8 輝かしい虚勢
漠然とした死か、それとも視線の先に居るフォレストウルフへのものかもわからない、冷たく鋭い氷のイバラを思わせる恐怖に背中をなでられ、体と心が一瞬でからめとられて硬直する。
なぜ。
なぜ……。
なぜ…………。
なぜ………………。
理不尽な現実から逃避するかのように、そればかりが頭の中で反響して脳を埋めつくす。
迅速に考えなければいけないのに、思考が恐怖で動かない。
思考を止めて、フォレストウルフのもたらす未来を考えなければ、現実も停止したままなんて幻想にすがりついているのかもしれない。
逃げるか、戦うか、どちらを選択するにしても、行動しなければいけないのに体は硬直したまま。
私はタケノコを手に入れることに集中しすぎて、周囲への注意が欠如していた。
他の3人も、魔境を数時間も探索したことで、疲労が蓄積していたんだと思う。
それに、私たち4人は、初めての子供だけの魔境探索だ。
気持ちが浮ついたり、恐怖で緊張していたり、いつも通りの冷静さを維持できる状況じゃない。
なによりも、魔境で危険な魔物に出会うわけがないと、心のどこかでなめていた。
運悪く出会うとしても、単独か、少数のゴブリン。
ゴブリンが相手ならリスクはあるけど、戦えない相手じゃない。
けど、これはダメだ。
前世のセントバーナードとかの大型犬よりもさらに1回り大きいモスグリーンに近い色の毛並みをした、オオカミと呼ぶにはあまりにも物騒な魔物フォレストウルフ。
定期的にゴブリンの間引きに参加しているレベル、スキル、体格の全てで私を上回る父でも、フォレストウルフとは自衛以外で、リスクが高いから積極的に戦わないと言っていた。
そんなフォレストウルフが視線の先にいる。
向こうが、こちらに気づかないで去っていく可能性にすがりたいけど、無理だ。
奴は、こちらへしっかりと視線を向けている。
前世のクマとかならば、それでも相手が去る可能性もあったけど、相手はフォレストウルフという名の魔物。
魔物という呼び名は伊達じゃない。
魔物たちは、前世の動物のように、空腹でもなければ慎重に行動することなんてことはない。
魔物が他の生き物を認識したらとりあえず攻撃してくる。
空腹じゃなくて、満腹でも関係ない。
前世の動物に比べて魔物は攻撃性が異常に高い。
そして、魔物のフォレストウルフも、当然のことだけど高い攻撃性を有している。
だから、こちらを認識している奴は、確実にこちらを攻撃してくるだろう。
…………出会ってしまう相手がフォレストウルフなら、どれだけ警戒していたとしても死へと収束してしまう結果はかわらない。
恐怖に蹂躙されていた心と体に別のものが広がる。
灰色のねっとりとした諦めの呼び声。
不快で、屈辱的なのに、緊張を緩めて脱力へと誘うように、どこかで諦めることに安息を感じる自分が情けない。
「あいつの後ろ足を見てみろ」
フォレストウルフを刺激しないように配慮したと思われるアプロアの小さな声。
バグったパソコンみたいに、いくつものフォレストウルフに殺される自分の未来を想像するだけだった思考が、耳から届いた小さいけど強いアプロアの声で、少しだけ平静を取り戻して切り換わる。
「えっ? 引きずっている」
よくフォレストウルフを観察してみたら、左の後ろ足に血が付着していて引きずるように歩いていた。
その姿は絶対に死をもたらす恐ろしい捕食者というよりも、手負いの敗残兵や落ち武者のような雰囲気すら感じられる。
「理由は知らないが、相手は手負いだ」
アプロアの言葉に、それでも危険だと無言のまま心のなかで思ってしまう。
魔境の深い場所から浅い領域へと、なにかに追いやられて、群れじゃなくて単独で行動する手負いのフォレストウルフ。
弱そうにも思えるけど、前の世界で後ろ足を負傷しているヒグマに銃器なしで、それも子供が四人で勝てると夢想する奴はいない。
それと同じだ。
確かに、あのフォレストウルフは手負いだけど、それでも私たちよりも弱いとは言えない。
「だから、オレがあいつに切り込んで時間を稼ぐ。その間に、シャード、エピティス、ファイス、お前たち3人は全力で村の方へ逃げろ」
アプロアの言葉の意味がわからない。
恐怖が停止して、心へ広がっていた灰色の侵食が停止する。
「……なにを言っているんです」
「このなかでオレが1番強い。だから、1番時間を稼げるオレが囮になる」
アプロアが言った。
笑顔で言った。
震えながら、内からあふれる恐怖の感情に飲まれそうなのは見てわかる。
それでも、笑顔を引きつらせながら少女が囮になると言った。
戦術的に正しい判断なのかもしれない。
フォレストウルフが強いとは言っても、足を負傷しているのなら、移動速度は平常時に比べて下がっているだろう。
アプロアが囮になって、時間を稼いでいる間に、私たち3人が全力で走れば安全圏まで逃げ切れるかもしれない。
1人の命を犠牲に、3人の命を助ける。
間違っていることじゃない。
とても合理的だ。
でも、そんな選択をするつもりはない。
「…………なにを言ってるんだ、アプロア」
死への恐怖や不安は強引に心の奥に沈めて、意識的に不敵な笑みを浮かべながら言った。
震えながらも立ち向かおうとするアプロアの姿は、死の危機に直面しているのに、まるで太陽のように輝いているのかようで見入ってしまった。
死んだら、なんて怯えていた自分が恥ずかしい。
前世で生きた時間も合わせたら、はるかに年下の少女が恐怖に耐えながらも、格上のフォレストウルフに立ち向かおうとしている。
こんな姿を見せられたら、死への恐怖や勝てるかどうかなんてことからは、さっさと視線を外してアプロアの横に毅然と立てる姿を幻視する。
「なにって」
囮になる覚悟を邪魔されたからか、アプロアがイラついたように言った。
でも、それ以上はアプロアに言わせない。
「目の前に、探していた目的のものがあるのに、ここから去る理由がどこにある?」
私の言葉に、アプロアが戸惑ったように応じる。
「お前、なにを言ってるんだ」
「4人で、あいつを仕留めて持って帰れば、私たちをフォールたちも認めるだろう」
フォレストウルフの強さや死への恐怖は無視して、愛用の斧を構えながら笑顔でフォレストウルフを指さす。
4人で生きてフォレストウルフの死体を持って帰れたら、フォールたちも凄くないと文句を言ったりしないだろう。
「そうだな」
シャードが弓を構えながら静かな口調で同意してくれて、エピティスも木刀を構えながら無言で力強くうなずいて同意してくれる。
「お前たち…………あいつはフォレストウルフなんだぞ」
なぜだか、アプロアは泣きそうな顔をしている。
「ただの手負いの獲物さ、だろ」
私が虚勢じみた強がりを言えば、シャードが同調してくれる。
「ああ、狩りなら慣れている」
シャードの言葉にウソはない。
シャードの父親も農奴だけど、私の父が農作業とは別に魔樫の伐採をやっているように、魔境じゃなくて普通の森で動物を相手に狩猟を仕事としている。
そして、シャードはそれに随行して、それなりに普通の動物相手に経験をつんでいるはずだ。
「アプロア」
「なんだ」
「前衛は私がつとめる。アプロアは全体の指揮を頼む」
「は? なにを言って……」
アプロアの言葉を、3本の指を見せてさえぎる。
「私の斧スキルは3だ。当たればフォレストウルフでも一撃だ」
アプロアはため息をしながら応じる。
「……わかった。でもな」
「うん?」
「死ぬなよ」
「大丈夫」
「なんでだよ」
「だって、信頼する仲間と連携するんだから、勝てるに決まってる、だろ」
私の虚勢と見栄で急造した強がりの言葉を、アプロアは笑顔で認めてくれた。
「当然だ、バカ」