第二幕:有明の磯巾着
第二章:有明の磯巾着
店に清六というわらじ屋が居着いて十日ほど経った。あんたの待ち人はいつ来るのかと聞くと見当がつかないという。早ければすぐ来るし遅ければ遅れる。わかっとる!と怒ったけど本当にそれしかわからないらしく、年をまたぐかもしれないという。騙された!人の弱みに漬け込んで居候を続けるその所業不届千万、店の雑用全部の刑!清六からすればそもそも宿がないからここにいるわけで私のご機嫌取りには必死だ。男手があると仕事自体は楽になった。そんなことを常連に言うと「大変だったんだ、平気なのかと思った」と驚いていた。普通は男がやることをなんのかんのやっているので体が強いというのはいいものだなあとみんな思っていたらしい。私みたいな上品な娘ははんなり仕事をしたいのよ。こらー清六!ちゃきちゃき動け!常連さんは私がいつも通りで安心したらしい。常連客からすればぶっちゃけ今の方がいい。清六と一緒に店に居着いた娘は器量良しで気立てが良くて笑顔が絶えない。だから声が出ないというのに同じ机を囲むだけで男衆が大喜び、ニコニコ笑って一緒に飯を食うとちゃんと美味い!と言っていたので突き刺してやろうかと思った。沼津の町に血の華が咲く前に常連客は話を変えた。青ざめているように見えたから何かあったのかもしれない。
今度この町の近くに興行が来る。お上おすすめの角力、でっかい男が半裸でぶつかりあうと評判だ。若い娘が頬を赤くするような話かと思えば、男衆がやいのやいのと楽しむものらしい。なんで男って裸が好きかなあ、女の裸というならまだ理解するのに。客の一人が番付表を持っていて、こいつがすごいと話に花が咲いている。その話に入ったのが、清六だ。
「荒浪だって?大関の?」
清六も他の男の例に漏れずでっかい男の裸が好きらしい。器量良しの娘と旅をしているからそっちはもう足りているのだろうか。もっとも清六が娘に手を出している様子がなく、微妙に幼いので数に入れていないような感じがある。娘側は声が出ないのでわからないが、何かと横にべったづきのときが多いのでまあそういうことだろう。私にはわからない話だ。父さん、13のとき田吾作の相手をした方が良かったのかな。そのときもぶん殴ったのでそれ以来言い寄ってくる男がいなくなった。裏で何言われたんだろう。
清六曰く、荒浪という相撲取りは先代の荒昇龍が育てた者で、さらに師匠の荒潮に見せても恥ずかしくないという肝入りだそうだ。荒れ狂う海のような力強い取り組みは一度は見ないと始まらないってもっぱらの噂だ、と機嫌良く語る清六は水桶片手に話に入り、終わってないのを忘れている。働かんかー!常連になだめられて、かなめさんもどうですか?と誘われたけど、私は別に興味がない。でも清六は気になるようで常連に誘われると行きたがっていた。ちゃんと働けば一日くらい行ってもいいわよと言うと働き方が変わって早いのなんの。やっぱり嫌々やってたんだ。
興行の日、清六はきっちり角力を見に行った。最近忙しいからいないと苦しい。店に私以外の綺麗な娘がいるから客が結構増えて、女と食う飯は美味いのか知らないが綺麗に平らげられている。まるで商売繁盛の福の神、笹持ってこい!でもその福の神も清六がいないからふてくされている。あんなの気にしなくていいのに、と思ってもそういうこと言うと怒る子もいる。隣町のお綾を怒らせたのは今はいい思い出だ。お綾に言うと大人気なくまだ怒っているからあまり口には出さない。
娘が客のところから戻ってきてどうするのかと思えば、水桶を持ってきて何か言いたいらしい。清六の代わりに働く、といったところだが女の細腕でするようなことではない。でも娘は気にしていたからちょっとだけでいいからねと言って水汲みを任せた。本人の気がすめばいいのだから止めることもないだろう、明日清六にやらせればいいや。そう思っていたら、表から大声が聞こえた。なんだろうと思ったら、大男。あれが噂の相撲取りというやつだろうかと思ったら絶対違う。相撲取りは侍の一種だから絶対に髷がいるのに、頭が禿げ上がったでかいばかりの男だった。たくましいのはいいとして、常連と喧嘩しているようだから敵わない。こんなのに食ってかかられたら喧嘩どころかゆすりたかりだ。早く帰ってほしいので止めに入ったら、私にも怒ってきた。
「権兵衛はどこだ!」
権兵衛?と聞き返すと、ここに大飯食らいがいるはずだと怒鳴り返された。ああ、清六が言ってたっけ。権兵衛というヤツをこの町で探している。すっかり忘れてたけど未だに姿を見せず、言われてようやく思い出した。権兵衛なんて知らないけど、あんたもいい迷惑よ。そう言って追い出そうとしたら向こうに見知った顔のヤツが現れた。佐山一家の親分。町の小悪党を束ねる老獪は、格上と言っても中の下の範囲を出ない。佐山一家の親分は、私を見て嫌らしく笑った。
「早く出ていかないと、いつかはやられますよ」
大店の主人みたいな顔をして、この大入道を連れてきたのは佐山一家らしい。昔から大人しいことはなかったが、今の佐山一家は荒れ放題だ。それより、「いつかは」って何?まるでこれからも続けるみたいだし、今までも……まさか!と思わず声が出た。佐山一家の親分はにたりと笑った。この前の幽霊みたいな男をけしかけたのは佐山一家、今回はこの大男を連れてきた。火車坊という山賊は金に目が眩み雇われて、ついでに仕返ししてやると息巻いている。こんな店はその気になればぶっ壊せる!なんてうそぶくから、何言ってんのよと頭をピシャリと叩いてやった。すごくいい音が鳴って気に食わなかったようで、火車坊は真っ赤になって怒った。どしん、と柱を一発叩き、店がグラグラと揺れる。ようやく私は、本当に店くらい壊せるのだと思い知った。火車坊にとっては金は二の次、一は仕返しらしく権兵衛はどこだと何度も叫んでいたが、私はそいつを知らないし佐山一家の親分にとってはどうでもいいので叫ぶばかりでほっとかれていた。それでも火車坊をなだめないと店が壊されるから、落ち着きなさい!と火に油を注いでいると、バシャンと水音がした。火車坊の頭に、誰かが水をぶちまけた。火車坊の後ろにいたのは、水汲みに行った娘だった。てめえ!と食ってかかった火車坊だけど、胸のあたりをちょいと押し上げられてずっこけ、肘を取られると転がり店の柱に頭をぶつけた。コブを作ってふらつく火車坊は、今日のところは許してやる!と下手な冗談みたいなことを言って帰った。佐山一家の親分は、ちっと舌打ちをして一緒に帰ろうとした。でも、店の前で誰かに止められたようで。
「金回りがいいようで。何かあったかい?」
上手い話には裏があるものだ、と清六が親分と睨み合っていた。でも親分は清六を相手にせず、帰っていった。どうやらまずいと言っている清六は何か知ってるようだけどそれ以上語らず、油断しすぎた、と謝ってきた。権兵衛は無事か?って聞かれたけど、権兵衛なんて知らないって言ってるでしょ。そしたら清六は私の肩越しに店の中を見て、平気そうだなと言っていた。店の中には、火車坊をやっつけた娘。なんで娘が無事だったら権兵衛のことがわかるのだろう、と考えてようやく気がついた。この娘の名前って、もしかして!
「名前は俺も知らないんだ。だから権兵衛。名無しの権兵衛」
なんとなく店にいてなんとなく伝わっていると思っていたから言うのが遅れた、と言って清六は権兵衛が客に混じって飯を食うのを見ていた。最近食い物を残す客がいないと思ったらあの権兵衛という娘が平らげていたらしく、中でぐるぐる回っていて誰も残さないわけではなかったらしい。清六が上方から連れてきたという権兵衛は吉原のあたりで一度別れ、沼津で落ち合った。その道中何かに巻き込まれたのだろうが山賊程度にやられるような教え方はしていない、というのが清六の談だ。どうやったら若い娘が大男をねじ伏せるようにできるのかは知らないが、それより私の店には大問題がある。佐山一家の親分は、また適当なのを連れてくるらしい。ああ、本格的に文句を言って奉行所にやっつけてもらおう!と怒っていたら、それではすまないだろうと清六が言っていた。清六の考える黒幕は、奉行所でなんとかできる連中ではない。親分の歩く姿が、おかしかったという。おそらくは、左腕に止め具をつけているのではないかと言っていた。左腕に止め具?そんなことしてどうするのよ、普通に立って歩いて、腕も不自由な様子はなかった。でも清六は、それが連中の手口だと言っていた。くだらない手妻を妖術だと言い張る、やること以上にくだらない連中。轟徒衆。東海道の西の果てよりずっとずっと西から来た、おかしな奴らだという。おかしいだけで大したことはなく、文字を書くなら線が多い方がいい。だから轟徒衆などと名乗り、無理のある言い分を力づくで通そうとする。これと比べるなら火車坊なんてかわいいもので、佐山の親分もかわいそうに思えてくる。あの様子で金周りがいいとくれば、まず間違いないそうだ。どんなヤツらなの?と聞いたら、見たことはなく知っているのは今のが全部、顔も見せず名乗らないから厄介なのだという。一度頭を押さえてしまえば出てくる必要自体がなく、ずっと隠れるから追い詰めようがない。さらには……何回見たって見分けがつかない。たぶん何度か会っているが、こういうヤツだと言い切れない。何よそれ、どこの妖怪よ!と軽口を言うと、そんないいものではないという。妖怪などというものではない、例えて言うなら……そこまで言って急に口をつぐみ、言葉を選んでいた。そしたら権兵衛が小皿を持って清六のところに来て、蛸の煮物を差し出した。美味いものを食べると、分けてくれるのだという。ありがとう、と清六が蛸を食うと権兵衛は嬉しそうだった。そんなに嬉しいならあれもこれも持ってきていいのよ。それ以上突っ込むのは野暮というものでそれ以上考えず、佐山一家のことも後回しにした。
それからしばらくして、町で不埒な行いをする者が現れた。悪巧みをするということもなく正面から店や長屋を荒らして壊す、もはや清々しいくらい不埒な奴らだ。なんでもやたら大きく強くいかつい男の集まりで、それを束ねるのはどうやらあの火車坊という山賊。恨むなら旗屋を恨みな!と言って回ってもウチは関係ないくらいみんなわかる、と思ったら本当に皺寄せが来て旗屋が余計なことをしたと思われ始めた。なんとなく知ってる人から口づてに聞いたぼんやりした話がどんどん固まって「らしいぞ」という括りすら消えかけている。ぎゃー!客商売でこれはさすがに上がったり、沼津の町で商売できない。箱根あたりに行きますか?と清六に聞かれて本気で怒った。……清六が驚いているのは、私が手を上げなかったかららしい。困りすぎて手を出すのを忘れていた。だってここは父さんの店、箱根に店を出したらそれは違う店。父さんは死ぬ前に言っていた。大事なことがあるなら、店は手放すようにって。父さんの店より大事なことは、まだ私にはない。どうしよう、と思っていたら清六がどこかに行ってしまった。役に立たないなあ。でも今何もできないのは私も同じ。人を責めたらもっと悲しくなるから、権兵衛に聞いてもらっていた。声が出ない権兵衛は何も答えてくれないけど、いてくれるだけでよかった。そしたら、外からどしんと音がした。何かと思えば、火車坊。仲間の男が十人か十五人か……似たような奴らばっかり。くだらないのにいばっていて、疲れるばかりだ。
どうだ、見たか!なんて喜ぶ火車坊に返す言葉もない。大男たちはゲラゲラ笑って、権兵衛を出せと言ってきた。なあに少し尻を貸してもらうだけだ、と下品で仕方がないことを言う。そんな男たちの前に、出なくていいのに権兵衛が出てきた。怒っているようだけど、さすがに相手がこんなにいたら勝てるものも勝てない。父さんの店より大事なものなんてないけど、権兵衛の尻をこいつらに任せたら父さんに顔向けできない。わかった、出ていくわよ。親分に言っておいて……そう言いかけたとき、おい、と低い声が聞こえた。火車坊の隣に、火車坊より少し小さいくらいの髷を結った男。なんだてめえ!と火車坊がつかみかかると、男がその腕を取って火車坊の体を振った。ぐるっと綺麗に回った火車坊は派手に倒れて、怒りながら起き上がった。何度も掴みかかったけど弾き返されては投げ飛ばされて歯が立たない。周りの仲間たちは、動かない。同じような髷の男たちが目を光らせて、動けないようだ。もうよしたらどうだ?と出てきたのは清六。清六が男たちを呼んだらしく、髷の男に目配せしていた。清六にも飛びかかった火車坊だけど、足を掛けられてすってんころりん。これはかなめさんの分だ、と言われて畜生ー!と帰っていった。お上に楯突けるような玉ではない、おそらくこれっきりだろうという清六に、髷の男が続いた。
「何かあれば言ってくれ。ごっつぁんです」
噂に聞く荒浪という大関はそれはもう強く、火車坊が隣にいなければすごく大きいとわかった。沼津の次に小田原に向かう前に町を見て回っていた相撲取りたちは、興行のときに知り合った清六に頼まれて足を運んだそうだ。自分たちが強いとか多いとか思うからああなる、これだけいるのを見れば怖くて寄ってこないだろう。ウチの店のためにわざわざ?と聞いたら、清六の頼みならと快くきてくれたそうだ。清六にはいいものをもらった、と喜んでいる。相撲取りは足腰が命、土俵を掴めなければ仕事にならない。こんないいものはなかなか手に入らないと大きなわらじを気に入っているらしい。相撲取りたちが昼飯を食い始めてこの店で初めてくらいの書き入れがあった。表のうどん屋には倍くらい実入があったそうだ。店が小さいから入りきらないのは仕方ないんだからね。
相撲取りってこんなに強いのね、と驚いていると、当たり前だと清六が言っていた。相撲取りがあんなのに負けるものか、と関係ないのに胸を張る清六だったけど、荒浪が申し訳なさそうに口を出した。そう言いたいのはやまやまだ。だが、そうでもない。少し前に、相撲取りたちはおかしな奴らとやりあった。この辺りでは見かけない、河童だったという。
負けるわけにはいかなかった。だが多くの相撲取りが、その剛力に不覚を取った。荒浪も、組み合ったときにまずいと思ったそうだ。やられはしなかったが、押し返して胸を撫で下ろしたのも事実だという。こんなことは言いたくないが、今はそんなに自信を持てないという。清六は荒浪に酒を注ぎ、気にするなと言っていた。美味い飯を山ほど食って、いい声で笑っていてくれ。清六は最後に、妙なことを言った。
「そいつの相手はオレの仕事だ」
荒浪は気がつかなかったようだけど、清六はその相手を知っているようだ。相撲取りたちが帰った後、そいつらは何なのか清六に聞いてみた。その河童は、気にするほどのものではないらしい。例えて言うなら、どこかの海に浮かぶ磯巾着のような、そんなもの。それ以上は答えず、権兵衛を連れて奥の部屋に消えた。清六って権兵衛の尻をなんだと思っているのだろう。同じ部屋にいても座布団を丸めて寝ているようだから、尻は尻だとしか思っていないのかもしれない。