3-8 恐怖の効果
魔境からオシオン侯爵領へと続く暗い夜道をチャルネトと2人で歩いている。
2人とも前世の懐中電灯のような魔道具で道を照らしているから、道がわからなくなって迷ってしまうことはないだろう。
まあ、そもそもこんなに暗くなる前に帰るべきだとは思うんだけど、今回に関しては私が原因というわけじゃない。
魔境でトレントが出現する場所に、トレントを倒した後で別の種類の苗木を植えたらどうなるかという実験を提案したんだけど、実行するために同行していた学者たちの方が熱心になって、最終的にしばらく魔境で観察するために寝泊まりするそうだ。
それなら、私も魔境に残っていようかと思ったんだけど、チャルネトに却下されてしまった。
ジョブやスキルの力を借りなくても、トレントの枝の攻撃の規則性を把握できるようになってきたから、実に残念だ。
神珍鉄と魔鋼の合金である錬金鋼の鉈でトレントの枝をさばくことは、初歩的なことがようやくわかりかけたところだから、もう少し続けたかった気持ちはある。
でも、熱中しすぎて周囲に迷惑をかけた過去があるのも事実なので強く反対することもできない。
普通の人のジョギング以上の速いペースで順調に歩いていると、前方の風景に違和感を覚えた。
意識を集中しても違和感の正体はわからない。
けど、ヌルりとした不快なものにまとわりつかれているような気がする。
「チャルネト」
警告の意味を込めて隣を歩くチャルネトに小さく声をかけながら、歩くペースを少しだけ落として周囲への警戒を強くする。
突如、見えないなにかが迫ってくると感じて、羽織っていたフード付きのヘルハウンドの毛皮のマントをひるがえらせて自分の身を守るようにした。
闇夜のなかでもなお黒いヘルハウンドのマントに強風が吹きつけたような動きをする。
瞬間、なんらかの力が私に触れて変化が起こった。
明確な痛みやダメージは一切ない。
けど、なんらかの攻撃をされたことだけはわかった。
だって、私の心はありえないほど強烈な恐怖に汚染されている。
見えないなにかは横幅も速度もわからなかったから、下手に回避するよりも、魔法ないし魔力由来の攻撃だと決め打ちして魔法防御力の高いヘルハウンドのマントで防御しようと思ったんだけど、効果があったのかはわからない。
……ああ、わからないから怖くて、暗闇が怖くて、周囲が怖くて、状況が怖くて、未来が怖くて、現在が怖くて、怖くて怖い。
……ダメだ。
論理的じゃない。
思考がまともに働かない。
論理的に未知なるものを予測しているわけでもなく、ただ形のない恐怖が心に広がり、恐怖に対して恐怖しているようだ。
「精神系の状態異常です。キュアポーションを」
そう声をかけてくれたチャルネトは、自ら実践するように収納袋から取り出したキュアポーションを口にしている。
不測の事態に備えて様々な状態異常に効果のあるハイクラスのキュアポーションが、ヒールポーションほどじゃないけど私の収納袋にも入っているから、チャルネトの言葉に従って動こうとするけど体が強張って思うように動かない。
根拠のない恐怖によって鼓動が乱れて呼吸も浅くなる。
この世界にも恐怖と分類される状態異常があるのは知っていたけど、普通のゲームに登場する状態異常の恐怖は、多くの場合それほど深刻なものじゃないから、正直なところ侮っていたのだ。
確かに、村で村長にも警告されていたし、ハイラムも危険性は言っていたけど、そういう攻撃をしてくる魔物の出現場所はわかっているから、必要なときに対策をすればいいと思っていた。
自分の浅慮を後悔したいところだけど、心に広がる恐怖がそれを許さない。
恐怖に私を占拠されて、まともな思考も、行動もできないでいる。
これからは万が一に奇襲で状態異常にしてくる攻撃をされると考えて対策するべきだろう。
まあ、この状況を切り抜けられたらの話だけど。
普段の何十倍も遅い動きで収納袋からキュアポーションをなんとか取り出したけど、どうにも飲めそうにない。
黒い仮面をかぶり左右の手にそれぞれ剣を構えた全身黒ずくめの2人組。
どこから現れた?
どうやって隠れていた?
周囲にもっと敵が隠れている可能性。
怖くて怖くて怖くて、周囲が分からなくて怖くて、目の前の存在が怖くて……。
「闇よ」
チャルネトの声が聞こえると、私の体を闇色のオーラが包む。
チャルネトのバフだ。
効果は、おそらく魔法への抵抗力を高めるもの。
ゲームならすでに状態異常にかかっているのに抵抗力を上げても無意味だけど、この世界だと無意味じゃないようだ。
キュアポーションや回復魔法のように、恐怖が完全に消えてくれるわけじゃないけど、体を少し動かせる程度には軽減した。
急いで、キュアポーションを飲もうとするけど、黒ずくめの1人が切りかかってきて妨害してくる。
懐中電灯を投げ捨てキュアポーションの入っているビンを左手で持ちながら、空いている右手で錬金鋼の鉈を抜いてなんとか応戦した。
10合以上刃を交えてわかったのは、目の前の黒ずくめの仮面の剣士がザコじゃないということ。
確実に、レベルが20以上の手練れだ。
それでも、万全な状態なら問題なく勝てる相手だけど、現状は万全と呼べる状態じゃない。
状態異常の恐怖の影響を脱しきれずに心身の動きが悪くて、回復するためのキュアポーションは左手に握れているけど敵前で飲む余裕はないし、ただ無駄に片手が塞がっているだけ。
一瞬、キュアポーションを捨てようかとも思ったけど、思い直して行動する。
確かに、キュアポーションのビンのフタを開けて飲む余裕はないけど、攻撃のタイミングを読みながらわずかな隙で、少し賭けだけど強引に動いて試験管のような形状のキュアポーションのビンを口にくわえることができた。
これで左手は自由になるし、万が一の事態になっても少しだけ無茶をすれば窮地を脱することができるかもしれない。
空いた左手がつかむのは、もう1つの錬金鋼の鉈……じゃなくて、魔鋼の手斧。
斧と投擲スキルを起動させると、魔力を高めて強撃を発動させる。
あまりの速さに、閃光のような軌跡を描いた手斧が、仮面の剣士の胴に命中した。
勝利を確信して、もう1人の剣士と戦っているチャルネトに視線を向けようとした瞬間に、強撃で投擲した手斧を胴に受けたはずの仮面の剣士が繰り出した剣の切先が顔面に迫っている。
剣が命中する直前で強引に首を曲げて直撃は避けたけど、わずかに左の頬を切られてしまった。
大丈夫、かすり傷だ。
問題ない……はずだ。
「投擲による攻撃を無効にする使い捨ての魔道具です」
チャルネトが必死な声で届けてくれたアドバイス。
彼女が必死な理由を考えると、こいつを相手に時間をかけていられない。
使い捨ての魔道具ということは、回数制限付き。
もう一度手斧を投擲すれば無効化されることはない?
……いや、使い捨ての魔道具を1つしか持っていないと断言できるだろうか?
そもそも、魔道具が使い捨てじゃない可能性。
……ダメだ。
思考が恐怖の影響を脱し切れていない。
それよりも、変だ。
仮面の剣士が攻めてこない。
なにかを待っているような……。
変化は急激だった。
全身が異常に熱いのに、背中を中心に強烈な悪寒が広がる。
それに、手と足の指先が痺れて徐々に感覚が鈍くなっていく。
「これは……毒か?」
「闇属性の魔法で、精神系の状態異常に対する抵抗力は上げられても、毒に対する抵抗力は変わらないからな。存分に味わうといい。それが人生最後に刻まれる感覚だからな」
仮面の剣士が、予想よりも低く渋い声で言ってきた。
この世界の殺し屋や暗殺者は、自分が有利になると愉悦にまみれた声で喋らないと気がすまないのだろうか?
まあ、どうでもいい。
それなりの実力者だとは思うけど、この程度で勝利を確信するのはプロとして2流だ。
確かに、私の状態はマズい。
恐怖は小さくなっているけど完全には消えていなくて、正体不明の毒の影響で体は前世でインフルエンザにかかったときのようで高熱と悪寒がきつくて、発汗は止まらないし、痺れの影響も無視できない。
目の前の仮面の男の実力を考えると、抵抗すらままならないだろう。
……このままなら。
刹那のうちに覚悟を決めて、くわえていたキュアポーションのビンを思いっきりかみ砕く。
砕けたビンの破片が口内を舌も歯茎も例外なく傷つける。
鉄さびのような生暖かい血の味と、強い酸味のキュアポーションの味が口のなかに広がっていく。
傷口に酸味がしみそうだけど、不思議なことに傷を刺激していないような気がする。
迅速に、だけど慎重にビンの破片を飲まないようにしながら、血液交じりのキュアポーションを飲み込む。
効果は劇的だった。
量の問題なのか、熱と悪寒は少しだけ残っているけど、恐怖と痺れは消えている。
「貴様!」
仮面の男が左右の剣を振るって間合いを詰めてくるけど、私は左手にも錬金鋼の鉈を握って二刀流のスタイルで応じる。
左右の剣で絶妙にタイミングをズラした鋭い攻撃だけど、少し前までトレントの枝による雨のような即死級の猛攻を受けていた身としては脅威に感じられない。
左右の鉈で、左右から迫ってくる剣を跳ね上げるようにさばく。
「なっ!」
跳ね上げられた剣につられて強制的に万歳をするような姿勢の仮面の男が驚愕の声を上げるけど、次の瞬間には左手に握った錬金鋼の鉈を横に振るって首を切り飛ばした。
噴水のように血を吹き出す不気味なオブジェとなった死体から視線をチャルネトの方に向ければ、状況はなかなか際どい。
私が殺した男と同じような全身黒ずくめで仮面と左右の手に剣を装備してるけど、実力的にも同じくらいでチャルネトよりも少し強いだろう。
つまり、回避と防御に徹しているからチャルネトはなんとか命をつないでいるけど、私の介入がなければ敗北が確定する。
だから、チャルネトと戦う仮面の剣士の横から、錬金鋼の鉈で切りかかろうとしたところで、危険を感じて慌てて後方に跳躍した。
直前まで私がいた空間をなにかが通過して地面を打ち据える。
攻撃がきた方向に視線を向ければ私が殺した男と同じような仮面をかぶった黒ずくめの人物が3メートル以上の長さの鞭を振るって立っていた。
地面を打ち据えた物の正体はあの鞭か。
こいつの立っている場所は私たちが歩いてきた方向だ。
見逃した?
潜伏、気配遮断のようなスキルか、類似の能力の魔道具を使った?
「死ね」
仮面の男の声はしゃがれていて老人のようだ。
時々、右手だけで操っている長い鞭の先端が音速を超えたのか乾いた破裂音をいくつも響かせて、さっき殺した仮面の男の双剣よりも速い連撃を繰り出してくる。
実力的に、この鞭使いは双剣使いよりも上だろう。
レベルだけでいえば私よりも上かもしれない。
でも、それだけだ。
鞭の素材がなんなのか不明だけど、その威力は謎の原理で高い防御力を発揮する黒い革のベストを装備していても大ダメージ確定だろう。
……そう、大ダメージ。
即死じゃない。
体感的に、この鞭使いは少し動ける柔らかい劣化トレントにしか見えない。
もちろん、正体不明の魔道具を隠し持っている可能性もあるから油断はできないだろう。
例えば、これ見よがしに右手で鞭を使っているのに、左手は不自然なほど使わない。
……思い込みは危険だけど、警戒はしておこう。
「ぺっ」
口のなかに残っていたビンの破片と血を吐き出してから、無造作に相手の鞭の間合いへと足を進めていく。
「バカが」
男が勝利を確信したような声を上げる。
けど、私の足は止まらない。
「っ! なぜだ、なぜ、オレの鞭に対処できる」
仮面の男がなにかわめくけど、油断を誘うブラフの可能性もあるから気にしない。
剣に比べると鞭は複雑な軌道を描くから動きが読みにくいけど、無数に迫ってくる即死級の威力のトレントの枝に比べれば単調ですらある。
半日以上、トレントの枝による猛攻をさばく訓練をしていてよかった。
同格以上の相手のはずなのに、余裕がある。
塞翁が馬、あるいは怪我の功名だろうか?
微妙に違う気もするけど、ささいなことだ。
仮面の男は手元を激しく動かして鞭に複雑な動きをさせるけど、私にとっては対処可能なもの。
鞭を錬金鋼の鉈でさばきながら一気に間合いを詰める。
「くっ……バカが、死ね」
鉈の射程に仮面の男を捉えた瞬間、警戒していた左手が動く。
サイドステップで大きく避けると、不可視のなにかが私のいた空間を通り抜けていく。
恐怖の状態異常を引き起こしたものと同系統の攻撃だろう。
「クソが」
仮面の男がなんとか左腕をこちらに向けようとするけど、私の振るった右手の鉈が切り飛ばして宙に舞う。
間髪入れずに、左手の鉈で首を切り落とす。
2つ目の首のない血を吹き出すオブジェとなった死体から、注意をチャルネトに向ける。
大丈夫、劣勢だけどチャルネトは生きている。
だけど、同時に余裕もない。
即座に左手の鉈を斧と投擲スキルに従って投げる。
プロ野球選手の剛速球以上の速さで飛翔した錬金鋼の鉈は、確かにチャルネトと対峙する仮面の男の頭部に命中した。
けど、鉈は薄い不可視の壁にでも遮られたかのように、そのまま地面に落ちる。
まあ、想定内だ。
右手の鉈を今度は強撃を発動させて投げる。
鉈は黒い閃光となって仮面の男の胴体に命中するけど、これもダメージを与えることなく地面に落ちてしまう。
問題はない。
ベルトには投擲用の魔鋼製の手斧があるし、収納袋にも予備の手斧がいくつもある。
投擲による攻撃を無効化する魔道具の回数制限とどちらが先につきるか試してもいい。
まあ、その必要はなさそうだ。
推定、投擲を無効化する魔道具には回数制限のある使い捨てで、チャルネトと戦っている仮面の人物は私の投擲した錬金鋼の鉈による攻撃を2回無効化している。
相手はノーダメージだけど、それは私の存在を無視できることを意味しない。
そして、私がさらに投擲をしないか、接近して攻撃をしてこないか、警戒してしまうのも当然のこと。
とはいっても、それで生まれるのは瞬間的でささいな隙だ。
けど、劣勢だったチャルネトが逆転の一撃を放つのには十分すぎる隙。
「闇よ」
チャルネトが突き出したトレントの杖を、仮面の人物はギリギリで回避するけど、追撃で杖から放たれた闇の魔力で形成された刃に胴を両断されて絶命した。
「あり……が……ざいます」
そう言ったチャルネトは膝を地面について肩で息をして明らかに疲労困憊だ。
けど、仮面の人物に切られて毒の影響があるようには見えないから、そのことには安心できる。
「無事なようでよかった。それで、こいつらはなんなんだろう?」
地面を照らし続ける懐中電灯を拾いながら、自然と根本的な疑問の言葉を口にしていた。
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