3-18 醜悪なリス
魔境の森を20人近い集団が、前世のウマよりも速く疾走している。
いや、逃走だな。
推定世界樹ユグドラシルの根元に発生した紫色の沸騰した泉フヴェルゲルミルから姿を現した、黒い大蛇ニーズヘッグを視認したから。
そう視認。
交戦はしていない。
なのに、全員が全力で逃走している。
ニーズヘッグはそれくらい危険だ。
場合によっては、ニーズヘッグが邪神の使徒より強い可能性もある。
ただ、そうであったとしても、私たちが魔境から無事に離脱できれば、それほど問題はない。
仮に、ニーズヘッグが邪神の使徒よりも強くても、魔境で発生した魔物である以上、その特性が適用される…………はずだ。
つまり、魔境の魔物を放置して、魔境の魔力濃度が一定以上にならない限り、魔物は魔境の外には出ないから、ニーズヘッグも魔境の外に出てこないはず…………だと思いたい。
けど、あのニーズヘッグがイレギュラーで、自由に魔境の外に出れる魔物だったら、私たちは王国が滅ぶかもしれない災厄を生み出したことになる。
まあ、現状だとそのことを悩むだけ無駄だ。
そういうことは、魔境を無事に脱出できてからだろう。
後方から、ニーズヘッグに追跡されたり、攻撃される気配はないから、ユグドラシルの根元から動かない魔物なのかもしれない。
しかし、あの紫色の沸騰した泉フヴェルゲルミルの名前があまりにも言いにくいから、逆にこの短時間で覚えてしまった。
ハイラムが「フヴェルゲルミルから速く距離を取るぞ」と何回も叫んでいたからかもしれない。
まあ、それはともかく、私の近くで走るヨウレプとハルルフェントが青い顔をしている。
どうもニーズヘッグの強さを感じ取って、恐怖している感じじゃない。
「どうしました?」
「「危険です」」
ヨウレプとハルルフェントがハモって答えた。
私は自然と渋い顔をする。
獣人とエルフで種族の違う二人が同じ警告。
二人の共通点は霊脈を感じられること。
その二人が危険と警告を発している意味とは?
「具体的には?」
「わかりません。ただ、魔境に流れる霊脈を通して、魔境そのものが変質しています」
ヨウレプの言葉に、首を傾げながら応じた。
「魔境が変質って、なんか凄そうだけど、どう警戒していいのかわからないんだけど?」
「すみません。ただ、ここはすでに以前とは別の魔境だと考えた方がいいです」
「まあ、周囲に漂う魔力の変質は感じてますけどね」
魔力が濃くなっているわけじゃない。
そういうわかりやすい変化じゃないくて、水素と重水素の違いくらい分かりにくくて劇的なほど魔力が異質で不気味なものに変質している。
「もしかしたら、勘違いしてたのかも」
ハルルフェントの言葉に、嫌な予感を覚えながら応じた。
「勘違い?」
「聖域に世界樹ユグドラシルが存在していると思ってたけど、世界樹ユグドラシル自体が周囲を変質させて聖域にしているのかも」
ハルルフェントの言葉を否定しそうになるけど、否定する要因がないことに愕然としながら応じる。
「それは……ありえますね。しかし、なにが起こるのか」
「前方から、オーガの……いや、クマの頭の群れ?」
集団の少し先を走っていた目の良い獣人が警告を発する。
しかし、意味がわからないクマの頭とは?
「なんだ、なにが見えた?」
ハイラムの言葉に、先頭を走っていた獣人男が即座に答える。
「頭がクマの半裸の男が10人武器を手に向かってきます!」
頭がクマの半裸の男という意味不明な単語。
けど、私はすぐにそいつらを目撃することになった。
下あごのないクマの頭がついた毛皮のマントを被った身長2メートルくらいの革パンだけ身に着けた男たちが10人。
奇妙で変な集団だけど、私に戸惑いも迷いもない。
連中は人じゃない。
多くの魔物と対峙してきたから気配でわかる。
種類、あるいは種族もわからないけど人型の魔物だ。
相手が魔物ならやることは一つ。
殺すだけだ。
接敵する前に、無数の魔法と矢がクマ頭に飛ぶけど、5体に命中して倒れたのは2体。
他の5体は避けて無傷。
私の中心に鎮座する恐怖の悲鳴に従い警戒のレベルを一気に上げる。
このクマ頭は、オーガやハイオーガよりも強い。
両刃の戦斧を手にした一体のクマ頭に向かって、私は迷宮のラブリュスを振るう。
私は間合いの詰め方や、迷宮のラブリュスを振るうタイミングで、3つフェイントを入れた。
それなのに、クマ頭はフェイントに騙されずに自分の戦斧で、迷宮のラブリュスを防ごうとしている。
クマ頭は迷宮のラブリュスの勢いを殺せずに姿勢を崩して、私の次の攻撃で肉体を両断された。
クマ頭の魔物は2合で殺せる相手。
けど、これはクマ頭が弱いことを意味しない。
実力的には、前に戦場で倒した熊族の獣人ウルドムよりも、少し弱い程度。
トレントを倒す前の私でも勝てたけど、苦戦したかもしれない。
それに、クマ頭の武器が気になる。
コバルトブルーのような深い青一色の戦斧。
迷宮のラブリュスの一撃を受けて刃が欠けてもいない。
かなりいい武器だ。
気になるけど、戦闘中だから脅威の排除が優先される。
結局、私は最初に倒したのを含めて2体のクマ頭を倒した。
横を見ればハイラムが4体のクマ頭を倒している。
やっぱり、ハイラムは強いと、色々と考えてしまう。
「ファイス、見ろ」
倒したクマ頭の死体を調べていたハイラムに声をかけられた。
「なにか、わかりましたか? ひょっとして、このクマ頭はエンドレスインフィニットクロニクルに登場するんですか?」
「いや、エンドレスインフィニットクロニクルに、こんな魔物は存在しなかった。ただ……」
「ただ?」
「北欧神話のベルセルクに、こいつは類似している気がする」
「ベルセルクって、英語でいうとバーサーカーと呼ばれる狂戦士でしょ? クマって関係あります?」
「あるとする説もある。クマの毛皮をまとったとかの意味だったかな? もっとも、こいつらは、クマの毛皮を被っているわけではないらしい」
ハイラムの言葉に驚き、クマ頭の死体を自分で調べる。
下あごのないクマの頭がついた毛皮に見えたけど、死体から脱がそうと思っても脱がせない。
本当に、こいつらはこういう頭部の魔物なのだ。
「ふむ、よし、こいつらの正式名称はベルセルクだ」
「勝手に決めていいんですか?」
素朴な疑問を口にした。
「勝手? なにを言っている。一国の王子の承認と、博識な学者たちも認めてくれている」
兜でハイラムの表情は見えないけど、態度は堂々としたものだ。
ただ、一国の王子はハイラムのことで、学者たちもこの場にいるヨウレプたちのことだから、ほとんど八百長といえる。
まあ、指摘するような野暮なことはしないけど。
全部のベルセルクの死体と武器を収納袋に入れて、皆が走り出して、私も続こうとした瞬間、背後から悪寒を感じてほぼ直感だけで迷宮のラブリュスを振るった。
独特の手ごたえ。
覚えがある。
魔法ないし魔力由来のなにかを切った手ごたえだ。
振り返れば、醜悪なのがいた。
不思議だ。
造形だけなら、可愛らしいはずなのに、感覚が告げている。
おぞましくて醜悪だと。
一言で表現するなら、そいつはリスだ。
中型のイヌ並みに大きいリス。
けど、そいつは、歪で醜悪な笑みを浮かべたような顔のリス。
可愛らしさの欠片もない。
無数の魔法と矢が、リスに向かって飛翔するけど当たらない。
木々の間を高速で移動して、小賢しく回避する。
しかも、口から魔力の弾丸を撃ってくるから、ムカつく。
魔力の弾丸の威力としては、ヘルハウンドの毛皮で受ければ、致命傷は避けられるかもしれないレベルだ。
つまり、普通に被弾すれば死ぬだろう。
ただ、迷宮のラブリュスで迎撃すればリスの魔力の弾丸は霧散させられるから、バロメッツよりはましかもしれない。
「警戒しろ!」
異様に緊張しているハイラムを、不審に思いながら応じた。
「殿下?」
「北欧神話関連のリスといえばラタトスクだ」
「ラタトスク? 北欧神話だとどんなことを?」
ラタトスクという名前だけなら私も聞き覚えがなくもないけど、詳細は知らない。
「簡単に言えばメッセンジャーだ」
「それは、あんまり凶悪そうじゃないですね」
リスのメッセンジャー。
字面だけならメルヘンな雰囲気もある。
でも、ハイラムの緊張具合を考えると、それだけじゃないと想像がつく。
「そうでもない。ラタトスクはユグドラシルの根元にいるニーズヘッグと頂にいる大鷲フレースヴェルグの間を行き来して、両者をわざと煽るようなことを言うらしい」
「偏向報道の酷いマスゴミですか」
「似たようなものだ。最悪、ニーズヘッグやまだ見ぬフレースヴェルグをラタトスクが援軍として呼び寄せるかもしれない」
ハイラムの言葉に、ニーズヘッグとの交戦の可能性を考えてうんざりした気持ちで応じる。
「しかし、短期間での排除は難しそうですが?」
ラタトスクは弱くないけど、強くもない。
まともに戦えば、私がラタトスクに負けることはないと断言できる。
けど、ラタトスクの木々を使った高速移動が厄介だ。
遠距離攻撃で倒すのは難しい。
なら、
「接近戦で倒します」
黒い大斧の迷宮のラブリュスを収納袋に入れてから、装備を錬金鋼の鉈の二刀流に切り換えて、一気にラタトスクとの間合いを詰める。
援護で飛んでくる矢と魔法がラタトスクの回避をできるルートを減らし、あと一歩でラタトスクを殺せると思ったら、ラタトスクが膨大な魔力を消費して前に直径3メートルの金色の魔法陣を出現させた。
そして、その魔法陣から、身長2メートルの武装した美女が召喚された……ようだ。
羽飾りの付いた兜を被り、白銀の鎧に身を包んだ銀髪碧眼の美女。
顔立ちとかの造形は美しいのに無機質で作り物のような印象。
左右の手にそれぞれ剣が握られた二刀流のスタイル。
剣はベルセルクたちの武器と同じように青色。
「このヴァルキリーっぽい魔物は、殿下と共通点が多いようですが?」
私の軽口に、後方にいるハイラムがため息交じりに応じる。
「ただの偶然だ」
私が軽口を言うのも仕方がない、言っていないと不安になるから。
目の前の仮称ヴァルキリーは私よりも強い。
けど、ハイラムなら問題なく勝てる。
ハイラムが間合いを詰めるまで、私がこのヴァルキリーの攻撃をしのげば、私たちの勝利。
そう思った瞬間、ラタトスクが再び膨大な魔力を消費して、私たちを取り囲むように20近い金色の魔法陣を出現させる。
さらにヴァルキリーが召喚されるかもと警戒したけど、出現したのはクマ頭のベルセルクが20体。
いくつかのパターンを想定して、被害を最小化、さらなる変数に対応するために、バッファを確保。
「殿下、ベルセルクの処理をお願いします。ヴァルキリーは私が押さえます」
ハイラムならヴァルキリーに勝てるけど、倒すのにはそれなりに時間がかかる。
その間に、ベルセルクによってこちらの人員に犠牲が出る可能性があるから、私がヴァルキリーの相手をすると進言した。
ヴァルキリーは強いけど、ハイラムが20体のベルセルクを処理する時間くらい生き残って見せる。
「ファイス、死ぬなよ!」
後方で、ハイラムがベルセルクたちに向かう気配を感じる。
ヴァルキリーの斬撃は、初撃が閃光で、そこからの連撃は機関銃の弾幕のようだ。
一撃の重さと速さはトレントの枝の方が上だろう。
けど、ヴァルキリーはトレントよりも攻撃が上手い。
攻撃にフェイントを入れてくるし、こちらの姿勢を崩そうとしたりと、単調じゃない緩急を織り交ぜた面倒な攻撃をしてくるから、私にとって脅威度はヴァルキリーの方が上だと言える。
わずか十秒の攻防で、一気に神経をすり減らされた。
こっちは目の前のヴァルキリーだけじゃなくて、後ろから私に魔力の弾丸を放とうとしているラタトスクを警戒しないといけないからつらい。
それでも、これなら、なんとかなるかと思ったら、ヴァルキリーが光の魔力を周囲に放出した。
一応、即座に状態異常攻撃を警戒して自身の魔力を高めて循環させるけど、ヴァルキリーの攻撃は状態異常じゃないようだ。
最初は意味不明だったけど、すぐに効果が判明する。
周囲にいるベルセルクの強化だ。
通常なら、身体能力の強化は一長一短で、それほど怖くない。
少なくとも、前世のゲームでのバフほど脅威じゃないのは確かだ。
急激に、力や速度が上昇しても、強化された本人が即座に適応して使いこなせないから、動きが直線的で単調になりやすい。
そのはずなんだけど、ヴァルキリーにベルセルクたちは強化されても、問題なく適応している。
つまり、ベルセルクの脅威度が単純に上昇して、ハイラムがベルセルク20体処理するのに時間がかかるということ。
それに、仲間たちも危うい。
ベルセルク相手に勝てなくても、防御と回避に専念すればしばらくはもった者たちが、時間稼ぎすら難しくなる。
だから、私の援護のために飛んでいた魔法や矢が、そちらに向かってしまう。
不満や泣き言はあるけど、口にしない。
私ならなんとかなるという仲間からの信頼だと自分を鼓舞する。
「ガハッ!」
ヴァルキリーの蹴りをくらった。
直撃じゃない。
黒い革のベストで衝撃を減衰してるのに、それでもかなりのダメージだ。
勝手に口から血があふれてくる。
油断があった。
ヴァルキリーの姿から攻撃は剣だけで、蹴りはしてこないと勝手に思い込んでいた。
「ヴェルデヴェッラよ」
ヨウレプの回復魔法と、ハルルフェントの矢による牽制で、体勢を立て直す刹那を稼げた。
私は集中のギアを、もう一段上げて、死力でこの状況に挑む。
次回の投稿は8月15日金曜日1時を予定しています。




