9 フォレストウルフ
「ハァアアアァ」
気合の声と共に赤い色をした愛用のゴブリン銅の斧を振るう。
けど、
「チッ」
刃はモスグリーンの毛皮を裂いて肉に食い込むことなく、虚しく空を切る。
フォレストウルフは、こちらの攻撃を余裕で避けてしまう。
すぐに、フォレストウルフがわずかに身を沈めて、こちらに飛びかかろうとするけど、鋭い風切り音を従えて飛んできた矢を避けるために、大きく後方に飛ぶ。
シャードの援護に感謝しつつ、安堵の息を吐く。
フォレストウルフの視線が矢を放ったシャードに向くけど、アプロアとエピティスが素早くカバーに動いて、シャードを攻撃することを許さない。
左の後ろ足を負傷していて、モスグリーンの毛並みを血で汚しているのに、このフォレストウルフは十分に敏捷だ。
これでもフォレストウルフが十全なときに比べれば十分に鈍足なのかもしれないけど、それでも私たちにとって脅威であることにはかわらない。
目の前のフォレストウルフは手負いだから、時間が経過していくほど疲労が蓄積して、私たちが有利になるって少しだけ期待していた。
儚い期待だった。
フォレストウルフと交戦を開始して、それなりに時間が経過しているけど、疲労で動きが鈍くなるような様子はうかがえない。
もしかしたら、このフォレストウルフは疲労が蓄積しないように、動きをセーブしている可能性もある。
それでも、対処に困るフォレストウルフの敏捷性。
けど、それよりも私のほうが問題だ。
フォレストウルフよりも先に、体力がつきて動けなくなるかもしれない。
子供だけでの初めての魔境探索で、最初から疲労があったとかの理由もあるけど、それ以上に命がけの戦いがきつい。
深い呼吸と浅い呼吸が入り乱れて必要以上に酸素を消費して肺が新鮮な空気を求めてあえいで、工事現場の爆音のように心臓がうるさくて、緊張という名の見えない鎖が全身に絡みついて動きを阻害する。
いつも通りの平常心には程遠い。
限りのある体力を必要以上に浪費してしまう。
戦いに臨む覚悟は確保できても、恐怖を完全には振り切れない。
私のなかの冷静な精神状態は、どうにも品切れのようだ。
漠然とフォレストウルフが怖くて、噛まれるのが怖くて、痛みが怖くて、死ぬのが怖くて、アプロアたちの死が怖くて、双肩にのしかかる仲間たちの命の重みに対する責任が怖い。
怖がっている場合じゃないって、頭では理解しているけど、頭で理解しているだけだ。
深い恐怖の色をした触手のような膜に心が絡めとられて、十全に動けない。
それでも、フォレストウルフに蹂躙されることなく、現状を拮抗させることができているのは、アプロアの指揮の下で私たち4人が力を合わせて連携しているからだろう。
アプロアの指揮のもと、前衛をつとめている私の一撃が外れても、シャードの矢が牽制して、シャードに目標が移ったら、エピティスとアプロアがカバーに入っている。
でも、私だけじゃなくて、この4人に言えることだけど、普段の素振りとかの動きに比べると、どこかぎこちなくて硬い。
全員のパフォーマンスが普段通りだったなら、このフォレストウルフはとうの昔に食材になっているはずだ。
「ガルゥ」
「チッ」
またも、斧が空を切る。
フォレストウルフも私の斧を振るう速度に慣れてきたのか、余裕で避けて嘲笑を浮かべているように吠えた。
気持ちの問題で斧を上手に振るえていないというのもあるけど、それ以外にも攻撃時に一歩深く踏み込めていない。
攻撃開始時点では、踏み込む覚悟を完了させているのに、いざとなると鉛で覆われたかのように足が重くなって踏み込みが浅くなる。
もう少しだけ相手の方へ深く踏み込めば、フォレストウルフに斧が当たる確率が上がるってわかっているのに、色々な意味で、その一歩が遠い。
このまま無闇に、同じことを繰り返しても状況は悪くなるだけ、それはわかるけど対処方法が思いつけないでいる。
私たちの体力がつきるか、要所でフォレストウルフを牽制してくれているシャードの矢がつきてしまったら、私たちのエンドロールが開始してしまう。
これでも、状況としては最悪じゃない。
フォレストウルフの恐ろしさは、単体での戦闘能力じゃなくて、木々を猿のように動く機動性と群れでの連携。
理由はわからないけど、このフォレストウルフは単独で行動していて、動きの要となる後ろ足を負傷していたから、子供4人でもなんとか戦闘になっている。
それに、こちらを格下だとなめているからなのか、他のフォレストウルフを呼び寄せる遠吠えをしていない。
傭兵や冒険者ですら、出会ったら速攻で全滅させないと、仲間を呼び寄せる遠吠えによって無限に増え続けて、フォレストウルフの波に潰される。
だから、このフォレストウルフが、遠吠えを使わないのはありがたい。
ここに、もう1体でも、フォレストウルフが追加されたら、対処は無理だろう。
「落ち着けファイス、お前の斧の威力なら、当たればあいつはくたばる。自分の力で獲得したスキルを信じろ」
「スキル…………あっ」
アプロアの言葉で、重要なことを思い出した。
「ファイス、どうかしたのか?」
「いや、なんでもない」
不思議そうにするアプロアに対して、急いで誤魔化す。
普段なら気づかれるかもしれない、つたない誤魔化しだけど、フォレストウルフとの交戦中という緊張状態なら気づかれていないと信じたい。
小さく吸って、大きく吐く。
息を止めて、斧を振ることに没入する。
ノイズのように、ゆらゆらと無数の触手のような不安と恐怖が心をなでて邪魔をしてくる。
けど、今度は大丈夫。
確信がある。
次に、私の振るう斧はフォレストウルフを捉えると。
「ガァアアアァ」
フォレストウルフが吠える。
空気が震えて、私の肌を叩く。
耳だけじゃなくて、心まで響いて萎縮してしまいそうになる。
さっきまでなら、萎縮した心に引きずられて体まで萎縮して、動きが鈍くなっていた。
でも、大丈夫。
ただの威嚇の咆哮。
仲間を呼び寄せる遠吠えじゃない……と、思う。
斧スキルを全力で起動。
目標は迫ってくるフォレストウルフ。
心を凪いで、体は脱力。
斧スキルの導きに従い、体を全力で制御。
心身が乱れていても、斧スキルが的確にアシストしてくれる。
私のイメージを上回る速度で、乱れることなく正確に斧を振るう。
「ギャァウウウウァ」
フォレストウルフが血をまき散らしながら、苦痛に満ちた咆哮を放つ。
「チッ」
斧はフォレストウルフの体を捉えた。
けど、致命傷にはほど遠い。
首を狙ったのに斧が切り落したのは、フォレストウルフの右の前足。
フォレストウルフは斧が当たる直前で身をよじって、右の前足を犠牲に首への直撃コースを避けてみせた。
ダメージとして、決して軽くはない。
動きにも大きな制約がつく。
けど、それよりも大きな問題がある。
フォレストウルフの牙が、私の首へ迫っていた。
右の前足を失ったことで、距離を取るんじゃなくて、逆に距離をつめて反撃に転じてくるとは思いもしない。
油断だ。
気づくのが一瞬だけ遅かった。
回避は不可能。
だから、
「クソッ、ガァアアアアァ」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
痛くて、痛くて、とにかく痛い。
メキメキという音は聞こえない。
けど、メキメキと響かせて砕けていると、私の左腕の骨が泣きわめく。
足の小指をタンスの角にぶつけたときに、泣きたくなるほど痛いって思うけど、これはそれの比じゃない。
まったく、泣きたいなんて思わない。
それよりも、ただ、ただ、痛みの波が限界を振り切っているから、痛みから逃避するために精神をオフにして気絶したくなる。
1秒だって、意識を保って激痛に満たされた記憶を認識したくない。
だから、気を抜いて流れに身をゆだねれば、すぐに気絶できるって確信できてしまう。
けど、その誘惑に身を任せるわけにはいかない。
なにしろ、現在進行形で首をかばうために差し出した左腕にフォレストウルフが噛みついている。
こんな状況で気絶なんてしたら、このフォレストウルフに永眠させられてしまう。
それに、微妙な力、精神、重心とかのバランスで、転倒することを避けられている。
一瞬でも気を抜いたら、フォレストウルフに倒されて蹂躙される未来しかない。
毎日、斧を振るって子供にしては鍛えられてると思うけど、私の腕にフォレストウルフが嚙み砕くのに耐えるほどの強度なんてあるわけがない。
数秒後には、フォレストウルフの上あごと下あごが閉じられてしまう。
だから、
「アァアアアァァァーーー」
左腕から発せられる脳をマヒさせるような激痛をかき消すように、気合とも呼べない力任せの叫び声を上げて、噛まれている左腕を押し込むようにしながら、斧を手放して自由になった右腕をフォレストウルフの首の後ろに回して強引に抱き着く。
「ヴゥウウウウゥ」
「ガァアアアアァ」
フォレストウルフの私の腕のせいでこもったような唸り声と、私の絶叫が響き合う。
フォレストウルフは離れようと身をよじる。
フォレストウルフが暴れると、噛まれてる左腕がさらに痛い。
もう、フォレストウルフを解放して、楽になりたいって思考が脳裏でささやく。
思考を停止させて、ささやきに耳をかせば、一時的に楽になるかもしれないけど、結末はバッドエンドでデッドエンドだ。
ハッピーエンドじゃない。
だから、拒絶する。
アプロア、シャード、エピティスの友人たちの命運がかかっているんだって、強く意識して歯をくいしばる。
「ハァアアアァ」
気合と共に、密着した状態からフォレストウルフに膝蹴りを放つ。
スキルの補正もない、レベル1の子供が放つ膝蹴りじゃダメージは期待できない。
けど、私のような子供の膝蹴りでも、狙う場所によっては嫌がらせになる。
そう、例えば、斧で切り飛ばされた前足の傷口とかだ。
「ヴァオオオゥ」
傷口への膝蹴りがよほど痛かったのか、フォレストウルフは大きく反応して体を硬直させる。
好機。
「アプロア!」
私の言葉に、アプロアは迅速に反応してくれた。
美しい軌跡で片刃の大剣を振るうと、フォレストウルフの首を切り落としてみせる。
「やりましたね」
私の笑顔での勝利宣言に、アプロアたち3人は苦笑で応じた。
まあ、抱えたフォレストウルフの首を失った胴体から血が噴き出たから、私は血塗れで酷いことになっている。
けど、勝利は勝利だ。
左腕は現在進行形で死ぬほど痛いけど。




