第三幕:鼬のいた夜
第三章:鼬のいた夜
旗屋には下男と下女がいる、という根も葉もない噂が立った。何を根拠に!と聞くと天秤棒を持って荷物を運ぶ清六を指さされて何も言えなくなった。根も葉もないのにこんな立派な幹があると違うと言い張るのに頭を絞らないといけない。清六と権兵衛は居候、私は部屋を貸してるだけ!と言い張っても信じてもらえず、かなめさんにも浮いた話があったようでなんて近所のおばさまたちが言う始末。ウチの客というわけではなく表のうどん屋にはたまに来るくらいのおばさまたちに見られているようだ。上方の味のうどん屋はおばさまたちに虎のような柄の着物を勧めている。虎じゃない気もするけど。
清六はそういう相手ではないと言い張るには普段のやり取りを見せるのがよく、案外聞きかじった話を信じている人が多いから一度寄り合いに連れていった。挨拶がてらに話に入らせると男衆で盛り上がり、改めて酒の席に呼ばれたらしい。清六だけで行かせて話が拗れると嫌なので私もついていった。酒は嗜む程度に飲み、酔い潰れた男の介抱をするのが私のようないい女の日常だ。かなめさんはなんで平気なの?と聞かれることがあるけど、私がいい女だから飲むところをつい見ているのだろう。綺麗な人を見てたらお酒が美味しいだろうし。
一升瓶を片手にいつも通り飲んでいたら、清六の顔が赤くなっているのに気がついた。何気に酒には弱いらしく、大して飲んでいないはずなのによく喋る。まだ私の半分も飲んでないのに、と注意したら「そりゃ当たり前だろう」なんて旦那衆から謂れのない中傷を受けた。普段は多少気を使う清六もそうだそうだなんて乗っかってくる。酒の席は楽しむのが礼儀、出された酒には酔うものだと酔っ払いの言いそうなことを並べて上機嫌の清六に呆れていると、表に誰か来ているのに気がついた。帰りが遅くなったから、権兵衛が見に来たらしい。心配させると悪いので清六を呼びつけて、そろそろ他人に絡み始めたのをひっぺがす。権兵衛を見た町の衆は、かなめさんには浮いた話はないようだとわかってくれた。なんで腑に落ちないんだろう。
酔っ払いの男というのは似たようなことをみんなで言うもので、あんちゃん、羨ましいぞ!とやんややんや。清六は少し嫌そうな顔をして、そういうのじゃねえよと指を組んだ。二回組み直してムッと腹に力を込めると、清六の顔から赤みが引いていった。素面というわけではないが、自分で酔いを覚ましたらしい。そんなことできるっけ?と聞いたら、できるようになったら当たり前になる、普通のことだという。
九字護身法。指の先から自分の臓腑を操る技で、なぜできないのかその方が不思議だとわらじを履いた。誰もそんなの聞いたことないけど、やろうと思えば逆に顔を赤くすることもできるからやってみせようか?と不思議な様子もなく言う。そんなことできるならなんであんなに酔ってたのよ、と言い返してやったが「楽しむのが礼儀と言ってるだろう」とくだらない屁理屈を言われた。きー!要するにわざとベロベロになるように飲んだわけだ。酔っ払いの男衆の中には、いいなあ教えてくれよという輩もいたが、また今度、と権兵衛に手を引かれて清六は帰っていった。
私も清六の後を追って夜道を歩き、酔っ払いの戯言に乗っかって言い返してきたのはわざと酔ったせいでしょと聞いたら「えーー……と……あの、その……」と弱みを見せたので一気に言いくるめてやろうと思ったのに、そうも行かなくなった。行く先に、浪人。長身の着流し姿で、こちらを見ていた。杖にかけられた親指から、パチンと音がした。鯉口を切った音だ。父さんの鳴らす音に少しだけ似た音は、杖の中が刃物だと知るのに十分だった。浪人は、すぐに杖を戻して清六の横を通り過ぎた。
「酒が入っとるな。また今度や」
清六は、夜の闇に消えていく男を追わず、振り向くこともできなかった。
次の朝、顔を洗って手拭いで拭く清六に浪人のことを聞いた。清六は、できれば答えたくないという。自分はあの浪人から、逃げたのだと言っていた。自分には答えられない。自分がどれか、まだわからないのだという。これから決まるわけではない。もう決まっているのに……まだわからない。手拭いを肩に引っ掛けた清六は、薪割りしないと、と言って店に引っ込んだ。
暖簾を出すと、表のうどん屋の大将が儲かりまっかと聞いてきた。商売敵なのにやたら話しかけてくるうどん屋の大将は、商売するなら似たような店がないと寂しいと上方で教わったらしい。一人で金だけ積もらせても楽しいことはない、商売は上手くいくかどうかや。素敵やろ?と大将の師匠の言葉の受け売りが続く。そのとき横から口を出してきたのは見慣れない商人、いいものがありますと私を呼んだ。便利なものでね、買ってくれませんか?と見せられた入れ物の中身は真っ黒な油。変な臭いがするけど、灯りにいいらしい。臭いが苦手だからどう断ろうかと考えていると、怒鳴り声が聞こえた。だらボケ消えさらせ!とものすごい上方訛りでうどん屋の大将が怒り、商人を追い払った。何をそんなに怒ったのかと思えば、あの黒い油は絶対に使ってはいけないという。
大将が上方で店を出す修行に明け暮れていたとき、同じものを見たことがあるそうだ。幸い上方にはそれが何か知っている人が割と多く、すぐに追い払った。しかし沼津で店を出してから、もし知らなければと考えるようになって身の毛がよだつという。あの臭水という油は、多少便利ですごく危険。一人や二人死ぬ程度ではすまないのが目に見えている。気をつけなはれとうどん屋の大将は店に戻った。
「かなめはん、生きてる人間は怖いものでっせ」
うどん屋の大将にしては大して考えのない、誰でも言うようなことを当たり前に言っていた。誰でも言うような当たり前のことだけど、考えていないわけではないなんて私にはわからなかった。
その日の夕方、沼津の町に血の花が咲いた。清六を殴って出る血とはさすがに比べ物にならない大輪の花。その真ん中で、朝に見かけた商人が潰れた蜘蛛みたいに死んでいた。真っ二つになった付き人たちが引いてきた大八車には、何が積まれていたか知らないけれどお役人が血相を変えて持っていった。お上がどうたらと言ってたけどそんな大袈裟な。今のお上は優しいらしいわよ。優しすぎておかしいんじゃないかという噂を毎度聞くから知っている。
そういうことがあった、と店を閉めた後こぼしたら清六が急に慌て始めた。鼬を探さないと、と言って店を飛び出そうとするのを止めて、鼬なんて探さなくてもその辺にいる、と教えてやった。でも清六が言っているのはその鼬ではないらしい。背の高い着流しの浪人。名前を捨てたあの男は、もう暗がりを飛び回る鼬でしかないのだという。鼬が斬ったに違いないという清六は、そんな危ない奴と知り合いだったのだろうか。だが清六は、鼬は悪い奴じゃないと繰り返すばかりだった。なぜなんて言えないが、悪い奴じゃない。鼬を探さないと。そんなことを繰り返してももう真っ暗で人なんて探せない。明日にしなさい。明日は明日で働くんだけど、清六はしぶしぶ納得した。
次の朝、多少なり清六のことは気になったけど店の方が大事で、清六も少し落ち着いたから文句を言わなかった。暖簾を出して店を開ける準備をしていると、来客。清六の友人だという見慣れない男が訪ねてきた。この人が待ち人だろうか、誰を待っているか結局わからないので本人に聞こうと思って店の奥に向かった。裏手に出て清六に呼びかける。清六、ご友人よ……そう言いかけて、誰かが横を走り抜けるのに驚いて黙ってしまった。さっきの男は勝手に後ろをついてきて、清六を見るが早いか駆け出して飛びかかった。清六の持っていた鉈が弾かれて宙を舞い、男が掴んで清六に向けた。邪魔をしてくれたな、と男が凄むけど、清六は何のことだかわからないらしい。とぼけるな、と男は迫った。
「こっちは商売だ。便利な臭水、安くたくさん売ってやろうというのだ」
男は鉈で清六に斬りかかって、ひらりとかわされた。矢継ぎ早に清六が右手の指を振り抜き、指が男の目の前でくるっと返って上に流れると男は簡単に引っかかって指を目で追った。そして何が起こったのか、パシッと音がして男が崩れ落ちた。股間を押さえて悶え苦しみ七転八倒、うめく声が言葉にならない。安心しな、潰しちゃいねえと清六が言っていたので上を見たときに下を蹴ったのだろう。噂で聞くばかりだがあんなに壮絶なのか、女に生まれて良かった。こういうときに言う感想じゃないけど、ともかく男を店の外にほっぽり出して塩をまく。まだ悶絶して白目の相手だからなめくじにでもかけている気分だった。
店を開けてすぐに佐山一家がやってきて、何も起きていないと驚いていた。男はどこだと聞かれたけどたぶん這いつくばってどこかに行った後で、私は知らない。金を払ったのにと不満そうに出ていって、どうやら佐山一家がけしかけてきたらしい。毎回来られちゃ敵わないから、佐山一家をやっつけよう!と清六に言ったら、やっつけても仕方がないと止められた。佐山一家なんて黒幕でもなんでもない、変に潰すと新しいのが来る。どうせ同じようなものだが、新しいのが来るときにどうしても綾が生まれる。あの程度の連中なら適当にあしらうのがいいと知ったような口を聞く。また轟徒衆とかいう連中の話だろうか。でも清六は轟徒衆も大して意味のない奴らだと思っているらしくて、佐山一家と違うところはほとんどない、と言っていた。
「気持ちはわかりますがね」
気持ちは、ともう一度繰り返して、清六は水汲みに出ていった。
昼前、たまたま客が誰もいないときに、ふらりと男が入ってきた。着流しの浪人。仕込みとわかっているあの杖を持って店を訪れた。清六はいません!と叫んですぐに追い出しにかかる。隣町まで使いに出して良かった、昼までに帰れと言っているから全速力で帰ってくるし早く出ていってもらおう。でも鼬とかいう浪人は、いないならいないでかまへん、と居座った。飯を出しながらできるだけ目を逸らしたけど、鼬は私に興味があるみたいだった。美人って罪。
「村井はんはどうされましたか」
村井はん、というと私のことではないだろう。父さんがどうかしたの?と聞いたら、他の町で噂を聞いたらしい。伊豆の達人に引けを取らぬ腕の男が、東海道の先にいる。江戸に行く前に、一目見たいと思い探していたそうだ。そんなの人違いよ、父さんは味噌汁一つ満足に作れない、と言い張ったけど、鼬は私の包丁を見て笑うだけだった。
「そうなんか?権兵衛」
……鼬は強い上方訛りで権兵衛に聞いた。そういえば権兵衛は上方の娘、喋れないから訛りがないだけ。答えられずに困っている権兵衛を見て、そういうことやな、と納得した鼬は、よろしく言うといてくれとだけ言い残して帰っていった。
鼬が来ていたと知った清六は、唇を噛んだ。もう少し早く帰ってきていれば、なんて滅多なことを言うもんじゃない。もう少し早く帰ってきていたら沼津どころか旗屋の台所に血の華が咲いてしまう。誰が片付けるのよ、食えもしないのに!鼬の話は他の町にいた達人と父さんがごちゃごちゃになっていて、雷獣殺しが舌をまく相手ならぜひ手合わせしたい、ともう無茶苦茶だった。それを聞いた清六は、やたら驚いていて。
「雷獣を、殺した?」
いったいどうやって、人の力の及ぶ相手ではないはずだと真に受けた清六は、続きを聞きたがった。追い払っただけなのに殺したみたいな話になっているらしいと教えても、同じことだと言い張って止まらない。その人と先代と、どんな関係が?と迫ってきたのでぶん殴った。知るわけないでしょ!私は父さんにわらじの作り方一つ教わっていない。伊豆にいたときなんて、小さすぎて覚えてない!……勢いで怒って黙らせた後、どこかの町におじさんがいたと思い出した。父さんの弟に当たる人で、腹が立つほど腕の立つ奴だとたまに言っていた。これを聞くと、そんなに仲が悪かったのだろうか、とみんな思うらしい。私は、父さんが嬉しそうに話していたのを見ていたからそうは思わない。
しばらく、清六には暇をやらなかった。少しでも放っておくと鼬という男と話を拗れさせるかもしれず、店が巻き込まれるのはごめんだった。水汲みも薪割りも掃除も、遠くへ行くようなことがない仕事だからいつも目に入る。目に入らずに死なれたら困る。食い物の店なのに。だから一町離れた廻船問屋へは自分で行かないといけないなあと思っていたら、権兵衛が気を回してくれた。今日は受け取るだけだし、行ってきてくれる?と頼んだのが間違いだった。だって誰も思わない。一町先のいつもの店に行くだけの間で、何かあるなんて。権兵衛はそこらの男なんて相手にならないくらい強いからやられるなんて誰も思わないじゃない。廻船問屋の丁稚が言うには、品物を受け取った権兵衛は後ろから襲われた。おいと呼びかけた男が砂を蹴り上げ、思わず目をつぶった権兵衛は相手を見失った。殴られる前は、見えていたようだけど何もできなかった。受け取った大根をひしと抱えたまま、権兵衛は殴り倒されて担がれていったという。それを聞いた清六の顔に、怒りが滲む。どっちに行ったと尋ねられた丁稚は震える手で山に続く道を指差し、私は放っておけず清六を追いかけた。
鼬という奴かと聞けば、わからないと清六が答えた。鼬ではない。……鼬ではないと思う。清六にとっても言い切れることではなく、もし鼬であったなら……清六の言葉が詰まり、足が止まったのは山の麓。そこには、昨日店に押し込んだあの男が、斬られて倒れていた。それを見下ろすように、着流しの浪人がいた。鼬は清六を見ると、久方ぶりやなと笑った。心配せんでええ。悪さはできんが死にはせんやろ。そう言って倒れた男を放って山に入っていった。この先には荒れ寺が一つあるだけ、どうやら権兵衛がいるらしく清六は何も聞かずについていった。私は鼬に、あいつは何なの?と聞いたけど鼬はまともに答えなかった。
「あいつは鼬や。俺もやけどな」
鼬と清六は、道々話していたが私には何のことかわからなかった。
「何しとるねんな。木下の名が泣くぞ」
「はは、気にすんな。爺様は変わり者だったんだとよ」
「俺にも縁のあることや。曾爺さんによっては、お上は違ったかもしれん」
木下か、お上か。まだ答えは出えへん。だが俺は、どうかしとると思うとる。荒れ寺に着くと鼬は、私を中に入らせた。権兵衛が縛り上げられて、呻いている。なんてひどいことを、と思ってがんばって縄を解くけど、固い。清六も鼬も、手伝ってよ!って振り向いたら二人はそれどころではないらしい。鼬は、そろそろ答えろと清六に迫った。お前はどれや。そう言って刀を抜くと、その切先は美しい円を描いてかちりと止まった。どこかで剣術を習ったという父さんの動きに、少しだけ似ている。清六は答えることができず、黙っていた。鼬が一歩、また一歩と近づいた。
「鼬には三匹おる。足を掬うもの、叩き斬るもの、怪我を治すもの。お前はどれや。どの鼬や」
じゃきりと刀を構え直し、鼬が止まった。剣を目の前に、清六を見つめる。鼬は、唸るように言った。
「俺にはようわかる。俺は……斬る鼬や」
清六の額に汗が滲み、手首を返して指を伸ばした。二本の指はそれ以上動かず、鼬の動きとほとんど同時に飛び出した。ひゅっと風を切った指先に、鼬の剣はわずかにブレて清六がその下を転がり抜けた。でも清六には余裕がなくて、鼬に合わせて動くことしかできないようだった。剣が相手じゃ怖いか?お前の方が長いやろ、と鼬からは余裕が消えない。また踏み込んだ鼬の剣が舞って、清六が避ける。でも今度は避けきれず、刃はかわしたけど鼬の剣が地面に刺さり急に体の向きを変え、右足で後ろ向きに蹴り付けられた。こいつは仕込みや、杖に使うのもええやろ。そう言って地面から剣を抜き、清六を見下ろす。もういっぺん聞いたる。これが最後や。……お前は……どの鼬や?それでも清六は答えることができない。鼬の剣がぴっと風を切って動いた。私は息を飲んでそれを見ていて、緩んだ縄から権兵衛が飛び出したのを止めることができなかった。
その後は店に戻って、清六の打ち身を水で冷やさせた。冷やしてやるわけではなく、水桶と手拭いを押し付けた。それを見守っているのは、権兵衛だけ。鼬は……背中を向けて土間の縁側に座っていた。鼬の剣が振り下ろされる直前に割り込んだ権兵衛は、何ができるわけでもなかった。どけ、斬るぞ。そう言われても権兵衛はどかず、鼬は……それ以上何もしなかった。叩き斬る鼬は、ついに権兵衛に剣を振ることはなく、ふらつく清六を手伝うわけでもなく店についてきた。清六がどうともないのを見ると、しょうもな、とつまらなさそうに腰を上げた。鼬には三匹おる。足を掬うもの、叩き斬るもの、怪我を治すもの。もうそろたわ、と鼬は店を出た。これから東海道を辿って、江戸に行くらしい。最近のお上はどうかしていると不満げで、犬やらいつも仲良くしとると剣呑な様子。清六にはもう興味がないみたいで、振り向きもしなかった。行くわ。もう会うこともないやろ。立ち去る鼬に、清六が呼びかけた。鼬!沈み始めた夕日を背に、鼬は少しだけ立ち止まった。
「俺は、また会うつもりだ」
……ほなな。鼬は後ろ手に手を振って、東海道の向こうに消えていった。あいつ、結局どの鼬なのかしらね。そう聞くと清六は、ただの鼬だと答えただけだった。
残念ながらここまでだ。ここから先は書き手がアレなので展開がおかしかったり妖怪の扱いを間違えていたり(饕餮とか)、最後の方には「違う世界の」大魔王なんてものが出てくる始末。いったい何を書いているんだか。