女神の登校
それは凄まじい騒音だった。
それまで深い眠りの中にいた 美城神楽は、突然室内に鳴り響いた訳の判らない騒音で目を覚ました。
音に鬼気迫るものを感じ、ベッドの横に置いておいた剣に手を伸ばし辺りを睨みつける。
しかし音の発信源が判ると一気に気が抜け、彼女は思わず小さな溜め息を一つ漏らした。
騒音の正体は、昨日購入したばかりの携帯電話の目覚ましアラーム機能によるものだった。
――時刻は午前六時三十分。
まだ眠い目をこすりながら、神楽は耳障りな騒音を、慣れない手付きで携帯電話を操作しどうにか静止させ、室内に静寂を取り戻すことに成功する。
自分が指定した時間に起こしてくれるのはありがたいのだが、どうにも落ち着かない起床になってしまう。
明日からは、せめてもう少し心地よい音で目を覚ましたいと思いながら、神楽はゆっくりとベッドから立ち上がった。
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身支度を整え、鞄を持ちマンションの部屋を出る。
ベランダの窓から出入りできれば早いのだが、何しろ人間は単独で空を飛ぶ術など普通は持たないので、自粛し神楽は彼らに合わせることにした。
エレベーターを初めて見た時、神楽は驚いた。
故郷の天界ではこのようなものは見たことがない。
どうやら自分が予想していた以上に、地上世界の文明は発達していたようだ、と彼女は認識を改める。
無機質な電子音とともに一階に到着し、神楽は扉の外に出る。
玄関で掃き掃除をしている管理人に会釈し、駅へ向かって歩き出した。
今日から神楽は学校に行かなければならない。
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美城神楽は人間ではない。
人間から神と呼ばれる存在であり、通常は天界(神々が暮らす世界)から地上世界(人間が住む世界)を監視し秩序と治安を維持する役目を担っている存在である。
地上世界の秩序や治安維持と言っても、基本的に人間同士の紛争や揉め事に彼女が干渉することはない。
彼女が介入するのは、人間たちが自身で解決できない状態に置かれた時だけである。
今回、神楽は新たな任務のために地上世界に赴いたのだが、こちらの世界の日常に紛れ込むのに、彼女は学生という立場を選ぶことにした。
私立 白鷺学院高等学校2年3組――美城神楽
それが今日から、地上世界での彼女の社会的身分だ。
──予鈴二十分前。
神楽は学校の正門に辿り着く。
この学校は私服登校が認められているので、様々な服装の男女の姿が敷地内で見られた。
昇降口へ足を踏み入れると学生で混みあっており、自分の下駄箱に辿り着くのに予想以上に時間を要する。
「美城さんおはよう」
神楽の偽名が呼ばれる。
声がした方を振り向くと、二人組の女子生徒が神楽に向かって軽く手を振っていた。
「おはようございます」
挨拶を返すものの、神楽は彼女たちのことを知らない。
学生としてこの学校に来るのは初めてだからだ。
しかし、神楽は自身に魔術をかけ、『美城神楽は以前から、この学校に在学している学生である』と周囲に錯覚させている。
この学校での生活がいつまで続くか判らない以上、可能な限り無用なトラブルは避けなければならない。
だから、学校内では理想的な人間を演じ、浮いた存在にならないようにしようと神楽は考えていた。
「失礼ですが、同じクラスの方だったでしょうか?」
そう尋ねると女子生徒二人はポカンと顔を見合わせ、ゲラゲラと笑い出した。
「何? 美城さん。いきなり朝から冗談?」
「ってゆうか、美城さんも冗談とか言うんだね?」
反応から察するにクラスメートらしいと神楽は理解する。
しかし大笑いされたことは神楽にはどうにも不愉快だった。
「……そんなに笑わなくともいいではありませんか。単なる事実の確認です」
「事実の確認って、何だか朝から難しいこと言うんだね。まあ、いいや。さっさと教室行こうよ」
正直な所、神楽にしてみれば何も良くなかったが、とりあえずゲラゲラ笑いが収まった所で、素直に彼女たちとともに教室へ向かうことにした。
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様々な不安を抱きながら初の学生生活に臨んだが、我ながら上手く演じられていると神楽は思った。
授業内容は特に問題なく理解できたし、休み時間に他の生徒に話し掛けられた時は、多少内容が判らなくとも「ええ、そうですね」と答え頷いておけば、ある程度対応できる事に気が付いた。
四時限目が終了し、チャイムが昼休みの開始を告げると、周りの生徒たちが食事を広げ始める。
神楽が周囲の様子を伺っていると声をかけられた。
「美城さん、一緒にご飯食べようよ」
「美城さんの机に集まるね」
朝、彼女に話しかけてきた女子二人組だった。
しかしその提案には問題があった。
「……食事を持ってきていません」
「えっ? 今日お弁当持ってきてないの?」
自慢にならないことは神楽自身承知しているが、彼女は自分で料理をしたことがない。
従って昼食に弁当を用意する考えはなかった。
「はい、ですので私は食堂とやらに行こうと思いますので、どうぞお二人で召し上がって下さい」
「えっ、食堂!?」
女子二人組は驚いたように顔を見合わせた。
「あー食堂はダメダメ。あそこは男子の戦場で、女子が入り込めるような場所じゃないよ」
ロングヘアーの女子の言葉に、眼鏡をかけたもう一人の女子も頷いた。
「だいたい美城さんは男子たちに狙われてるんだよ。あんな飢えた獣の巣窟に行くなんて無防備すぎ」
その言葉に神楽は凍りついた。
……戦場。
……狙われている。
……飢えた獣の巣窟。
食堂が戦場とは一体どういう意味だろうか?
いや、それ以上に自分が男子から狙われているというのが理解できない。
登校初日だというのに、自身では気付かない間に早くも男子を敵に回すような行動を取っていたのだろうか?
思いがけない女子二人組の言葉に、神楽の脳内は情報処理が追い付かない。
いずれにしても予備知識通り、学校とは一筋縄では行かない場所のようだ。
彼女たちのいうことが事実なら、食堂に行くのは考え直すべきだろうと神楽は結論付けた。
「お二人の助言に感謝します。食堂に行くのは見合わせる事にします」
食事を抜くのは辛いがやむを得ない。
結論を出した神楽は、女子二人組に礼を言い席に戻ろうとした。
「私たちのお弁当、分けてあげるからおいでよ」
眼鏡の女子がおにぎりを私に見せる。
「……よろしいのですか?」
思いがけない彼女の提案に、少し戸惑いながら神楽は尋ねる。
「いいよいいよ、いつもみたいに一緒に食べようよ」
『いつもみたいに』
勧められた弁当を受け取りながらも、神楽はその言葉に少し動揺した。
彼女たちの好意は神楽が偽った記憶から生み出されたものに過ぎないのに、神楽はそれに甘えようとしているからだ……
気のせいだろうか。
その事に少しだけ神楽は胸が痛んだ気がした。