3-10 恐怖を力に
恐怖とは厄介な存在だ。
思考を乱し、体をすくませ、ときにストレスとなり体を蝕む。
なら、邪魔なだけの不要なものかといえば、そうでもない。
戦場のような生と死が隣り合わせの環境であれば、特に。
戦場で恐怖に震える者を臆病と笑い、無謀な突撃などで無駄死にする者がどれだけいることか。
前世の英雄たちも、大成している者は周囲に臆病者といわれても軽々しく動かず、勝機が訪れたときに一気に動く。
恐怖とは扱いの難しいものだけど、飲まれることなく使いこなせば力となる…………かもしれない。
当然、それは簡単なことじゃない。
けど、だからこそ、訓練をする。
「闇よ」
チャルネトがトレント製の杖の先端から、野球のボールぐらいの大きさの闇色の玉を私に向かって飛ばしてくる。
速度は時速100キロを超えているだろう。
チャルネトと私の距離は30メートル程度。
前世なら不可能だけど、現状の私な回避は十分に可能。
でも、避けない。
避けてしまったら訓練にならないから、あえて顔面で闇色の玉を受ける。
いきなり強めのドライヤーの風を顔面に受けたような衝撃はあったけど、それだけで痛みはない。
そう、痛みはない。
けど、変化はある。
自分の内側で冷たくて黒い恐怖が広がり隙間なく侵食していく。
それは白いハンカチが一瞬で黒一色に染まっていくような感覚。
鼓動が乱れ、呼吸も安定しなくて、わけもわからず体が震えて逃げ出したくなる。
……いや、いますぐ頭を抱えてうずくまって、なんでもいいから叫びたい。
だって、そうしないと、感情が、心が、自分がもたない。
でも、無限に増殖して私を侵食してくる恐怖に対して、背を向けたくなるのをこらえて、向き合って直視する。
わずかに残った欠片ほどの理性を最大限酷使して思考して自問する。
なにが、怖い?
なにに恐怖する?
当たり前のように答えはない。
だって、外部から強制的に植えつけられた強力な恐怖に根拠なんてあるわけがないのだ。
そう、この恐怖には根拠がない。
根拠もないのに、増殖する恐怖というのはそれはそれで恐ろしいけど、視点を変えれば見え方も変わってくる。
根拠のない恐怖、それは逆をいえば根拠を後付けできる余地があるということだ。
いつものように、オシオン侯爵の屋敷の訓練できる広場で、私の周囲にはチャルネトを含めて杖を構えた獣人たちが8人いる。
なぜ、いるのか?
訓練で私に魔法を放つために。
報酬としてトレント製の杖の制作を約束したから、こちらを怪我させないようにと手加減することはないだろう。
私に向かって魔法を放とうとする者たち、これは怖い存在だ。
恐怖するのも当然。
そう論理の道を作り、思考のフックを私のなかの恐怖に引っ掛ける。
誘導は簡単だった。
わけもわからず存在していた恐怖が、根拠と方向性を得て周囲の獣人たちが怖くなる。
予想通りの展開だけど、予想外のこともあった。
確かに、方向性のない恐怖よりは、恐怖の対象を固定することで、向き合いやすくはなっただろう。
けど、私のなかで広がる恐怖の総量が減ったわけじゃない。
そのせいでチャルネトを含む周囲の獣人たちに対して、まるでトレント級の魔物くらいのプレッシャーを感じてしまっている。
だから、迅速に次へと進む。
歯を食いしばり意思の力を総動員して、目をそらして背を向けたくなる恐怖を直視して問いかける。
なにが、怖い?
恐怖に問いかけたところで、言葉が返ってくるわけじゃない。
儀式じみた自問自答だ。
なら、無意味な行為なのだろうか?
否だ。
少なくとも恐怖を直視して、問いかけている限り、飲み込まれることはない。
そして、恐怖からの言葉はなくとも、漠然としたイメージは返ってくる。
周囲の者たちが怖い。
全員が私よりも低レベルなのに?
油断せず、対処を間違わなければ傷つくことすらありえない。
なら、油断せず対処を間違うな!
そんな恐怖からの反応があった気がする。
以上が、チャルネトの闇色の玉をくらってから行われた1秒未満の思考。
恐怖によって体がこわばり自由を阻害しそうになっていたけど、緩んで動けるようになった。
そう、恐怖の状態異常そのものに、体の動きを阻害する効果はない。
あくまでもの本人が強い恐怖を感じて体が動かなくなるだけなのだ。
でも、恐怖から解放されたわけじゃない。
動けるけど、後ろに控えて仕事を監視する怖い上司かのように、油断して対処を間違うなと恐怖に見張られている。
呼吸が難しくて、胃と心臓に握り潰されるかのような尋常じゃないストレスがかかっていそうだけど、そういうのは後だ。
「闇よ」
チャルネトが魔力で形成した闇色の刃を飛ばしてくる。
チャルネトが魔法を使うときに言っている「闇よ」とかは別に詠唱とかじゃないらしい。
だから、やろうと思えば無言で魔法を発動させることもできるそうだ。
なら、なぜ「闇よ」と口にしているのかといえば、気合を入れるための掛け声であり、味方にこれから魔法を使うという合図らしい。
飛んでくる闇属性の魔力の刃が命中すれば、手足どころか胴体でも両断されてしまう。
そんなことを考えたからか、恐怖からの圧力が強くなる。
対処法としては回避するか、羽織っているヘルハウンドの毛皮のマントで防ぐか、手にしている迷宮のラブリュスで迎撃するかだ。
即座に、黒い両刃の大斧迷宮のラブリュスでの迎撃を選択。
迷宮のラブリュスには、魔法によって肉体を強化するようなバフ効果を攻撃が命中したときに解除する能力があるけど、ここ数日の訓練のなかでバフだけじゃなくて魔法そのものを解除することがわかった。
飛んでくる闇色の刃に向かって感覚で迷宮のラブリュスを振るいそうになるけど、恐怖からダメ出しがくる。
手を抜くなと。
手を抜いたつもりはないけど、確かに全身全霊で集中していたかといえばそうでもない。
視野を広げ、他の獣人たちも警戒しながら、闇色の刃に集中して思考する。
最適なモーション?
違う。
立ち位置を考えながら、次への動作、隙を減らし、リスクを最小化すること。
……なるほど、私は脅威を過小評価して、最適な戦術的な判断を模索することなく妥協していた。
けど、今は恐怖のプレッシャーが私に欠片ほどの妥協を許さない。
迷宮のラブリュスが斧スキルに導かれるように黒い軌跡を残して、飛翔する魔力で形成された刃を迎撃すれば、抵抗することなく闇色の粒子となって空中に霧散する。
「炎よ」
「水よ」
「闇よ」
「貫け」
私を囲む獣人たちが、それぞれの掛け声とともに四方八方から別々の魔法を放ってくる。
炎、水、闇、風などが、玉、刃、槍などの形状と実に多彩だ。
それらが、間断なく放たれる。
さすがに、すべてを迷宮のラブリュスで迎撃することはできないから、ときには避け、あるいはヘルハウンドの毛皮のマントで防ぐ。
私に放たれる殺傷力十分の魔法がヘルハウンドの毛皮のマントに接触すると、少し強めの風程度の衝撃にされてしまう。
しかも、毛皮のマントは無傷。
かなり高い魔法防御力だ。
けど、人形会の使用した魔道具は、この魔法防御力を突破して私を恐怖の状態異常にした。
使用された魔道具は、当たった者が恐怖の状態異常になる無色透明の魔力を扇状に飛ばす物だから、回避が難しくてとっさにヘルハウンドの毛皮のマントで防ごうとした判断は間違いじゃない。
ただ、相手の魔道具が、その魔法防御力を突破するほど規格外だったというだけだ。
まあ、魔力の出力が規格外なわけじゃなくて、高い魔法防御力を突破する性質が規格外なだけで、状態異常としての恐怖の性能は並みらしい。
どうにもチグハグな性能だけど、魔道具に関してはハイラムが知り合いに調べさているので、そのうち結果が出るだろう。
ともかく、ヘルハウンドの毛皮のマントの魔法防御力は信頼に値する。
けど、過信して突破される可能性もあるから、基本は迷宮のラブリュスによる迎撃と回避だ。
飛んでくる多種多様な魔法を20以上対処して思う。
余裕はないけど、余裕だ。
意味不明だけど、まさに今の私の状態を表している。
恐怖に圧迫されて心に少しの余裕もないけど、戦闘の状態としてはイレギュラーが発生しても対処できるぐらいには余裕がある。
これも、限界まで妥協なく1つの動作や判断や状況に対処しようとしているからだろう。
それに、体にも余裕がある。
これは迷宮のラブリュスを振るうのに関係ないと思っていたけど、錬金鋼の鉈で敵の攻撃をさばく訓練が無駄じゃなかった。
攻撃力が上がったというわけじゃないけど、無意識のうちに武器が接触した対象の抵抗や反動や重心を考慮するようになったから、迷宮のラブリュスの柄が魔樫ほどしならないことが原因で、手首を痛めるということもなくなっている。
だから、魔力を抑えて死角に回り込み、無言で魔法を放とうとしている者も把握するだけの余裕があるのだ。
ヘルハウンドの毛皮のマントで防げないように地面スレスレを飛んでくる無色透明の風の刃。
回避は可能だけど、あえて迷宮のラブリュスで迎撃することを選択。
「「「っ!」」」
私が慌てることなく、悠然と死角からの風の刃を迎撃したことで、周囲の獣人たちに動揺というほどじゃないけど驚かせることができたようだ。
一瞬の間隙。
強撃を使用するときのように、体内の魔力を高めて、血液のように全身を循環させる。
魔力を循環させる速度は、速すぎても遅すぎてもダメ。
状態異常に対して抵抗力を上げる効果があるのは、魔力を一定の速度で循環させたときだけ。
訓練の成果だろう。
1秒未満で効果が出て、胸を冷たく圧迫して呼吸を難していた恐怖の影響が小さくなる。
消えたわけじゃない。
魔力の循環を止めれば、すぐに戻ってしまう。
けど、この状態なら、迅速に収納袋からキュアポーションを取り出して飲むのも容易だ。
ハイラムが説明したように、実に有用な技術だといえる。
元々は、魔法を使える者が精神系の状態異常にかかりにくいことに気づいたハイラムが、その原因を調べて発見したことの応用らしい。
だから、帰り道で私と同じように恐怖の状態異常を受けたはずなのに、チャルネトがキュアポーションを問題なく飲める程度に動けたのは、彼女が魔法を使える獣魔士だからのようだ。
基本的に、相手が奇襲で使ってくると思われる精神系の状態異常は恐怖のみ。
他にも、混乱、魅了、忘却など、魔力を高めて循環させることで抵抗力を上げていなければ、即座に戦闘不能になる精神系の状態異常もある。
好奇心から、全部の精神系の状態異常を受けてみたけど、混乱、魅了、忘却はかかったら人格の連続を絶たれるようで完全に無力化されてしまう。
それほど危険なら、恐怖よりも重点的に対策すべきだと思うけど、そうしない理由がある。
強力な効果のある精神系の状態異常は、一部の魔物が使う場合を除いて、魔法か魔道具かを問わず事前に強力な魔力の集中が必要となるので、奇襲のときに使用されることはない。
仮に、使われたとしても、余程油断でもしていなければ探知が可能。
それでも、乱戦で使われれば脅威だけど、1回は防いでくれるトレントの枝で作られた樹霊の守りがあるし、それこそ受けたら即死につながる攻撃というのは物理、魔法を含めて無数にあるわけで、完全な対策なんてできるわけがない。
当然、戦いの場に行くなら覚悟すべきリスクだ。
他にも、恐怖並みに発動直前まで探知しにくい興奮という状態異常もあるけど、これは相手が使用してくる可能性が低いし、興奮の状態異常になっても魔力を高めて循環させることが可能なのことは確認できている。
なぜ、興奮という状態異常を敵が使用する可能性が低いのか?
それは、興奮という状態異常が、ある面でバフになっているからだ。
興奮の状態異常にかかると、恐怖とは逆に恐れることなく好戦的で短絡的な行動をするようになる。
そして、身体能力が上昇するのだ。
この身体能力の上昇は、興奮の効果なのか、前世のプロスポーツ選手のように肉体のリミッターを外した効果なのか不明となっている。
正確にいうなら、複合的な要因で身体能力が上昇するようで、なにがどう作用しているのか分析するのが困難なようだ。
効果としては、多少不格好になるけど、私だと片手で迷宮のラブリュスを振り回せるようになる。
ただし、数分動いただけで、効果が切れた後に、関節の各所を痛めて何か所か骨折していた。
けど、興奮の状態異常になっていると、それでも痛みも恐怖も感じることなく動くことができる。
だから、バフになるかもしれない興奮を相手が使用する可能性は低い。
つまり、人形会が奇襲で使用してくる可能性があるのは恐怖のみ。
無警戒に油断はできないけど、恐怖の状態異常の対策に重点を置くのは間違いじゃない。
私のなかの恐怖は小さくなって、魔力を高めて定速で循環させることもできている。
けど、訓練はこれで終わりじゃない。
むしろ、ここからだ。
「どうぞ」
私の声に反応して、少し離れて見ていた6人の獣人の男女が、大小の斧を手に前に出てくる。
迷宮のラブリュスだと攻撃力が高すぎて、ささいなミスで相手を殺してしまうから、錬金鋼の鉈の二刀流に装備を切り替えた。
両刃の戦斧や大斧を手に、オシオン侯爵に頼んで集めてもらった獣人たちが挑んでくる。
そこには、全員がやる気というよりも殺意すら感じる笑顔を浮かべていて、訓練だからという手加減は感じられない。
私のなかの魔法によってもたらされた恐怖は、消えることなく存在しているから、この状況でも途切れることなく高めた魔力の循環を継続させる。
迫ってくる獣人たちの位置、振るわれる斧の軌道と間合い。
その後方で杖を構える獣人たちの位置と魔法が飛んでくるであろう射線。
私の取るべき行動と流れは?
恐怖のせいで、あるいは恐怖のおかげで、妥協することなく精緻に集中して思考する。
私が動くことで魔法の射線と前衛の位置を重ねて容易に放てないように調整しながら、連続で前衛に対処していく。
けど、錬金鋼の鉈で切り伏せるわけじゃない。
目標にした獣人の重心と軸、迫る斧の重心と軌道、相手の関節の可動域、それら把握して自身の動きをミリ以下の精度で制御。
周囲を十二分に警戒しながら、相手の戦斧を錬金鋼の鉈でさばく。
「えっ?」
間抜けな声をあげながら、相手が戦斧を手放して転倒する。
相手の得物が斧だから、自分のなかの斧を振るってきた経験と斧スキルによって、高精度で相手の動きを予測できた。
鉈で相手の武器をさばきながら、相手の斧と体の重心をズラして、得物を手放させて転倒させるような合気道や柔術のようなことも可能になっている。
誰が相手でもこれができれば凄いけど、現状だと成功するのは格下の斧使いだけだ。
それも、恐怖の状態異常になって、現状のような強制的に極度の集中状態じゃないと成功率は、同じ相手でも低下する。
状態異常攻撃を自分の力にできるのはいいことだけど、その状態じゃないとできないことがあるというのはダメな気がしてしまう。
実際、こんなこと考える余裕を持ちながら、次々に挑んでくる獣人たちをさばいて転倒させ、放たれる無数の魔法にも焦ることなく的確に対処して、高めた魔力の循環も維持しているのだから、強制されたものでもこの力は凄い。
とにかく、これだけ戦いながら、途切れることなく高めた魔力の循環を維持できれば、私が魔境へ行くことをハイラムも認めてくれるだろう。
この訓練は、自分のなかの別の領域を拡張されたようで、続けたい気持ちがないでもないけど、それ以上にトレントが恋しい。
次回の投稿は4月25日金曜日1時を予定しています。




