2-15 マルスト侯爵
「貴様の命も今日までだ」
闘技場の控室に向かう薄暗い石造りの廊下で、声をかけてきたのは深い青色の髪をオールバックにした中肉中背の中年男性。
一見すると、身なりがいいだけの中年男性だけど、目の下の濃いくまと、充血して見開かれた青い瞳が、悪い意味で印象的だ。
沈黙しているのも失礼かと口を開こうとしたけど、それよりも先に案内として一緒にきていたチャルネトが、中年男性と私の間に立って口を開いた。
「マルスト侯爵、それは勝敗で決めることです」
「ああ、そうだとも。殿下と約束したからな。だから、私の息子を殺したのに、貴様がのうのうと生きているのを、今日まで黙認していたのだ」
中年男性、マルスト侯爵の言葉で理解した。
この人が私に向けてくる殺意の意味を。
私は、この人の息子の仇。
私にとっては、戦場で殺した名前も知らない誰かのうちの1人にすぎないけど、彼にとってはかけがえのない1人だろう。
でも、彼の心情を理解することはできるけど、それだけだ。
罪悪感が皆無じゃないけど、つないだ命を差し出すほどじゃない。
「ご子息の死は戦場でのこと。勝者を恨むことは、死者への冒涜です」
チャルネトが1歩踏み出して、獣人の論理で語気を強くするけど、私はどうにもまずい流れだと思ってしまう。
「……黙れ」
愉悦に酔いしれていたような先程までの口調よりも、静かで小さいのにマルスト侯爵の言葉には氷点下の迫力がある。
マルスト侯爵の異様な雰囲気にあてられたのか、戦ったら間違いなく勝てそうなのに、チャルネトが気圧されたように一歩引いて沈黙してしまう。
「…………」
「ここはドゥール王国だ。ドゥール王国で、獣人の道理を説くな。やはり、殿下の周囲に貴様らのような者たちがいるべきではないのだ。神聖な王族の価値観が歪んでしまう」
忌々しそうな表情を浮かべて、マルスト侯爵が言った。
敵味方で言うなら、チャルネトのほうが友好的で、マルスト侯爵のほうが敵対していると言える。
けど、私はマルスト侯爵の言葉に、共感してしまう。
戦場でのことだと言っても、家族が殺されているのに、殺した相手を恨まないで敬意を持つ獣人の価値観。
共感できないからと否定はしないけど、もしも自分の大切な人が獣人に戦場で殺されたとして、恨まずに敬意を持つことなんてできないだろう。
それに、そんな特異な価値観を持つ種族から、悪影響を受けないためにも王族の周辺にいて欲しくないと思うのは、当然と言えるかもしれない。
「それは、侯爵と言えども」
さすがに不快に思ったのかチャルネトが反論しようとするけど、マルスト侯爵の言葉に遮られる。
「無礼だとでも言うつもりか。なら、聞くがな、貴様らの価値観に、殿下は常に共感されていたか?」
「それは……」
「殿下はお優しいからな。分かろうと、寄り添おうとしただろう。だが、それは殿下が本心から、貴様らに共感していない証左だ」
「そんな……ことは……」
「内心では共感されていないと理解しているのか。なら、自覚して分際をわきまえるのだな」
マルスト侯爵の言葉に、チャルネトは悔しそうにうつむいて沈黙する。
「…………」
「帝国の兵士、闘技場で獣人が助力してくれるとは思わないことだ。見ての通り、こいつらは身柄を引き渡せと言えば抵抗する癖に、強さを証明させると言えば貴様を死地に追い込むことにも躊躇わない。考えが人とは違う獣人という別の生き物だからな」
マルスト侯爵の言葉の意味は、獣人はあてにならないから、絶望しろということだろうか?
私を心理的に追いつめたい、この人の気持ちは理解できる。
家族を殺した相手に、直接手を下せないなら、せめて言葉で私を攻め立てないと、心がもたないのかもしれない。
出会って10日もたっていないけど、何人かの獣人から友好的に接してもらっている。
でも、それは獣人たちが私を強いと思ってくれているからだ。
私が強さを否定するようなことをしたら、失望するだろうし、強さを否定するような闘技場からの逃亡などに協力してくれるわけがない。
だから、獣人の直接的な助力はないと確信してる。
まあ、闘技場で声援を送ってくれたりはするかもしれない。
つまり、初めから、獣人の知り合いに、そういう期待はしていないので、マルスト侯爵には申し訳ないけど、そのことについて絶望する理由がないのだ。
それよりも、マルスト侯爵の言葉に、気になることがあったので、口を開いた。
「あの、発言をよろしいでしょうか?」
「なんだ、命乞いか。無駄だ、今日、これから貴様は、絶対に死ぬのだ」
「私は帝国の兵士じゃなくて、徴兵された農奴です」
それほど重要なことじゃないかもしれないけど、訂正をしてみる。
厳密にいえば、農奴も徴兵された時点で、兵士といえなくもないけど、こういう場合に言う兵士は、正規の常備軍に所属している兵士のことだろう。
ささいなことだけど、こういう微妙なことを放置すると、後で面倒になる。
「……違う」
マルスト侯爵が、こちらを見ながら言う。
けど、視線は私を捉えていない気がする。
「はい?」
「違う、貴様は帝国の兵士だ。断じて農奴などではない」
「いや、しかし」
「農奴ではないのだ。農奴などに、私の息子が、ルスクスが、農奴に敗北したなどあってはならないのだ」
まるで、自分に言い聞かせるように、マルスト侯爵は言葉を口にして、私たちに背を向けて去っていった。
「…………」
口にすべき言葉が思い浮かばないし、なにも言うべきじゃないだろう。
マルスト侯爵の精神は、かなり疲弊しているようだ。
私がハイラムと結んだ契約魔法に、マルスト侯爵も同意したそうだけど、これだと、これから用意されている闘技場での戦いに勝利しても、納得してくれるとは思えない。
自分の次男の成人のお祝いに、第3王子のハイラムと同じ戦場で初陣を飾れるようにするという力の入れようだ。
それなのに、戦いに勝ったとはいえ、お祝いで用意したはずの戦場で、次男は戦死。
自分の息子を殺した奴は、ハイラムに倒されるけど、一命をとりとめる。
殺したいほど憎いのに、敬愛する王族のハイラムが身柄を引き渡してくれず、色々と軋轢のある獣人たちも反対してくるのだ。
戦場にいた獣人たちだけならともかく、自分の娘と結婚した義理の息子で、政治的に後ろ盾にもなっているハイラムが拒否するとは思っていなかったのだろう。
というか、マルスト侯爵との関係を説明されて、ハイラムが私を殺さない理由がわからない。
その場は、勢いと獣人の反対を警戒して私の命を助けてしまったのだとしても、様々な理由をつけて身柄をマルスト侯爵に引き渡す方法はあったと思う。
なにしろ、マルスト侯爵は王国貴族の有力者というだけじゃなくて、貴族たちの反亜人の最大派閥のトップ。
軍事と領地経営に関しては凡庸だけど、有力な権力者たちの利害調整や切り崩しを得意としている……らしい。
マルスト侯爵自身は、亜人が王国の軍や政治の要職につくのを嫌がってるけど、排斥や差別は否定する反亜人派閥のなかだと穏健な思想の持主。
だから、獣人が軍の要職に就くことを嫌がっても、戦場で一兵卒として戦うことは拒絶していない。
それが、マルスト侯爵という獣人と確執のある人物が率いる軍に、獣人たちがいた理由の1つ。
まあ、獣人はいつでも戦場を求めていて、付き合いのあるハイラムが行くから、率いるのがマルスト侯爵でも関係なく参戦した可能性はある。
そんなマルスト侯爵だけど、王国と王族への忠誠心が、極めて高い。
獣人を中心とした亜人との友好関係を深めているハイラムとしては、種族間のいさかいで起こる内乱の芽を潰して、王国を安定させるためにもマルスト侯爵の娘と結婚して味方にした人物だ。
それなのに、助けた。
私が殺したマルスト侯爵の次男のルスクスは義理の弟で、ハイラムはかなり慕われていたそうだ。
少なくとも、戦場で刃を交えただけの私よりも、付き合いは長くて親しいだろう。
転生者だからという理由以外にも、ハイラムには私を憎む動機がありそうなのに、そういう強い感情を抱いている印象はなかった。
もちろん、一定以上の警戒はしているんだろうけど。
まあ、以前はそのための魔道具の首輪で、今は契約魔法が、私の行動に一定の制約を科している。
それでも、戦場でのこととはいえ、大物貴族の息子で第3王子の義理の弟を殺していると考えれば、破格の好待遇だろう。
どうにも、これからの未来のことを考えると不安になってくる。
ハイラムが私を助けた理由は?
これから、闘技場での戦いに勝てば、よくわからないエンドレスインフィニットクロニクルのことも含めて、私にさせたいことも説明してくれるそうだ。
一応、私の斧を極めるという目的から大きく外れないと言っていたけど、考えると不安になってきてしまう。
英雄の気質でも持っていれば、強大で未知の先行きに、武者震いするのかもしれないけど、常人の精神構造を持つ私だと、過大な役目をやらされると思うのは恐怖でしかない。
もっとも、生路はこれしかないから、重苦しい恐怖にまとわりつかれて、深い霧のような不安で視界を覆われても進むだけだ。
それに、今日の戦いに勝利出来たら、村の親しい人達に私の生存を伝えてくれると、ハイラムは約束してくれた。
家族や友人を含む村の人たちと2度と会えないことも覚悟しているから、私の現状を伝えてくれるだけでも、心苦しさから少しだけ解放される。
「こちらです」
いつも通りの立ち振る舞いができるぐらいに、立ち直ったチャルネトに案内されたのは、闘技場で戦う剣闘士の控室という言葉のイメージから連想されるものよりも、綺麗でしっかりとしたものだった。
控室のなかにあるのは頑丈そうな木製のイスが1つだけだけど、目立つような汚れとかはない。
別に、疲れてもいないから、1つだけあるイスに座らないで、無機質な灰色の控室を無駄に見渡してしまう。
入ってきた扉とは別に、頑丈そうな扉が目に入って少しだけ気が重くなる。
あと少しで、私は扉のさきで戦うことになるだろう。
自分の人生を思い返して、自分が弱いとは思わないけど、勝てない相手というのはいる。
つまり、負ける可能性が十分にあるということだ。
……どうしよう、少しお腹が痛くなってきた気がする。
「あの……」
チャルネトが続く言葉を躊躇っているようだ。
マルスト侯爵に言われたことを気にしているのかもしれない。
「大丈夫です。獣人たちの考え方も、親切にしてもらったことも、この胸に刻まれています」
「ありがとうございます。マルスト侯爵の言う通り、あなたの逃亡を手助けしたりすることはできませんが、理不尽な戦いに挑むようなことにはならないと保証します」
「心強い言葉です」
笑顔で言うけど、内心で少しだけ不安になる。
獣人の言う理不尽じゃない戦い。
ゴブリンにドラゴンの相手をさせるようなことはしないけど、オーガクラスの相手なら平気で用意するだろう。
まあ、これから私が戦う相手を用意したのは、マルスト侯爵なんだけど。
一応、私を縛っている契約魔法に関係しているオシオン侯爵が、戦いとして成立するかジャッジするらしいけど、ある意味で信用できない。
契約魔法の魔道具でもある紙に自分の血でサインして、契約魔法を結んだ後に、熊族の獣人でもあるオシオン侯爵とは直接会ったけど、親戚の熊族のウルドムを殺しているのに、恨み言を口にすることなく英傑に相応しい戦いの場にすると、笑顔で言っていた。
強者に殺されるのは誉だと考えている獣人が、マルスト侯爵の用意した敵に対して、数や質で調整する。
完全なる善意で、苦難の道を用意することだろう。
私がハイラムと結んだ契約魔法は、マルスト侯爵とオシオン侯爵も同意している。
だから、マルスト侯爵が、結果に納得できないからといって、反故にするのは難しい。
不可能じゃないらしいけど、そのための対策をしているとハイラムが言っていたので、契約で科された試練を達成すれば、身の安全は保障されると信じたいところだ。
そして、契約内容の詳細は省くけど、簡単にいえばオシオン侯爵の管理している闘技場で、マルスト侯爵の用意した相手と戦って勝つというもの。
それも1回だけじゃなくて、その後も生き残れば週に1回戦い続けて、最終的に10回も勝利しないといけない。
明らかに勝てない相手は、オシオン侯爵が認めないけど、チャンスが10回もあれば私を殺せる絶妙な強さや条件の相手をマルスト侯爵は用意するだろう。
10の試練に立ち向かうとか、まるで英雄ヘラクレスのようだ。
まあ、ヘラクレスは色々あって、10じゃなくて12の試練に挑むことになるんだけど。
それに、私はヘラクレスのような人外の強さを持ち合わせていない。
愛用のクルム銅製の大斧も、鉄蛇草の布鎧も、身に着けていないから、不安になる。
今日の戦いに勝てば元々の持ち物を、布鎧以外は返してくれるそうだけど、今は手元にない。
代わりに身に着けているのは、革製のハーフパンツとローマ兵が履いていそうな革製のサンダル。
兜も帽子もなしで、上半身は裸だ。
まるで、剣闘士だな。
……いや、まさしく剣闘士か。
ハイラムにつけられた胸に大きく斜めに走る傷跡が、外連味を演出してより剣闘士っぽいかもしれない。
今日の相手は、1人じゃなくて複数。
一応、形式としては、私対多数じゃなくて、最後の1人になるまで殺し合うバトルロイヤル。
それも、集められたのは、それなりの戦闘力のある死罪人。
勝ち抜けば、彼らに完全な自由は無理だけど、ある程度の自由と死刑を回避できるそうだ。
相手が死罪人ということだから、人を殺すことへの忌避感で攻撃が罪悪感で鈍くなる可能性は低いかな。
でも、確実に、マルスト侯爵がなにかを仕掛けてきていそうで少しだけ不安になる。
それでも、これは、ハイラムからの私への試練でもあるのだろう。
転生者だろうが、この程度の試練を突破できなければ、ハイラムにとって生かす価値は私にないということだ。
なら、やるしかない。
次回の投稿は8月30日金曜日1時を予定しています。




