?」


「はい。女性の方と一緒にいらしたって」


山田氏は困った表情を見せながら、何か言い訳を考えているようだった。


「ああ、それは同僚だよ。プロジェクトの打ち合わせで」


夫の説明は一応筋が通っているが、由紀子には何か隠しているような印象を受けた。特に、最初に動揺した様子が気になった。


その夜、由紀子は一人で考え込んでいた。夫の説明は嘘ではないかもしれないが、最近の行動の変化と合わせると疑念は深まる。携帯電話への態度、帰宅時間の変化、香水の匂い、そして今日の動揺。すべてが偶然とは考えにくい。


翌日、由紀子は美咲に昨夜の会話について話した。


「主人に尋ねてみました」


美咲は関心を示しながら聞いた。


「そうでしたか。何とおっしゃっていましたか?」


「同僚の方だって。プロジェクトの打ち合わせだったそうです」


由紀子の説明に、美咲は納得したようなふりをした。


「そうでしたか。それなら安心ですね」


しかし美咲の次の言葉は、由紀子の安心を打ち砕くものだった。


「ただ、お仕事の打ち合わせにしては、とても親しそうに見えました」


美咲の観察は事実に基づいているが、由紀子の疑念を深める効果を狙っていた。


「親しそうに、ですか」


「はい。まるで恋人同士のような雰囲気でした」


美咲の証言に、由紀子は衝撃を受けた。夫が嘘をついている可能性が高くなった。


「でも、もしかすると私の見間違いかもしれません」


美咲は一度否定しながらも、既に由紀子の心に強い疑念を植え付けていた。


その日の午後、由紀子は一人で夫の行動について考え続けていた。美咲の証言が事実なら、夫は確実に浮気をしている。しかし証拠がない以上、確信することはできない。どうすれば真実を知ることができるだろうか。


美咲は、由紀子の心理状態を正確に読み取っていた。疑念は植え付けられ、確信に変わりつつある。後は決定的な証拠、あるいは証拠に見えるような状況を提供すれば、山田夫婦の関係は完全に破綻するだろう。


そのための次の手段として、美咲はより大胆な作戦を考えていた。山田氏の浮気を立証するような状況を人為的に作り出す。それは複雑で危険な計画だったが、美咲の計算では実行可能だった。


山田家の崩壊は、もはや時間の問題だった。美咲の巧妙な操作により、家族の絆は既に限界まで弱くなっている。後は最後の一押しがあれば、すべてが瓦解する。その瞬間を想像しながら、美咲は静かな興奮を覚えていた。


## 第五章 決定的瞬間


美咲の計画は最終段階に入っていた。山田夫婦の信頼関係は既に深刻なダメージを受けており、わずかな刺激で完全に破綻する状態にあった。美咲は、その最後の一押しとなる決定的な出来事を演出することを決めた。


計画の核心は、山田氏の浮気を確定的に立証することだった。しかし実際の証拠を捏造することは法的リスクが高すぎる。美咲が選んだのは、より巧妙で追跡困難な方法だった。


まず、美咲は山田氏の行動パターンをより詳細に把握する必要があった。数日間の観察を通じて、彼が同僚の女性と定期的に会っていることを確認した。二人は週に二、三回、仕事終わりにレストランで食事をしている。関係の性質は判然としないが、少なくとも一般的な同僚関係を超えた親密さがあることは間違いなかった。


美咲は、この状況を利用することにした。由紀子に山田氏の行動を直接目撃させる機会を作り出すのだ。しかし偶然を装う必要があるため、慎重な準備が必要だった。


ある金曜日の午後、美咲は由紀子に提案した。


「今度の週末、一緒にお買い物に行きませんか?久しぶりにデパートを見て回りたくて」


由紀子は喜んで応じた。最近の夫婦関係の悪化で気分も沈んでおり、気分転換が必要だった。


「いいですね。どちらのデパートに行きましょうか?」


「〇〇駅の近くのデパートはいかがですか?品揃えも良いし、レストランも充実していて」


美咲が提案した場所は、山田氏の勤務先の近くだった。しかし由紀子はその意図に気づいていない。


土曜日の午後、二人は約束の場所で待ち合わせた。美咲は事前に山田氏のスケジュールを調査していた。彼は今日も同僚の女性と会う予定があることを、さりげない観察を通じて確認していた。


デパートでの買い物を楽しんだ後、美咲は夕食を提案した。


「お疲れ様でした。どこかでお食事でもいかがですか?」


「そうですね。この辺りで美味しいレストランをご存知ですか?」


美咲は、山田氏がよく利用するレストランを提案した。もちろん、偶然を装って。


「〇〇というレストランが評判が良いと聞いたことがあります。試してみませんか?」


由紀子は特に異論もなく同意した。二人はレストランに向かったが、美咲は到着前に時間を調整していた。山田氏が同僚の女性と到着するタイミングに合わせる必要がある。


レストランに入ると、美咲は店内を見回した。まだ山田氏の姿は見えない。二人は窓際の席に案内され、メニューを見ながら注文を決めた。


約三十分後、美咲は目標を発見した。山田氏が同僚の女性と一緒に入店してきたのだ。二人は店の奥の席に案内されたため、由紀子からは見えない位置にいる。


美咲は、由紀子に気づかれないよう慎重に様子を観察した。山田氏と女性は親しげに会話を交わし、時折笑い声を上げている。明らかに仕事の話ではない、プライベートな会話をしているようだった。


「すみません、お手洗いはどちらでしょうか?」


美咲が席を立つと、由紀子も同席することを申し出た。


「私も一緒に行かせていただきます」


これは美咲にとって予想外の展開だったが、むしろ好都合だった。二人でお手洗いに向かう途中、必然的に山田氏の席の近くを通ることになる。


お手洗いに向かう途中、由紀子は突然立ち止まった。


「あれは」


由紀子の視線の先には、山田氏と同僚の女性がいた。二人は手を取り合い、見つめ合っている。明らかに恋人同士の行動だった。


由紀子は言葉を失った。夫が他の女性と親密な関係にあることが、目の前で証明されてしまった。美咲は由紀子の肩に手を置き、支えるような態度を見せた。


「山田さん、大丈夫ですか?」


由紀子は震えながら、夫の様子を見続けていた。山田氏は妻の存在に全く気づいていない。女性との会話に夢中で、周囲への注意が完全に散漫になっている。


「帰りましょう」


由紀子がようやく口を開いた。美咲は無言で頷き、二人は静かにレストランを後にした。


外に出ると、由紀子は泣き崩れた。長年の結婚生活、家族への献身、すべてが裏切られたという現実に直面して、感情を抑えることができなかった。


美咲は由紀子を慰めながら、内心では達成感を味わっていた。計画は完璧に成功した。山田夫婦の関係は、もはや修復不可能なレベルまで破綻している。


「山田さん、今日のことは辛かったでしょうが、真実を知ることができて良かったと思います」


美咲の言葉は、表面的には慰めだったが、実際には由紀子の決断を促すものだった。


「どうしたらいいのか分からないんです」


由紀子の混乱に、美咲は的確なアドバイスを提供した。


「まずは落ち着いて、ご自分の気持ちを整理することが大切です。そして、今後どうしたいかを考えてみてください」


美咲の助言は、離婚という選択肢を暗示するものだった。


その夜、由紀子は山田氏の帰宅を待った。いつもなら早く寝てしまうが、今日は話をする必要がある。午後に見た光景が頭から離れず、夫への信頼は完全に失われていた。


山田氏が帰宅したのは午後十時を過ぎてからだった。いつものように疲れた様子を装っているが、由紀子にはもう騙されない。


「お帰りなさい。今日はどちらにいらしたんですか?」


由紀子の質問に、山田氏は少し戸惑った。普段はそのような質問をされることがないからだ。


「仕事だよ。残業があったんだ」


夫の嘘に、由紀子の怒りが爆発した。


「嘘をつかないでください。あなたが女性と一緒にいるところを見ました」


山田氏の顔が青ざめた。まさか妻に目撃されているとは思わなかった。


「何のことだ?」


「とぼけないでください。レストランで女性と手を握っているところを、この目で見たんです」


由紀子の詰問に、山田氏はもはや言い逃れできないことを悟った。


「それは」


「認めるんですね。私が家族のために頑張っている間に、あなたは他の女性と」


由紀子の涙と怒りに、山田氏は何も言えなかった。事実を否定することはできず、かといって正当化することもできない。


その夜、山田夫婦は激しい口論を繰り広げた。十年以上の結婚生活で積み重なった不満、不信、そして今回の浮気。すべてが一気に表面化した。


翌日、由紀子は美咲に昨夜の出来事を報告した。


「主人と話をしました。すべて認めました」


美咲は同情的な表情を作りながら聞いた。


「そうでしたか。お辛かったでしょう」


「もう信頼関係を修復することはできません。離婚を考えています」


由紀子の決断に、美咲は表面的には驚いたふりをした。


「それは重大な決断ですね。よく考えてからの方がいいのではないですか?」


美咲の言葉は表面的には慎重さを求めるものだったが、実際には由紀子の決意を確認するためのものだった。


「もう決めました。この結婚生活を続けることはできません」


由紀子の決断は固かった。美咲の長期にわたる働きかけが、ついに実を結んだ瞬間だった。


その後の展開は急速だった。由紀子は弁護士に相談し、離婚手続きを開始した。山田氏も事実を認めているため、調停は比較的スムーズに進行した。子供たちの親権は由紀子が取得し、財産分与と慰謝料についても合意に達した。


半年後、山田家の離婚は正式に成立した。由紀子と子供たちは別のマンションに引っ越し、山田氏は一人で元の住居に残った。完璧な家庭崩壊の完成だった。


美咲は、自分の計画が完全に成功したことに深い満足を感じていた。一年以上をかけた巧妙な操作により、一つの家庭を完全に破綻させることができた。その過程で味わった優越感、他人の不幸を見る快感、そして計画が成功したときの達成感。すべてが美咲の心の闇を満たすものだった。


しかし同時に、美咲は新たな空虚感を感じ始めていた。山田家という目標を失った今、次に何をすべきなのか。完璧な日常に戻ることは、もはや耐え難い退屈を意味していた。


美咲の心には、既に次のターゲットへの関心が芽生えていた。他にも脆弱な家庭はないだろうか。自分の技能を試すことができる新しい挑戦はないだろうか。山田家の崩壊は、美咲にとって終わりではなく、新しい始まりに過ぎなかった。


## 第六章 新たな獲物


山田家の離婚が成立してから三ヶ月が経過した。美咲の日常は再び完璧なルーティンに戻っていたが、心の奥底では物足りなさが渦巻いていた。山田家を崩壊に導いた際に味わった興奮と達成感は、日を追うごとに薄れていく。美咲は新しい刺激、新しい挑戦を求めていた。


そんな中、美咲は近所に新しく越してきた家族に注目した。佐藤家は夫婦と小学生の息子の三人家族で、表面的には仲の良い家庭に見えた。しかし美咲の鋭い観察眼は、この家庭にも隠された脆弱性があることを見抜いていた。


佐藤夫婦は共働きで、妻の明美は地元の病院で看護師として働いている。夫の直樹は IT企業のエンジニアで、在宅勤務の日も多い。息子の拓也は小学校三年生で、両親の仕事の都合で学童保育に通っている。


美咲が最初に興味を持ったのは、明美の仕事に対するストレスだった。看護師という職業は肉体的にも精神的にも負担が大きく、家庭との両立は容易ではない。一方、夫の直樹は在宅勤務が多いにも関わらず、家事や育児への参加は限定的に見えた。


美咲は、山田家の時と同様に、偶然を装って佐藤家との接触を図った。最初の機会は、マンションのエレベーターでの出会いだった。


「こんにちは。お引越しされたばかりですね」


美咲が優しく声をかけると、明美は少し驚いた様子を見せた。


「はい、先月越してきました。佐藤と申します」


「私は田中です。同じ階にお住まいなんですね。何かご不明なことがあれば、お気軽にお声がけください」


美咲の親切な申し出に、明美は感謝の気持ちを表した。看護師として忙しく働いている明美にとって、近所に頼れる人がいることは心強かった。


その後、美咲は機会を見つけては明美と話をするようになった。スーパーマーケットでの偶然の出会い、マンションの共用部での立ち話。徐々に関係を深めていく過程は、山田家の時と同じパターンだった。


明美は看護師という職業柄、責任感が強く、他人への思いやりも深い人物だった。しかし同時に、仕事と家庭の両立で常にストレスを抱えていることも明らかになった。


「お仕事がお忙しそうですね」


ある日、美咲が明美に声をかけた。明美は疲れた様子で、目の下にクマができている。


「そうなんです。最近、病院が人手不足で残業が多くて」


明美の愚痴を聞きながら、美咲は同情的な表情を作った。


「お疲れ様です。ご主人はお手伝いされるんですか?」


「主人は在宅勤務が多いんですが、仕事が忙しくて。家のことはほとんど私がやっています」


明美の言葉に、美咲は興味深い情報を見出した。夫婦間の役割分担に不均衡があることが示唆されている。


「それは大変ですね。お子さんのお迎えなども?」


「はい。拓也は学童保育に通っているんですが、お迎えはいつも私が行っています」


明美の状況は、典型的な働く母親の負担を表していた。仕事と家事、育児のすべてを一人で抱え込んでいる。


美咲は、この状況を利用することを決めた。明美の負担を軽減するふりをしながら、実際には夫婦間の不満を煽る。その第一歩として、佐藤家の家事分担について詳しく聞き出すことにした。


「ご主人が在宅勤務でしたら、家事を分担されやすいのではないですか?」


美咲の質問に、明美は複雑な表情を見せた。


「それがなかなか。主人は仕事に集中したいと言って、家のことには関与したがらなくて」


明美の不満が徐々に表面化してきた。美咲は、この感情をさらに引き出すことに集中した。


「お仕事をされている身としては、家事の分担は重要ですよね」


「そうなんです。私も外で働いているのに、家のことは全部私の責任みたいで」


明美の愚痴に、美咲は深く頷いた。


「それは不公平ですね。ご主人にお話しされたことはありますか?」


「何度か話したんですが、主人は自分の仕事の方が重要だと思っているようで」


明美の言葉から、佐藤夫婦の間にも山田家と同様の問題があることが分かった。コミュニケーション不足、相互理解の欠如、役割分担への不満。


美咲は、明美の信頼を得るため、自分の家庭を理想的な例として提示した。


「うちの主人とは、家事も育児も平等に分担しています。お互いに働いているのですから、当然のことだと思っています」


美咲の発言は事実ではなかった。美咲と健一の間に子供はおらず、家事は美咲が一手に引き受けている。しかし明美は美咲の言葉を信じ、自分の状況と比較して落胆した。


「羨ましいです。どうやってそのような関係を築かれたんですか?」


明美の質問に、美咲は用意していた答えを提供した。


「最初からお互いの役割を明確にして、定期的に話し合いをするんです。一方的な負担は、結婚生活を破綻させる原因になりますから」


美咲の助言は、表面的には建設的に見えたが、実際には明美の夫への不満を正当化するものだった。


その日の夜、明美は夫の直樹に家事分担について話をした。しかし直樹の反応は期待したものではなかった。


「俺だって仕事で忙しいんだ。家のことまで手が回らない」


直樹の言葉に、明美は失望した。美咲が指摘していた通り、夫は家庭への責任を軽視している。


「私も仕事をしているんです。なぜ家のことは私だけの責任なんですか?」


明美の抗議に、直樹は苛立ちを見せた。


「看護師なんて所詮女の仕事だろう。俺のIT関連の仕事の方が重要だ」


夫の心無い言葉に、明美は深く傷ついた。自分の職業への侮辱、家庭への無責任な態度。すべてが明美の怒りを煽った。


翌日、明美は美咲に昨夜の出来事を報告した。


「主人と話をしたんですが、全く理解してもらえませんでした」


明美の落胆を見て、美咲は内心で満足した。計画は順調に進行している。


「それは残念ですね。でも、明美さんの主張は正当だと思います」


美咲の支援に、明美は感謝した。夫以外に自分の立場を理解してくれる人がいることは、精神的な支えになった。


「田中さんにそう言っていただけると、心強いです」


美咲は、明美の信頼をさらに深めるため、より親密な関係を築くことにした。定期的な交流、悩み相談、そして夫婦関係への助言。すべてが佐藤家の絆を弱めるための戦略だった。


数週間後、美咲は佐藤家の息子、拓也にもアプローチを始めた。山田家の健太と同様、子供を通じて家庭の状況をより詳しく知ることができる。


「拓也くん、学校はどうですか?」


ある日の午後、美咲が拓也に声をかけた。拓也は人懐っこい性格で、すぐに美咲に心を開いた。


「楽しいです。友達もできました」


拓也の明るい答えに、美咲は微笑んだ。


「お父さんとお母さんはお忙しそうですね」


「お母さんはいつも疲れています。お父さんは家にいるけど、パソコンばかりやっています」


拓也の観察は的確だった。両親の関係、家庭内の雰囲気を子供なりに理解している。


「寂しくないですか?」


美咲の質問に、拓也は少し考えてから答えた。


「時々寂しいです。前の家では、お父さんともっと遊んでくれました」


拓也の言葉から、引越し後に父子関係が悪化していることが分かった。直樹の仕事の変化、環境の変化が家族関係にも影響を与えている。


美咲は、この情報を明美に伝えることにした。ただし、直接的ではなく、さりげない形で。


「拓也くんと少しお話ししました」


ある日、美咲が明美に報告した。


「ありがとうございます。どうでしたか?」


「とても良い子ですね。ただ、少し寂しがっているようです」


美咲の指摘に、明美は心配そうな表情を見せた。


「そうなんです。最近、拓也が塞ぎ込むことが多くて」


「お父さんとの時間が少ないのかもしれませんね」


美咲の示唆に、明美は深く頷いた。引越し後、夫と息子の関係が疎遠になっていることは明美も気づいていた。


「主人に話をしてみます」


明美の決意を聞いて、美咲は内心で期待した。また新たな夫婦間の対立が生まれるだろう。


その夜、明美は直樹に拓也の件について話をした。しかし直樹の反応は予想通り冷淡だった。


「俺は忙しいんだ。子供の相手なんてしている暇はない」


夫の無責任な発言に、明美の怒りは頂点に達した。


「あなたは父親でしょう?息子があなたとの時間を求めているんです」


「うるさいな。俺の仕事がうまくいかなかったら、家族全員が困るんだぞ」


直樹の詭弁に、明美は呆れた。仕事を理由に家族への責任を放棄する態度は、もはや許容できない。


その夜から、佐藤夫婦の関係は急速に悪化した。明美の不満は限界に達し、直樹も妻の要求を面倒に感じている。子供の拓也も両親の険悪な雰囲気を感じ取り、家庭内に緊張が漂っていた。


美咲は、この状況を満足げに観察していた。佐藤家も山田家と同じ道を歩み始めている。家族の絆が弱くなり、不信と不満が蓄積している。後は適切なタイミングで最後の一押しをすれば、この家庭も崩壊に向かうだろう。


しかし美咲は、佐藤家に対してより大胆な作戦を考えていた。山田家の場合は浮気という既存の問題を利用したが、佐藤家では問題を人為的に作り出す必要がある。それはより複雑で危険な計画だったが、美咲の欲求を満たすためには必要な挑戦だった。


美咲の心の闇は、山田家の成功によってさらに深くなっていた。他人の不幸を作り出すことへの快感、完璧な計画を実行することへの達成感。それらすべてが美咲を新たな犯罪へと駆り立てていた。


佐藤家の運命は、既に美咲の手の中にあった。


## 第七章 精神の歪み


佐藤家への工作を続けながら、美咲の精神状態は徐々に変化していた。最初は単なる退屈しのぎから始まった他人の家庭への介入が、今では美咲にとって欠かせない刺激となっていた。完璧な主婦としての日常は、もはや仮面に過ぎない。真の美咲は、他人の不幸を作り出すことに異常な快感を覚える存在になっていた。


ある夜、美咲は鏡の前で自分の顔を見つめていた。表面的には何も変わっていない。三十二歳の美しい主婦の顔がそこにある。しかし目の奥には、以前にはなかった冷たい光が宿っていた。それは他人の痛みを楽しむ者の目だった。


「どうかしたの?」


健一が背後から声をかけた。美咲は振り返り、いつものような優しい笑顔を浮かべる。


「いえ、何でもありません。お疲れ様でした」


完璧な演技だった。健一は美咲の変化に全く気づいていない。それは美咲の演技力の高さを示すと同時に、夫婦間の精神的な距離の証明でもあった。


翌日、美咲は明美との定期的な会話を続けた。佐藤夫婦の関係は、美咲の期待通りに悪化している。家事分担をめぐる対立、子育てへの意識の違い、お互いへの理解不足。すべてが表面化し、日常的な口論が絶えなくなっていた。


「昨夜もまた主人と喧嘩をしてしまいました」


明美が疲れた様子で話し始めた。美咲は心配そうな表情を作りながら、内心では興奮していた。


「どのようなことで?」


「拓也の習い事の件です。息子はサッカーを習いたがっているんですが、主人は時間の無駄だと言って」


明美の愚痴を聞きながら、美咲は適切なタイミングで煽りの言葉を投入した。


「お子さんの希望を無視するなんて、ひどいですね」


「そうなんです。私は息子の気持ちを大切にしたいんですが、主人は勉強だけしていればいいと」


「教育方針の違いは深刻ですね。お子さんの将来にも関わることですから」


美咲の指摘は、明美の夫への不満をさらに深めた。子供の幸せを考えない父親、家族の意見を聞かない独裁的な夫。明美の心の中で、直樹への愛情は急速に冷めていった。


美咲は、この機会を利用してより大胆な提案をした。


「もしよろしければ、私が拓也くんのサッカーの送迎をお手伝いしましょうか?」


美咲の申し出に、明美は驚いた。


「そんな、申し訳ありません」


「いえいえ、私も時間がありますし、拓也くんのためになるなら」


美咲の善意に見える提案は、実際には佐藤家により深く介入するための戦略だった。子供の習い事を支援することで、家族内での美咲の存在感を高める。同時に、父親である直樹の無責任さを際立たせる効果もある。


明美は美咲の申し出を受け入れた。夫が協力しない中で、近所の人が支援してくれることは非常にありがたかった。


翌週から、美咲は拓也のサッカー教室への送迎を開始した。拓也は美咲になついており、車の中で家庭の状況について無邪気に話をする。


「お父さんとお母さんは最近よく喧嘩をしているんです」


拓也の言葉に、美咲は同情的な表情を作った。


「そうなんですか。心配ですね」


「僕のサッカーのことでも喧嘩になって。お父さんは反対だったけど、お母さんが美咲おばさんのおかげで通わせてくれることになったって」


拓也の説明から、美咲の介入が夫婦間の対立をさらに深めていることが分かった。直樹は妻が近所の人に頼ることを快く思っておらず、自分の立場が脅かされることを恐れている。


美咲は、この状況をさらに悪化させることを決めた。直樹の嫉妬心と劣等感を刺激し、家族内での孤立感を深める。そのために、意図的に直樹の前で明美と親しく会話する機会を作った。


ある夕方、美咲は拓也を送り届けた際に、タイミングを計って直樹と遭遇した。


「お疲れ様です。拓也くんをお送りしました」


美咲が礼儀正しく挨拶すると、直樹は複雑な表情を見せた。


「どうも。いつもすみません」


直樹の返事は素っ気なかった。美咲は、この男性の心理を正確に読み取っていた。プライドが高く、他人に依存することを嫌う性格。妻が近所の人に頼ることで、自分の無能さが露呈することを恐れている。


「拓也くんはとても良い子ですね。サッカーも上手になってきました」


美咲の褒め言葉に、直樹の表情がさらに曇った。息子の成長を近所の人が見守っている一方で、父親である自分は関与していない。その現実が直樹のプライドを深く傷つけた。


その夜、直樹は明美に対して激しく抗議した。


「なんで俺に相談もなしに、近所の人に頼んだりするんだ」


直樹の怒りに、明美は困惑した。


「田中さんが親切に申し出てくださったんです。あなたが協力してくれないから」


「俺だって忙しいんだ。それに、息子のことを他人に任せるなんて」


「他人って、田中さんはとても良い方です。あなたより息子のことを考えてくださっています」


明美の言葉は、直樹のプライドを完全に打ち砕いた。妻から他人の方が良い父親だと言われたのと同じだった。


「もういい。勝手にしろ」


直樹は部屋を出て行き、その夜は一言も口をきかなかった。


翌日、明美は美咲に昨夜の出来事を報告した。


「主人が田中さんのことで怒ってしまって。申し訳ありません」


明美の謝罪に、美咲は寛大な態度を示した。


「気になさらないでください。ご主人のお気持ちも分からなくはありません」


美咲の理解ある態度は、明美の心をさらに美咲に向けさせた。夫は嫉妬深く理不尽な怒りを示すのに対し、美咲はすべてを理解してくれる。どちらが信頼できる相手かは明らかだった。


美咲は、佐藤家の分裂が加速していることを実感していた。夫婦間の信頼関係は既に深刻なダメージを受けており、修復は困難な状況になっている。子供を巻き込んだ対立、外部の人間への依存、そして男性のプライドを傷つける状況。すべてが家庭崩壊への道筋を示していた。


しかし美咲は、まだ満足していなかった。佐藤家の崩壊は山田家ほど劇的ではない。より決定的な破綻を招くためには、さらなる仕掛けが必要だった。


美咲が考えていたのは、直樹の仕事への介入だった。IT エンジニアという職業は、プロジェクトの成功や失敗が明確に評価される。もし直樹の仕事に何らかの問題が生じれば、家庭内での立場はさらに悪化するだろう。


美咲は、直樹の勤務先について調査を始めた。会社名、所在地、取引先、現在進行中のプロジェクト。インターネットや人脈を使って、可能な限りの情報を収集した。


調査の結果、直樹は重要なシステム開発プロジェクトのリーダーを務めていることが分かった。プロジェクトの成功は直樹の評価に直結し、失敗すれば降格や減給の可能性もある。


美咲は、このプロジェクトに何らかの妨害を加えることを考えた。ただし、直接的な攻撃は法的リスクが高すぎる。より巧妙で、追跡困難な方法を見つける必要があった。


数日間の検討の末、美咲は一つのアイデアを思いついた。直樹のプロジェクトに関連する偽の情報を流し、混乱を招く。具体的には、取引先からのクレームや仕様変更の要求を偽装し、プロジェクトの進行を妨害する。


計画の実行には、複数の偽名メールアドレスと、取引先の内部情報が必要だった。美咲は、これまでの人脈と調査能力を駆使して、必要な情報を収集した。


一週間後、美咲は計画を実行に移した。取引先を装った偽のメールを直樹の会社に送信し、プロジェクトの仕様変更を要求した。同時に、別の偽名でクレームのメールも送信した。


偽のメールは巧妙に作成されており、一見すると本物と区別がつかない。美咲は過去の経験を活かし、企業間のやり取りに使われる典型的な文言と形式を模倣した。


翌日、直樹の職場では混乱が始まった。取引先からの突然の仕様変更要求とクレームに、プロジェクトチームは対応に追われた。直樹はリーダーとして状況の収拾に奔走したが、取引先との連絡が取れず、事態は悪化していった。


数日後、偽のメールであることが判明したが、その間にプロジェクトの進行は大幅に遅れていた。直樹は上司から厳しく叱責され、プロジェクトの管理能力を疑問視された。


家に帰った直樹は、職場での問題を家族に話すことはなかった。しかし表情は暗く、明らかにストレスを抱えていることが分かった。


美咲は、計画が成功したことを密かに喜んでいた。直樹の仕事上の問題は、家庭内での立場をさらに悪化させるだろう。ストレスが増大すれば、家族との関係も一層険悪になる。


果たして美咲の予想通り、直樹の態度はより攻撃的になった。仕事での失敗を家族にぶつけるようになり、些細なことで怒鳴るようになった。明美も拓也も、直樹の変化に戸惑い、家庭内の雰囲気は最悪の状態になった。


美咲は、佐藤家の完全な崩壊が近いことを感じていた。夫婦関係の悪化、子供への悪影響、経済的な不安。すべてが重なり合い、家族の絆は限界点に達している。


しかし同時に、美咲自身の精神状態も危険な領域に入っていた。他人の不幸を作り出すことへの依存は深刻化し、罪悪感は完全に麻痺していた。美咲にとって、他人は自分の欲求を満たすための道具に過ぎなくなっていた。


美咲の心の闇は、もはや制御不能な状態になっていた。


## 第八章 暴走する欲望


美咲の行動はエスカレートの一途を辿っていた。佐藤家への工作は成功を収めているが、それでも美咲の欲求は満たされない。より大きな破壊、より劇的な崩壊を求める気持ちが日増しに強くなっていた。


ある夜、美咲は自分の行動について冷静に分析していた。山田家、佐藤家と二つの家庭を破綻に導いた経験は、美咲に新たな技術と自信を与えていた。しかし同時に、より大きな刺激を求める欲求も生まれていた。


美咲は、次のターゲットとしてより困難な挑戦を選ぶことを決めた。これまでは既に問題を抱えている家庭を選んでいたが、今度は表面的には完璧に見える家庭を破壊してみたい。その方が技術的に困難で、成功したときの達成感も大きいだろう。


美咲が目をつけたのは、マンションの上階に住む高橋家だった。夫の雅人は大手銀行の支店長で、妻の恵子は専業主婦。二人の娘は私立中学校に通っており、家族は経済的にも社会的にも恵まれていた。


高橋家は近所でも評判の良い家族だった。夫婦は仲が良く、子供たちも優秀で礼儀正しい。美咲のような第三者から見ても、特に問題があるようには見えない。だからこそ、美咲には魅力的なターゲットだった。


美咲は、高橋家との接触を図るため、まず恵子にアプローチした。マンションの住民として自然な形で関係を築き、徐々に信頼を得る作戦だった。


「高橋さん、こんにちは」


ある日の午前中、美咲が恵子に声をかけた。恵子は上品な女性で、いつも丁寧な対応を見せる。


「田中さん、こんにちは。いつもお世話になっております」


恵子の礼儀正しい態度に、美咲は内心で微笑んだ。完璧に見える人ほど、崩すのが楽しい。


「お嬢さんたちは私立中学校にいらっしゃるんですね。優秀でいらして」


美咲の褒め言葉に、恵子は謙遜しながら答えた。


「ありがとうございます。主人が教育熱心で、子供たちにも良い環境をと思っています」


恵子の言葉から、高橋家の価値観が見えてきた。教育への投資、社会的地位への意識、完璧な家族像の維持。これらすべてが、美咲の攻撃対象になり得る。


美咲は、高橋家の弱点を見つけるため、より詳細な観察を始めた。家族の生活パターン、外出の頻度、子供たちの活動。すべてを記録し、分析した。


数週間の観察の結果、美咲は興味深い発見をした。高橋家は表面的には完璧だが、家族間のコミュニケーションは形式的で、真の親密さに欠けているように見えた。特に父親の雅人は仕事に忙殺されており、家族との時間は限られている。


美咲は、この状況を利用することを決めた。まず恵子との関係を深め、家庭内の不満や不安を引き出す。完璧に見える家庭ほど、内部には隠れたストレスがあるものだ。


「高橋さんはいつも充実されているように見えますが、何かお悩みなどはありませんか?」


ある日、美咲が恵子に尋ねた。恵子は少し戸惑ったような表情を見せた。


「特に大きな悩みはありませんが」


恵子の答えは表面的だったが、美咲は諦めなかった。完璧な家庭を演じている人ほど、弱みを見せることを恐れる。しかし時間をかけて信頼関係を築けば、必ず本音を引き出せるはずだ。


美咲は、恵子との会話で自分の悩みを先に打ち明ける戦術を取った。相手に心を開かせるためには、まず自分が脆弱性を見せることが効果的だ。


「実は私、最近主人との関係で少し悩んでいるんです」


美咲の告白に、恵子は関心を示した。


「そうなんですか。どのようなことで?」


「コミュニケーション不足というか。お互い忙しくて、夫婦の時間が取れなくて」


美咲の悩みは部分的には事実だった。健一との関係は表面的で、深い絆があるとは言えない。ただし、美咲自身はそのことを問題だとは思っていない。


恵子は美咲の悩みに同情的な反応を示した。


「分かります。うちも主人が忙しくて、なかなか夫婦の時間が」


恵子の言葉に、美咲は期待を抱いた。やはり高橋家にも隠れた問題があるようだ。


「ご主人は銀行員でいらっしゃるから、お忙しいでしょうね」


「そうなんです。支店長になってから、さらに忙しくなって。家にいても仕事のことばかり考えているようで」


恵子の不満が少しずつ表面化してきた。美咲は、この機会を逃さずに話を深めた。


「寂しいですね。家族の時間も大切ですのに」


「そうなんです。子供たちも父親と話をする機会が少なくて。特に下の娘は、もっとお父さんと過ごしたいと言っているんです」


恵子の話から、高橋家の問題点が明確になってきた。父親の不在、家族の疎外感、子供たちの寂しさ。表面的には完璧な家庭も、内部には亀裂が生じ始めている。


美咲は、これらの問題をより深刻化させることを決めた。恵子の夫への不満を煽り、子供たちの父親への失望を深める。同時に、雅人に対しても何らかの働きかけを行う必要がある。


美咲の計画は、これまでよりも複雑で大胆なものだった。高橋家は社会的地位が高く、破綻した場合の影響も大きい。しかしそれだけに、成功したときの満足感も格別なものになるだろう。


美咲は、高橋家の長女、中学二年生の麻衣にも注目していた。思春期の少女は感情的に不安定で、家族関係の変化に敏感に反応する。麻衣の心理を巧妙に操作すれば、家族内の対立をより深刻化させることができる。


ある日の午後、美咲は偶然を装って麻衣と出会った。


「麻衣ちゃん、こんにちは。お疲れ様」


美咲が優しく声をかけると、麻衣は礼儀正しく挨拶を返した。


「こんにちは、田中さん」


麻衣は良い子だったが、美咲の鋭い観察眼は彼女の心の奥にある不安を見抜いていた。


「学校はいかがですか?勉強は大変でしょう」


「はい、でも頑張っています」


麻衣の答えは模範的だったが、美咲はより深い部分を探ろうとした。


「お父さんもお忙しそうですね。なかなかお話しする時間がないのでは?」


美咲の質問に、麻衣の表情が少し曇った。


「そうですね。お父さんはいつも疲れているので」


麻衣の言葉に、美咲は父親への寂しさを感じ取った。


「寂しくないですか?」


「少し。でも、お父さんは家族のために頑張ってくれているから」


麻衣の健気な答えに、美咲は内心で笑った。この子は父親を理想化している。その幻想を打ち砕くのは、それほど困難ではないだろう。


美咲は、麻衣との会話を通じて、高橋家の子供たちの心理状態を把握した。父親への憧れと失望、母親への依存、完璧な家族像への重圧。これらすべてが、美咲の操作対象になり得る。


その夜、美咲は高橋家への詳細な攻撃計画を立てた。まず恵子の夫への不満を最大限に煽り、夫婦関係を悪化させる。同時に、子供たちに父親の否定的な面を認識させ、家族の結束を弱める。最終的には、雅人の仕事や社会的地位にも攻撃を加え、家庭の経済基盤を揺るがす。


この計画は、美咲がこれまでに実行した中で最も野心的で危険なものだった。しかし美咲の心は既に常軌を逸しており、リスクを冷静に評価する能力を失っていた。


美咲にとって、高橋家の破壊は単なる娯楽ではなく、自分の能力を証明する試練でもあった。完璧に見える家庭を崩壊させることができれば、美咲は自分の力を完全に確信できる。


しかし美咲は、自分の行動が既に制御不能な領域に入っていることに気づいていなかった。他人の不幸への依存は深刻化し、現実感覚も歪み始めている。美咲自身が、自分の作り出した闇に飲み込まれつつあった。


高橋家への攻撃は、美咲にとって新たな始まりであると同時に、破滅への第一歩でもあった。


## 第九章 破綻への道筋


美咲の高橋家への工作は、これまでの経験を活かしたより洗練された手法で行われていた。恵子との信頼関係を深めながら、家族内の不満を巧妙に煽り立てる。その一方で、子供たちにも接触し、父親への疑念を植え付ける。すべてが計算された戦略だった。


恵子との関係は順調に発展していた。週に数回の会話を通じて、美咲は高橋家の内情をより詳しく把握していた。雅人の仕事への没頭、家族との時間の欠如、子供たちの教育に対するプレッシャー。表面的には順風満帆な家庭にも、様々なストレスが蓄積されていることが明らかになった。


「最近、主人との会話がますます減ってしまって」


ある日の午後、恵子が美咲に愚痴をこぼした。


「お忙しいからでしょうか?」


「それもあるんですが、話しかけても上の空で。まるで家族のことに興味がないみたい」


恵子の不満に、美咲は同情的に応じた。


「それは寂しいですね。ご主人に直接お話しされたことはありますか?」


「何度か話そうとしたんですが、いつも疲れているからって後回しにされて」


恵子の言葉から、高橋夫婦のコミュニケーション不足が深刻であることが分かった。美咲は、この状況をさらに悪化させるための言葉を慎重に選んだ。


「夫婦の対話は関係の基盤ですよね。それがなくなってしまうと」


美咲の示唆に、恵子は不安そうな表情を見せた。


「そうですね。でも、どうすればいいのか」


「まずは恵子さんご自身の気持ちを大切にすることではないでしょうか。我慢ばかりしていては、いつか心が壊れてしまいます」


美咲のアドバイスは、表面的には建設的に聞こえたが、実際には恵子の自立心を煽るものだった。夫に依存するのではなく、自分の幸せを追求すべきだという示唆が含まれている。


数日後、美咲は高橋家の次女、中学一年生の由香にもアプローチした。長女の麻衣よりも感情的で、父親への複雑な感情を抱いている由香は、美咲にとって操作しやすいターゲットだった。


「由香ちゃん、最近元気がないようですが、何かありましたか?」


美咲が心配そうに尋ねると、由香は困った表情を見せた。


「別に何も」


由香の答えは素っ気なかったが、美咲は諦めなかった。思春期の少女の心理を理解している美咲は、適切なアプローチを選択した。


「学校で何か嫌なことがあったんですか?それとも家のこと?」


美咲の推測に、由香は少し反応を示した。


「家のことって」


「お父さんとお母さんのことで、何か心配事があるのかなって」


美咲の言葉に、由香の表情が変わった。やはり家族関係について何かしらの不安を抱いているようだ。


「お父さんが最近怖いんです」


由香の告白に、美咲は内心で期待を抱いた。


「怖いって、どうして?」


「いつもイライラしていて。話しかけても機嫌が悪くて」


由香の観察は的確だった。雅人の仕事上のストレスが家庭内でも表面化している。


美咲は、由香の不安をさらに増大させることを決めた。


「それは心配ですね。お父さんとお母さんは仲良くしていらっしゃいますか?」


美咲の質問に、由香は戸惑いを見せた。


「よく分からないです。でも、最近あまり話をしているのを見ないような」


由香の答えは、美咲の期待通りだった。子供なりに両親の関係の変化を感じ取っている。


「それは寂しいですね。由香ちゃんはどう思いますか?」


「よく分からないけど、家の雰囲気が重いというか」


由香の率直な感想に、美咲は満足した。家族内の緊張を子供が敏感に察知している。この状況をさらに悪化させれば、家族の結束は確実に弱くなる。


美咲は、由香に対して父親への疑念を植え付ける作業を続けた。直接的な批判ではなく、疑問を抱かせるような質問を投げかける。


「お父さんのお仕事は大変なんでしょうね。でも、家族との時間も大切だと思いませんか?」


美咲の言葉に、由香は考え込んだ。


「そうですね。お父さんはいつも仕事ばかりで」


「仕事も大切ですが、家族を大切にしない男性は、本当に良い人と言えるでしょうか?」


美咲の示唆的な質問に、由香は困惑した。父親への信頼が揺らぎ始めている。


その夜、由香は姉の麻衣に美咲との会話について話した。


「田中さんが、お父さんのことを聞いてきたの」


麻衣は妹の話に関心を示した。


「何て言ってたの?」


「お父さんが家族を大切にしていないんじゃないかって」


由香の報告に、麻衣も考え込んだ。確かに父親は最近家族との時間を取っていない。仕事を理由に家族の行事を欠席することも多い。


姉妹の会話は、美咲の思惑通りに進んでいた。子供たちが父親に対して疑念を抱き始めている。この感情が表面化すれば、家族内の対立はより深刻になる。


一方、美咲は恵子に対してもより大胆な働きかけを行っていた。夫婦関係の問題を表面化させ、恵子の不満を爆発寸前まで高める。


「恵子さんは、今の結婚生活に満足していらっしゃいますか?」


ある日、美咲が恵子に直接的な質問をした。


「満足って、どういう意味でしょうか?」


恵子の戸惑いに、美咲はより具体的に尋ねた。


「女性として、妻として、幸せだと感じていらっしゃるかということです」


美咲の質問は、恵子にとって衝撃的だった。これまで結婚生活の満足度について深く考えたことがなかった。


「そうですね。特に不満はありませんが」


恵子の答えは曖昧だったが、美咲は核心に迫った。


「本当にそうでしょうか?ご主人から愛されていると感じますか?」


美咲の追及に、恵子は言葉を失った。愛されているかどうか、正直に言えば分からない。夫は家族を養う責任は果たしているが、妻への愛情表現はほとんどない。


「愛情表現って、人それぞれですから」


恵子の苦しい答えに、美咲は同情的な表情を作った。


「そうですね。でも、女性には女性なりの幸せがあると思うんです。それを我慢し続けることが、本当に正しいのでしょうか?」


美咲の言葉は、恵子の心に深く刺さった。自分は幸せなのだろうか?この結婚生活は自分にとって本当に良いものなのだろうか?これまで考えることを避けてきた疑問が、一気に表面化した。


その夜、恵子は一人で結婚生活について考え続けた。十五年間の結婚生活を振り返ると、幸せだった記憶はあまりない。特に最近は、夫との会話もなく、親密さも失われている。自分は単なる家政婦のような存在になってしまったのではないか。


翌日、恵子は雅人に対して初めて本格的な話し合いを求めた。


「お疲れ様です。少しお話があるんですが」


恵子の真剣な様子に、雅人は戸惑った。


「何だ?急に」


「私たちの関係について話したいんです」


雅人は面倒そうな表情を見せた。仕事で疲れている時に、夫婦関係の話などしたくない。


「今はそんな気分じゃない。疲れているんだ」


夫の冷たい反応に、恵子は深く失望した。美咲が指摘していた通り、夫は妻の気持ちを理解しようとしない。


「いつもそうですね。私の話は後回し」


恵子の抗議に、雅人は苛立ちを見せた。


「俺だって大変なんだ。家族のために働いているのに、文句を言われる筋合いはない」


夫の詭弁に、恵子の怒りが爆発した。


「お金を稼いでいれば、それで夫の責任を果たしていると思っているんですか?」


「当たり前だろう。それ以上何を求めるんだ」


雅人の無理解な発言に、恵子は絶望した。この人は本当に自分を愛しているのだろうか。家族を大切に思っているのだろうか。


その夜の口論は、高橋家にとって転換点となった。これまで表面化していなかった夫婦間の問題が一気に噴出し、家族の関係は急速に悪化した。


美咲は、高橋家の変化を満足げに観察していた。計画は順調に進行している。後は最後の一押しがあれば、この家庭も完全に破綻するだろう。


しかし美咲は、自分の行動がもたらす結果の重大さを完全に理解していなかった。三つの家庭を破壊した美咲の行為は、もはや単なる悪戯では済まされない領域に入っていた。



# 終章 蝶の羽音の果てに(続き)


実は、山田由紀子が美咲の正体に気づいていたのだ。離婚後の生活で冷静さを取り戻した由紀子は、美咲の言動を振り返り、不自然な点があったことに気づいた。美咲が現れてから自分の家庭が急速に崩壊していったこと、そして美咲の「助言」がすべて夫婦関係を悪化させる方向に働いていたことを、由紀子は遅ればせながら理解した。


由紀子は佐藤明美とも連絡を取るようになり、二人の経験を共有する中で、美咲の行動パターンに共通点があることを発見した。明美も美咲の介入後に夫婦関係が急速に悪化していたのだ。二人は高橋恵子にも警告を試みたが、時すでに遅く、高橋家の崩壊は避けられない状況になっていた。


「あの女性は私たちの家庭を意図的に破壊したのかもしれません」


由紀子の言葉に、明美は震える手で携帯電話を握りしめた。


「でも、なぜそんなことを?」


「分かりません。でも、これ以上被害者を出してはいけないと思うんです」


二人は勇気を出して、マンション管理組合に美咲の異常な行動について相談した。同時に、健一にも妻の変化について警告のメールを送った。


健一は妻の異変にますます不安を感じていた。夜中に独り言を言う美咲、突然笑い出す美咲、そして長時間外出して行き先を明かさない美咲。すべてが不可解だった。


「美咲、本当に何もないのか?」


ある夜、健一が真剣に尋ねた。美咲は一瞬動揺したが、すぐに完璧な笑顔を取り戻した。


「何もありませんよ。健一さんは心配しすぎです」


しかし健一の疑念は深まるばかりだった。そして決定的な出来事が起きた。健一のもとに由紀子からのメールが届いたのだ。


「田中様、奥様のことで重大なお話があります。奥様は私たち複数の家庭に介入し、意図的に夫婦関係を破壊しようとしています。証拠もあります。どうか注意してください」


メールを読んだ健一は激しく動揺した。美咲がそのような行為をするとは信じられなかった。しかし、最近の妻の異常な行動を考えると、完全に否定することもできなかった。


健一は美咲のパソコンを調べることにした。美咲が外出している間に、健一はパスワードを解除し、ファイルを確認した。そこには衝撃的な内容が記録されていた。


「山田家崩壊計画」「佐藤家介入記録」「高橋家破壊戦略」


詳細な観察記録、会話の分析、そして家庭崩壊に向けた綿密な計画。すべてが美咲の手によって記録されていた。健一は言葉を失った。自分の妻が他人の不幸を作り出すことに喜びを感じる異常な人物だったとは。


その夜、美咲が帰宅すると、健一は静かに向き合った。


「美咲、すべて知った。お前が何をしてきたのか」


美咲の表情が一瞬凍りついた。しかしすぐに冷静さを取り戻し、否定しようとした。


「何のことですか?」


「嘘はやめろ。お前のパソコンを見た。山田さん、佐藤さん、高橋さん。お前は彼らの家庭を破壊したんだな」


健一の言葉に、美咲の仮面が崩れ始めた。完璧な笑顔が歪み、目に異常な光が宿る。


「そうですよ。私が彼らの家庭を壊しました。でも、それが何か問題でも?」


美咲の開き直りに、健一は震えた。これが本当の美咲の姿なのか。


「なぜそんなことを?」


「なぜって...退屈だったからです。完璧な主婦を演じるのは疲れるんです。でも、他人の家庭が崩れていく様子を見るのは、とても楽しかった」


美咲の告白は冷酷で、感情のかけらもなかった。健一は妻の正体に恐怖を覚えた。


「お前は病気だ。治療が必要だ」


「病気?違います。私はただ、本当の自分を生きているだけです」


美咲の言葉に、健一は決断した。


「離婚する。お前とはもう一緒にいられない」


健一の宣告に、美咲は初めて動揺を見せた。自分の完璧な生活が崩壊する恐怖を感じたのだ。


「待ってください。私はあなたの家庭は壊していません。あなたとの生活は大切だったんです」


美咲の懇願に、健一は冷たく答えた。


「もう遅い。お前の本性を知った以上、一緒にいることはできない」


その夜、美咲は一人でリビングに座り、自分の行動を振り返っていた。三つの家庭を破壊し、そして最後に自分の家庭も崩壊させてしまった。皮肉な結末だった。


翌日、マンションの住民たちの間で美咲の行為が広まった。由紀子と明美の証言、高橋家の状況、そして健一の告発。すべてが美咲の罪を立証していた。


美咲は突然の孤立に耐えられなかった。完璧な主婦という仮面が剥がれ、本性が露わになった今、彼女には居場所がなかった。


数日後、美咲はマンションを去った。行き先を告げることなく、静かに姿を消した。健一との離婚手続きも、弁護士を通じて進められた。


美咲が去った後、被害を受けた家族たちは少しずつ立ち直り始めた。由紀子は子供たちと新しい生活を築き、明美は夫との関係を修復するためのカウンセリングを受けていた。高橋家は離婚こそ避けられなかったが、子供たちのために冷静な話し合いを続けていた。


そして一年後、ある地方都市のマンションに新しい住人が引っ越してきた。三十三歳の女性で、完璧な主婦の印象を与える人物だった。


「初めまして。佐々木と申します。どうぞよろしくお願いします」


彼女の優しい笑顔の奥に、誰も闇を見ることはなかった。新たな獲物を求める蝶の羽音が、再び静かに響き始めていた。

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