20 デビルウルフ
デビルウルフ。
フォレストウルフよりも一段危険なモンスター。
けど、これはフォレストウルフよりも、少しだけ強いことを意味しない。
なにしろ、フォレストウルフのモンスターとしての危険性は単体戦闘能力じゃなくて、群れで木々などの地形を利用した三次元的な連携による強襲だ。
つまり、デビルウルフの強さは、単体のフォレストウルフどころか群れを上回るということ。
ただ、デビルウルフはほぼ単独で、まれにフォレストウルフの咆哮で呼ばれたときに共闘することがあるだけで群れることはない。
だから、現状で追加のデビルウルフに襲われる危険性はないだろう。
倒す必要があるのは、単体のデビルウルフ。
それでも、全員が生存する道は蜘蛛の糸のように細い。
アプロアたち3人に視線を向ければ青い顔で、彫像のように固まって指先どころか、まばたき1つできないでいる。
少し期待してユーティリに視線を向ければ、そこにいるのは3人と同じように動けないでいる情けない引率の姿だ。
まあ、引率の姿としては情けないけど、この状況だと仕方ないし、笑えない。
私自身が、悪い未来を考えたくないから思考を放棄して、動くことを拒否しようとしている。
不都合な目の前の現実を直視しなければ、悪い現実が訪れることはないと願っているのだろう。
前世を足せば、この場で1番の年長者なのに、実に情けないことだ。
けど、すぐに、思考を動かして、体を動かさないといけない。
強者の余裕か傲慢か、運のいいことに、デビルウルフは走ることなく、ゆっくりとこちらに近づいてきている。
無限にはほど遠いけど、心身を立て直す時間はある……はずだ。
不規則で一定のリズムを刻まない鼓動、意識しても上手くできない呼吸。
凍り付いたように固くなっている体をほぐすように、斧の柄を強く握っては緩めるを繰り返す。
1度、大きく息を吐いてから、ゆっくりと深呼吸をして不安や恐怖を押し出して、デビルウルフと戦うことに没入できると思い込む。
まっすぐに、デビルウルフを視界に捉えると、無数の恐怖に覆いつくされそうになる。
誰かに優しく抱き留められるように腰が引けて、油断すると、1歩を踏み出さないでいい理由を探してしまいそうになる。
「……シャード、牽制を頼む」
口から出たのは、普段の自分のものとはかけはなれた、上ずってかすれた蚊の鳴いたような小さな声。
シャードの返事は待たない。
1歩が重い。
鉛の重りでも巻き付いているかのようだ。
体が固い、油切れを起こした機械のようにギシギシときしむような音が聞こえると思えてしまう。
でも、
それでも、
2歩、3歩と踏み出すごとに、体の動きが徐々に滑らかに力強くなる。
斧スキルを全力で起動。
デビルウルフが私を見据えた。
5人のなかで私が最初の標的になったようだ。
瞬間、踏み出す1歩が重くなり、前進を全身で拒否しようとしてきた。
狙い通りの展開だと強がって、自分を鼓舞する。
奥歯が砕けてもかまわないという強い気持ちで食いしばり、重心と姿勢がズレることも気にしないで強引に荒々しく地面を踏みつけた。
駆け出す。
まとわりつく恐怖とわき出す不安を振り払い、置き去りにするように。
視線はデビルウルフだけを見据え、そいつに斧を振り下ろすことだけを思考する。
起動している斧スキルを強く意識して、自身の体を把握して制御。
デビルウルフとの間合いと、移動速度を考慮。
デビルウルフまで、後3歩。
デビルウルフが体をわずかに沈める。
飛び掛かる前の予備動作。
さらに、正確に精密に、思考して思考して思考する。
後2歩。
野太い風切り音を従えて、閃光のように飛翔した矢がデビルウルフの眉間に命中。
けど、矢は無情にもかすり傷1つ負わせることなくはじかれる。
デビルウルフにダメージはない。
それでも、シャードが援護の1撃を放ってくれた。
無数の恐怖と不安に抗いやってくれた。
ただ、それだけで、勇気づけられる。
後1歩。
斧を振りかぶる。
見間違いかもしれないけど、デビルウルフが自分の勝利を確信したかのように笑った気がした。
実際、今までの歩幅だと、私の斧はデビルウルフに届かず、カウンターの1撃でやられてしまう。
でも、デビルウルフは理解していない。
最後の1歩は、斧を振りかぶっている。
つまり、斧スキルの補正が全身にかかっているのだ。
だから、今までの踏み込みよりも速く、大きくなる。
私の1撃がデビルウルフの攻撃よりも先に命中するはずだ。
視野が狙うべき1点へと集中する。
レベル3になって上がった身体能力と、8まで成長した斧スキル。
そのすべてを集約して、私の究極の1撃に昇華する。
静止状態で振るうのとは違い、突進の推進力を斧を振るう遠心力に変換して、振りかぶった赤い斧をさらに加速させていく。
全身をミリ単位で制御し、コンマレベルで動きを連結する。
ただ、ただ、集中して集中して集中していく。
心は不思議な高揚感に満たされているのに、恐怖に侵食されることなく凪いでいる。
爆撃のような赤い奔流が、目標に吸い込まれるように直撃した。
私にできる究極の1撃。
それが命中した。
けど、私の心に喜びはない。
どこかで、心が軋む音が聞こえた気がした。
その手ごたえはまるで、生き物というよりも、ゴムを巻き付けた鉄塊。
斧がめり込んで停止するぐらいは可能性として考慮していたけど、ほんの少しのかすり傷を負わせることなくはじかれるとは思っていなかった。
だから、斧を伝わって跳ね返ってきた衝撃を上手に逃がすことができずに、両腕がしびれと痛みが襲う。
敵前だというのに、思考が一瞬だけ空白になる。
胸の中心に灼熱を従えた衝撃が貫く。
軽々と数メートル吹っ飛び、背中から地面に落ちた。
「カハッ」
息ができない。
胴体の前後から種類の違う痛みに襲われ、呼吸を阻害される。
酸素を求めて大きく息をしようとすると、肺が激痛を伝えてきた。
ままならない呼吸、落ち着くことのない痛み。
そのままでいたほうが、肉体的には楽なのかもしれない。
けど、そんなわけにはいかない。
痛みという悲鳴を上げる体を無視して、上体を起こして愛用の斧を確認する。
吹っ飛んだ時に手放していないかと焦ったけど、無意識のうちに強く柄をつかんでいたのか、赤い斧は右手で持っていた。
視線を上げれば、デビルウルフが追撃をしてくるでもなく、その場でこちらを観測でもするように見ている。
余裕のあらわれか。
視線を下に向けて自分の鎧を見れば、爪で引っかかられたというよりも、えぐられたかのようにボロボロで防御力は期待できない。
白いキャンバスを赤く汚すように、ボロボロの鎧の亀裂から染み出すように血がにじんでいる。
程度はわからないけど、出血しているようだ。
けど、今はどうでもいい。
もしかしたら、重傷かもしれないけど、軽傷だと自分に言い聞かせて、しっかりと体の調子を確かめるように、ゆっくりと立ち上がる。
呼吸の度に痛みが自己主張してきて酸素が足りなくて、胴の前から鋭く焼けるような、胴の後からは鈍く深い、それぞれ種類の違う痛みが発生しているけど、その程度。
目標が見えて、歩けて、斧が振るえるなら、十分だ。
まだ、戦える。
私の全力の1撃は、デビルウルフにまったくダメージを与えることができなかった。
私を吹っ飛ばして、鎧をボロボロにしたデビルウルフの1撃は、全力にほど遠い牽制のジャブのようなものだろう。
どこまでも相手は強く、私は弱い。
けど、それだけだ。
いつもなら、不安と恐怖にさいなまれて絶望の海に沈んでいたかもしれない。
でも、今、私の心を占めるのは怒りだ。
デビルウルフへの不安や恐怖を塗り潰すほどの怒り。
さっきの1撃、薪や黒竹に振るったなら、完璧なものと言える。
けど、実際に振るった対象はデビルウルフ。
相手は強敵で、回避もすれば反撃もする。
そんな相手に、斧を振り下ろしたのに通じない可能性を考えないで、ごく自然に視野を狭めて相手の反撃の予兆を見落とした。
どこまでも気分の悪くなる怠惰な慢心だ。
斧を極めたつもりなのだろうか?
たかが、斧スキルの1桁で?
自分が情けなくて、自分への怒りをおさえられない。
さっきの1撃は、威力だけを言えば自分の出せる最高のものだろう。
けど、デビルウルフ相手に最適な1撃だったかと言えば明確にノーだ。
振るう対象を考慮しないなんて、どれだけ威力があっても矮小な自己満足でしかない。
私の1撃で、デビルウルフにダメージは与えられないだろう。
でも、そんなことは関係ない。
デビルウルフに最適な1撃を振るわないと、自分自身が納得できない。
それに、シャードはともかく他の3人は、まだ心身を立て直せていない。
なら、その時間を稼ぐ必要がある。
「いくぞ」
デビルウルフに、そして自分自身に告げるように口にした。
1歩踏み出して、前後から痛みの二重奏に襲われるけど意識的に無視する。
けど、痛みのせいなのか、肺が十全に仕事をしない。
全力で動ける時間と、体力の回復力を下方修正。
それを前提条件に動く。
デビルウルフを、観測して観測して観測する。
ささいな予兆も見逃さない。
こいつにとって、斧を叩き込まれたくないタイミングと場所は?
思考する。
振りかぶり、自分の体を精密に制御しながら、一瞬の遅滞なく観測して思考して検討していく。
デビルウルフの攻撃の予備動作を確認。
払うように斧を振るい、デビルウルフの顔面を横から直撃する。
ダメージは与えていない。
けど、斧に込められた衝撃は無効化されなかったようだ。
デビルウルフは少しだけ姿勢を崩して、やろうとしていた反撃ができない。
なにしろ、デビルウルフが姿勢を戻したときに、私は攻撃の反動を利用して距離を取っている。
格ゲー的に考えるなら、デビルウルフに対して私の攻撃はダメージ無効だけど、スーパーアーマーじゃないからデビルウルフは攻撃を食らうとノックバックが発生するというところだろうか。
だから、デビルウルフを観測して、反撃を潰すように攻撃して、攻撃しながら回避を考え、回避しながら攻撃を考える。
私の斧でダメージを与えられないデビルウルフの防御力と、牽制の軽い1撃でも鎧をダメにする攻撃力は脅威だけど、単純な敏捷性はフォレストウルフよりも高いとは思えない。
だから、今の私でも攻撃を命中させて、回避することがなんとかできている。
デビルウルフに命中した攻撃は10を超えるけど、ダメージは与えられていない。
でも、無駄じゃない。
攻撃するごとに、デビルウルフの姿勢を崩している時間が長くなってきている。
なんとなく、攻撃のこつがつかめてきたような気がする。
けど、このままじゃダメだ。
デビルウルフに反撃を許すことなく、足止めできているけど、こんなのは時間稼ぎでしかない。
それに稼げる時間は無限じゃない。
予想外だけど、傷を無視して無理をさせた肉体よりも、頭のほうが持たない。
デビルウルフを観測して、どんな反撃か、その場合の動きの起点と重心の動きを予測する。
相手の姿勢が長く崩れるように、攻撃のタイミングと位置を見極めて、想定通りに体を酷使して斧を制御する。
言葉にすれば簡単だけど、この思考に慣れていないせいか、処理落ち寸前だ。
グラボなしのパソコンで、推奨スペックの高いゲームを無理矢理起動させているようなもので、いつフリーズしてもおかしくない。
そんな雑念のせいなのか。
「クソッ」
斧は命中したけど、タイミングと位置が悪い。
デビルウルフの姿勢を崩せていない。
反撃がくる。
すでに、私は回避動作に入っているけど、もう少しデビルウルフの姿勢を崩せている前提で考えていたから、かするようにだけど命中してしまう。
私の横をかすめるように一条の暴力が駆け抜ける。
「ガギャアアウウウゥ」
右目を射抜かれたデビルウルフが狂乱するように咆哮をあげる。
我々がデビルウルフに与えた最初のダメージ。
だけど、致命傷にはほど遠い。
後退して、デビルウルフから距離をとる。
「ユーティリ、奥義を準備」
私の言葉に、ユーティリはうめくようなかすれた声で応じた。
「な、なにを……」
「今、この場にいるメンバーでデビルウルフを殺せるのはあなただけです」
数字上のレベルとスキルよりも精度の低い動きしか確認できなかったユーティリだけど、タメ切りの1撃はここにいる5人のなかで1番の威力だ。
彼のタメ切りがデビルウルフに通じなかったら、私が足止めしている間に、4人に撤退してもらうしか被害を最小限にする方法がない。
「で、でも、デビルウルフを相手に、あんなにすきが大きい技が当たるわけないだろう」
ユーティリの言葉は的を射ている。
タメる予備動作と時間が必要な、あの攻撃をデビルウルフに命中させるのは難しい。
けど、そんなことはささいな問題でしかないのだ。
なにしろ、
「できなければ、全滅です」
生きようと思うなら、他に選べる手段なんてない。
「…………」
恐怖で青かったユーティリの顔が、自分の双肩にかかる責任の重さで白くなっている。
いい状態とは言えない。
だから、声をかける。
「大丈夫です」
「……なに?」
「タイミングは私が作ります」
片目を射抜かれた痛みから立ち直ってきたデビルウルフを見据えながら、斧をゆっくりと構えた。
右目に刺さったままの矢をつたって血がしたたり落ちている。
手負いで、視野が半分。
なのに、存在感と威圧感は、減るどころか増している。
全身の肌がヒリつくけど、恐怖で腰が引けたりはしない。
相手を手負いと侮ることも、自分への慢心も封殺する。
ただ、ただ、愚直に、素早く、観測して、思考して、相手の動きを止めて見せよう。
「クソッ、絶対に止めろよ」
震える声で、そう言いながらユーティリは片刃の大剣を上段に構えて、力をタメ始める。
かすかに口角が上がるのを自覚しながら、デビルウルフの死角側から間合いを詰めようとした瞬間に、ゾクリと氷のなにかで背中をなでられたような気がした。
理由も、理屈もわからないけど、死角から攻めるのは悪手だ。
なぜか、そのことだけは確信できた。
「ファイス!」
アプロアが後ろから、声をかけてくるけど、振り返って確認するヒマも、分析する余裕もない。
観測する。
どうすればいい?
1歩、進んで距離が近くなる。
なにが、正解?
引き絞った弓のように、デビルウルフが身を伏せる。
攻撃の予備動作。
思考する。
斧を振りかぶる。
どこを攻撃すれば?
いつ攻撃すればいい?
最適解は?
デビルウルフの攻撃時の重心の流れは予想できる。
それを押しとどめるように、攻撃を合わせるか?
ダメだ。
ユーティリの大振りを命中させるほどのすきはできない。
デビルウルフの攻撃のタイミングで、足払いのように斧を振るうのはどうだろう?
やれそうではある。
問題があるとすれば、回避を前提とした間合いや動きだと、上手くデビルウルフを転倒させることができないだろうということだけだ。
さっきまでの攻撃よりも、1歩、深く踏み込んで、回避を前提としない全身全霊の攻撃。
デビルウルフが転倒しなかったら?
デッドエンド。
回避の可能性を入れたら、ユーティリの攻撃は命中しないだろう。
そうなったら、やはり、デッドエンドだ。
なら、なにがなんでも成功させるしかない。
私が回避を捨てた攻撃でデビルウルフを転倒させて、ユーティリがとどめを刺す、それだけだ。
デビルウルフの体が動く。
踏み込みのタイミングと、距離と、位置を調整。
最後の1歩を踏み込んだ瞬間、心臓が締め付けられたような気がした。
死を隣人とした、死地にいる境地だろうか?
ああ、実にさじだ。
集中して、集中して、集中する。
転倒させることができずに、反撃される可能性?
失敗の可能性を思考して、妄想する余裕なんてない。
自分の持ちうるものを全力で投入する。
斧スキルに導かれて、私が生み出せる力のすべてが、赤い軌跡を描きデビルウルフの前足を払う。
デビルウルフは面白いように回転して、転倒した。
ダメージはない。
でも、デビルウルフが体勢を立て直して、反撃をするよりもユーティリのほうが速い。
「ハアァァァ」
ユーティリが高速で赤い大剣を振り下ろす。
構えも、踏み込みも、振りも、酷い。
美しさの欠片もない。
けど、威力はある。
「グウアギャアァ」
頭を切り落とすように振るわれたタメ切りは、デビルウルフの防御力を突破して、首にめり込むけど、切り落として殺すまでには至らない。
重傷で、数分後には出血多量で死ぬかもしれない。
でも、それは死ぬまで数分かかるということ。
首を半分まで切られても死なない手負いのデビルウルフ。
大量の血をまき散らしながら、残っている殺意に満ちた目で私を見据える。
回避?
不可能。
間に合わない。
ボロボロになった鎧じゃ防御力は期待できない。
生路なし。
反撃がくるとわかっているのに、対処法がない。
回避、反撃、防御。
すべて、間に合わない。
それでも、思考は不可能を演算し続けるけど、解に至らないだろう。
「うおっ」
デビルウルフの死をまとった爪が、眼前で空を切った。
死地より救出してくれた恩人は、私を抱えたまま青い顔で震えている。
エピティスが、恐怖に支配されながらも動いてくれた。
「イエェェェ」
気迫のこもった声と共に振るったアプロアの大剣が、首のなかほどで止まっているユーティリの大剣の峰を叩く。
「グバァ」
断末魔と共に血を吐きながら、デビルウルフの首が、胴から離れて地面に落ちる。
次回投稿は1月29日を予定しています。




