3-3 深淵のミノタウロス
目に映るあの存在はなんなのだろうか?
死、恐怖、あるいは絶望が実体化したものだろうか?
…………違う。
これはただの現実逃避だ。
けど、逃避するような時間や空間は存在しない。
忌々しくて恐ろしい眼前の現実を直視する必要がある。
それは身長4メートルくらいの牛のような頭の漆黒の魔物ミノタウロス。
ただし、普通のミノタウロスじゃない。
とあるダンジョンの最奥で、挑む冒険者を待ち受ける特別なミノタウロス。
ハイラムによれば、エンドレスインフィニットクロニクルだと深淵のミノタウロスという名前で呼ばれていたらしい。
なんとなく、名前にハイやロードとかが付く上位種よりも、漢字の単語が付いていると特別に強そうに感じる。
実際、ミノタウロス系の魔物のなかだと最上位なのだそうだ。
一応、深淵のミノタウロスは魔物としてトレントより弱いらしい。
必ずしもいい情報とはいえないけど、悪い情報ともいえないからよしとしよう。
そもそもだけど、私がトレントを倒せているのは、いくつかの条件が重なっているからだ。
トレントに対する特攻のジョブ、スキル、武器を重ねて、タメ切りで数日かけてなんとか倒せるという状態。
つまり、数値的に私は純粋な目で見れば、トレントよりも強いわけじゃない。
けど、コンスタントにトレントを倒している実績を評価して、私の最後の相手として深淵のミノタウロスが認められた。
ハイラムの説明によれば、オシオン侯爵としても、深淵のミノタウロスが相手だと私が不利だと思ったようだけど、それ以上に深淵のミノタウロスを殺さずにテイムして従わせて用意したマルスト侯爵の労力と執念に心が動かされたらしい。
精一杯行動したことに感動するのは悪いことじゃないけど、それで私の死の危険性が跳ね上がるなら話は別だ。
そして、悲しいことにハイラムも深淵のミノタウロスを私の相手として認めてしまった。
それというのも、私がトレントを倒せることを知って、マルスト侯爵も王国にとって有用であると認めて、深淵のミノタウロスに勝利したのなら、怒りをこらえて全面的に協力すると約束したらしい。
敵対的な態度だった有力な貴族が支援者になる。
大変いいことだ。
ハイラムにとっても、私にやらせたいことをマルスト侯爵が邪魔するどころか、協力してくれるなら魅力的だろう。
深淵のミノタウロスを私の対戦相手として認める程度には。
けど、考えないといけない。
前提条件として、深淵のミノタウロスに私が勝てないと、そもそもトレント関連の話は白紙になる。
そういったことを踏まえて、少々迂遠な言い方で文句を言ったら、私の殺したマルスト侯爵の次男ルスクスの死に対してなにも感じていないわけじゃないと言われてしまった。
卑怯じゃないけど、卑怯だ。
なにも言えない。
あれは戦場のことで、仕方のないことだけど、彼の義理とはいえ弟を殺している。
獣人たちへの配慮と、私を活用する打算によって、普段から口にはしないけど、ハイラムも情のない人物じゃない。
私に対して色々な感情を抱いて当然だ。
…………結果として、私は深淵のミノタウロスと対面している。
快晴というわけじゃないけど、空は青くて暖かな日差しが降り注いでいるはずなのに、鋭い冷気に包まれたかのように寒気が止まらないのはなぜだろう。
巨大な闘技場を揺らすような無数の観客の歓声も、今日だけは不吉で不気味なレクイエムにしか聞こえない。
石畳を踏みしめてるはずないに、足元が不安定な気がする。
普段なら気にならない革のサンダルが頼りない。
上半身が裸なことが不安になる。
鎧を、そうでなくても、なにかに包まれていたいと思ってしまう。
……ダメだ、次々にわき上がる雑念に心を乱される。
昨日までは実に平和だった。
断固として自分の工房に帰らないウィトルイと錬金術で色々と試したり、完成した杖を受け取ったチャルネトが狂喜乱舞したりと、充実した日々。
そしてなにより穏やかな日々だった。
こんな絶望と戦うとは思いもしていない。
ゆっくりと落ち着いて呼吸を意識しながら、現状を確認する。
私が身に着けているのは、いつもの革のサンダルと革のハーフパンツで、腰の左右にはサブウェポンとしてそれぞれ魔鋼製の鉈。
手には愛用の赤いクルム銅製の大斧。
黒檀のように黒い魔樫製の柄を、トレント製の物に交換しようかとも思ったけど、重量やしなりが変わって扱うときのバランスや感覚が狂いそうだからやめておいた。
投擲が禁止されているのは変わらない。
一応、相手のミノタウロスも投擲は禁止しているらしいけど、警戒しておいたほうがいいだろう。
それよりも、深淵のミノタウロスの四肢にある物が気になる。
形状や色とかは違うけど、それぞれの四肢に腕輪や足輪が装備されているのだ。
ただの装飾品だろうか?
……まあ、魔道具だろう。
それも、装備すると身体能力を引き上げてくれたりするタイプだと思われる。
ズルい……と思わないでもないけど、禁止されてもいないから仕方がない。
こういう事態を想定できなかった私のミスだ。
こんなことなら、運を上げてくれるという効果を期待して、私も愚者の腕輪を装備してくればよかったと思わないでもない。
深淵のミノタウロスは腰巻のようなものだけで、防具は身に着けていなくて、漆黒の肌がむき出しになっている。
正直なところ、面倒な防具で守られていないのはありがたい。
そして、深淵のミノタウロスは不思議なオーラをまとっていた。
比喩表現じゃない。
本当に、視認できる赤黒いオーラをまとっているのだ。
おそらく、なんらかのミノタウロスを強化するようなバフの魔法がかかっているのうだろう。
チャルネトの似たような魔法を見たことがあるから、間違いないはずだ。
これも、かなり黒に近いグレーだけど、バフが闘技場に出てくる前にかけられたものなら、ギリギリだけどルールには抵触しない。
マルスト侯爵の殺意が高すぎる。
私の有用性を認めた?
深淵のミノタウロスに勝てたら支援する?
どう考えても、勝たせる気も、生き残らせる気もない。
そして、深淵のミノタウロスが手にしているのは、黒い両刃の大斧。
深淵のミノタウロスの体格だと片手でも振り回せる戦斧に見えるけど、私のクルム銅製の大斧よりも大きい。
ハイラムによれば、あの黒い大斧は迷宮のラブリュスというそうだ。
深淵のミノタウロスが必ず装備している斧で、性能は斧のなかだとトップクラスらしい。
悪趣味なほど宝石や飾りがついているわけじゃないけど、よく見ると斧頭にびっしりと細かくて複雑な模様が彫られている。
その模様は文字とかじゃないから、私が意味を理解できないのは当然なんだけど、あまりにも不気味で禍々しいと思ってしまう。
深淵のミノタウロスにも、迷宮のラブリュスにも、圧倒されて自然と腰が引けていく。
積み重ねた努力と、経験してきた実績が、自分にはあるって自分に言い聞かせる。
そうじゃないと、瞬時に心が折れてしまいそう。
開始の合図はすでにされている。
深淵のミノタウロスが動かないのは、向こうの陣営の気まぐれか、自信のあらわれだろうか?
心身が定まっていない現状で、こちらから攻めるのは悪手だけど、深淵のミノタウロスに先手を奪われたら崩されて負ける未来しかない。
だから、こちらから、無理矢理にでも動く。
短いけど深い呼吸で、気持ちが切り替わったと思い込む。
点滅するように脳裏でちらつく、死と敗北のイメージは無視する。
ゆっくりと赤い大斧を振りかぶり、深淵のミノタウロスに向けてしっかりと一歩を踏み出す。
それが合図だったかのように、深淵のミノタウロスも動き出した。
「グゴガァアアアァ」
私と深淵のミノタウロスとの距離は20メートルくらい。
けど、瞬間移動したかのように間合いを詰めてきた深淵のミノタウロスの振るう黒い迷宮のラブリュスの刃が、目前に迫っている。
深淵のミノタウロスが右手だけで目の前の空間を薙ぎ払うように振るったその黒い死の化身を、クルム銅製の赤い大斧で迎撃できたのは偶然でしかない。
脳裏で少しだけ深淵のミノタウロスの動きに違和感を覚えたけど、明確な思考へと移行することはできなかった。
時の悲鳴のような甲高い轟音。
凄まじい衝撃、定まらない姿勢と浮遊感。
一瞬でもその場で踏ん張ることすら許されなかった。
吹き飛ばされたと理解した瞬間に、わき上がってくる恐怖から目をそらして、視線を深淵のミノタウロスに向けて着地姿勢を空中で整える。
なんとか両足が石畳をとらえてから、さらに5メートル以上後退させられた。
深淵のミノタウロスまでの距離は30メートルぐらいだろうか?
視線を素早く手放すことなく保持しているクルム銅製の大斧に向ける。
少しだけど刃先が欠けて、斧頭にヒビが入っているのを確認してしまった。
熊の獣人ウルドムと戦ったときのように、斧を斧で迎撃する戦法は現実的じゃない。
迎撃するごとに吹き飛ばされるわけにもいかないし、なにより私の大斧がもたないだろう。
「ガァアアアァ」
興奮したように叫んだ深淵のミノタウロスが、再び突進してきた。
30メートルの間合いを一瞬で詰める。
けど、さっきよりも10メートルくらい距離がある分、動きが見えて反応できた。
反撃を考えずに全力で、迷宮のラブリュスの黒い軌道から逃れる。
やはり、深淵のミノタウロスの動きに違和感を覚えてしまう。
それがなにか深く考えたいところだけど、ミノタウロスの追撃を避けるために、余分な思考をすることはできない。
黒い大斧迷宮のラブリュスだけじゃなくて、左手の拳も襲ってくる。
間合いと軌道の違う左右の連撃は、次の動きを予想するのが難しい。
深淵のミノタウロスの動きは合理的で洗練されたものだとは言えないけど、その威力と速度は脅威で少しでも油断すれば私は一瞬で死へと至るだろう。
死への恐怖、勝利への疑念、漠然とした不安、そんな思考にとらわれることなく、動き続けられている。
……いや、それだけの余裕がない。
一瞬でも、ネガティブな思考する時間があるなら、そのリソースを予測と肉体の制御に振り分けている。
深淵のミノタウロスの即死級の攻撃を、回避すること20回。
余裕はないけど、集中して専念すれば回避し続けるのも不可能じゃない。
威力も速度も、トレントよりも少し下だといえる。
けど、トレントの攻撃は、私の複数の特攻効果の影響なのか、その威力と速度でも問題なく先読みできるから、迎撃すら可能だった。
深淵のミノタウロスに対しては、純粋な経験で先読みしないといけないから厳しい。
そしてなにより、深淵のミノタウロスの攻撃……いや、動きのすべてが合理的じゃないから、さらに読みにくくなっている。
おそらく、複数の魔道具と支援魔法によって深淵のミノタウロスの身体能力が跳ね上がり、逆にそのせいで力を持て余して動きを制御することができていない。
右手で振りまわしている迷宮のラブリュスにしても、本来は両手で扱っているのだろう。
確かに、深淵のミノタウロスの動きは力任せで雑だけど、十分に速くて体重の乗っていない腕だけの力で振るわれる攻撃でも即死級。
隙だらけの動きだと思った瞬間に、予想外の方向から追撃がきたりする。
それでも、回避した攻撃が40回を超えたところで、わずかな反撃の糸口が見えた。
大きく振りかぶる余裕はない。
コンパクトなモーションを意識して繰り出す赤い大斧の素早い一撃。
トレント相手なら傷すらつけられない一撃だけど、オーガ相手なら十分の威力。
……深淵のミノタウロスが相手だとどうだろう。
致命傷は期待していなかった。
でも、深淵のミノタウロスの脇腹の漆黒の肌に、大斧の刃先が少し入っただけなんて結果は予想していない。
血は流れているけど、どうみてもかすり傷だ。
反撃してくるミノタウロスの動きに影響があるようには見えない。
……いや、ダメージがあったことすら気がついていないのかもしれない。
それでも、首などに強撃で大斧を叩き込めれば、深淵のミノタウロスを殺せる……と思いたい。
次回の投稿は1月17日金曜日1時を予定しています。




