第2話
それから数ヶ月後。新たな聖女が現れたと国中で噂になった。
年齢は16歳。メリッサが聖女になった年と同じである。聖女は王都に迎え入れられ保護されたと、メリッサの耳にも入った。
(前の聖女とは全くタイプが違う、と村人が話していたわ)
正直、メリッサは新しい聖女の話を聞きたくなかった。それでも噂は人伝いに拡まってくる。
メリッサが今住んでいるのは、王都から馬車で数時間かかる静かな農村だ。畑や田園が広がり緑豊かなこの土地は、メリッサの故郷を思い出す。
メリッサには帰る場所が無かった。
8年前の大飢饉で、メリッサの両親は流行病に倒れた。食糧も医者も足りない状況で充分な治療もできず、メリッサが聖女になり王城へ招かれて数日後に願い叶わず亡くなってしまった。
間に合わなかったと、嘆いて泣いた悲しみは、国を救う為の原動力となった。
あれから8年も経ち、生まれ故郷は別の男爵領になったと聞く。
王城を離れ、聖女の肩書を無くしたメリッサは、本当に何も無くなったのだと実感した。
だが、人々の期待とプレッシャーから解放されたのも事実だった。
メリッサは聖女として、やれるだけの事はしてきたつもりだ。それを誇りに世代交代を受け入れ、今はこの村にいる。
「メリッサちゃん、今日は立派なトマトが取れたのよ。良かったら食べてちょうだい」
「バリーおばさま。いつもありがとうございます。まぁ、綺麗でみずみずしいトマト。こんなに頂いて良いのですか?」
「いいのよ、どうせウチじゃ食べ切れなくて腐っちゃうもの。それにメリッサちゃん、そんなに細いんだからもっと食べなきゃ駄目よ」
「もぅ、これでも力はあるんですからね!今日もお手伝いできることあれば言ってください」
大きなカゴいっぱいに持たされた真っ赤なトマトを手に、メリッサは笑う。
メリッサは貯金を切り崩して、村の外れに小さな家を買った。近所のバリー夫妻は人柄も良く、新しく移住してきたメリッサをとても可愛がってくれる。
バリー夫妻の紹介で村人との交流も広がった。
今は、近所の子供達を集めて勉強を教えたり、洋服の繕いや家事の手伝いなどをして、一人で生活出来る程度の生計を立てている。
(食べ切れないほどの食べ物があるなんて…ふふ…豊かな国になったのね)
生活の豊かさは心の豊かさだ。
8年前は、誰もが心を枯らし、生きていくのが精一杯で、他人を思いやる余裕は無かった。年寄りは物乞いをし、大人達は必死に働き、子供達はスリや盗みをし、喧嘩やいざこざも絶えず治安も悪化していった。
それが、今ではどうだ。
子供達は野山を駆け、村人は世間話に花咲かせ、皆楽しそうに笑っている。
聖女の仕事に明け暮れていたメリッサは、外の世界を久しぶりに見て、胸がすく思いだった。
すでに力を失っても、祈らずにはいられない。
(この国の人々が毎日幸せでありますように)
メリッサは天まで届かなくても純粋な祈りを捧げ続けるのだった。
◇
村からしばらく歩くと、商人達が行き交う小さな市場がある。
村人にとって貴重な生活源であり、収入の場所だ。メリッサは週に何度か市場まで足を運び買い物をする。
旅商人もよく集うこの場所は、地方の珍しい商品も時々見られる。
噂好きなバリー夫人は、よく旅商人から地方の噂話を聞いては話してくれる。
(今日は珍しい野菜があるわ)
メリッサの故郷の近くにある、馴染みのある野菜に目が止まる。
「いらっしゃい」と声をかける旅商人の服装も、故郷の衣服に似ていた。
「もしかして、パラステ地方の方ですか?」
「えぇ、前聖女様の生まれ故郷、ラディン村の出身です」
「ラディン村…」
馴染みのある名前に、メリッサはハタと止まった。商人は誇らしげに更に続ける。
「あの大飢饉を救ってくださった、メリッサ様の村ですよ。今では信者が頻繁に訪れて、昔と比べ物にならない栄えた町になりました」
「…そうなんですか」
思いがけず自分の故郷の様子を聞いて、メリッサは言葉を濁す。信者なんて大それたモノ、従えた記憶はない。
「最近、新しい聖女様が現れて、やっとメリッサ様も仕事を終えたんですね。ずっと働き詰めだったんだ。ようやくゆっくり休んで、王太子殿下とご結婚できるって村も祝福ムードです」
「え…?」
(どういうこと?私が居なくなったことを、世間はまだ知らないのかしら)
メリッサの頭に僅かな疑問が湧いた。新しい聖女が現れたのならば、婚約の話も無くなったと国民が思っているはずだった。
「お嬢さんも、メリッサ様の信者なんですかい?今はメリッサ様に憧れて金髪のウェーブの髪型が流行ってますもんねぇ」
「いえ、…」
本人で地毛とも言えず、言葉を濁らせた。最近の髪型の流行など知らなかったが、確かにメリッサと同じ髪型の女性は多く見かける。わざわざ染色をして金髪にする淑女もいるらしい。
慕われるのは素直に嬉しい。だけれど、今度の聖女様はメリッサと真逆の黒髪ストレートだと聞いた。やがて彼女の信者が増え、町に黒髪の女性が増える日も近いだろう。
メリッサは、故郷の話が懐かしく、商人から野菜をたくさん買った。パラステ地方の野菜をたっぷり入れたスープを作ろう。隠し味にハーブを入れたそれは、亡くなった母の得意料理だった。
(殿下に作って差し上げた時も、美味しそうに食べてくださったわ)
数年前。治安が落ち着き、滞っていた流通が再開したころ、王城の調理場を借りて料理を作ったことがある。『聖女様が下女のようなことをしてはいけません』と侍女たちが慌てて咎めるが、王族でない自分が止められる謂れが分からなかった。貴族とはいえ辺境の身分の低いメリッサの家は、侍女も少なく家の仕事も毎日手伝っていたし、母も時々調理場で腕を振るっていた。
手際よく調理をするメリッサに、やがて侍女たちは言葉を噤み、出来上がった料理に感嘆の声をあげ舌鼓を打つ。
その様子を殿下は驚き誇らしげに微笑みを浮かべていた。
(あれから何度か料理を作っては、殿下は残さず食べてくれたっけ)
懐かしさを感じながら、家路を歩く。
すると市場を抜けた先に、人だかりができていた。軍服を着た男性達が女性を引き留めている。
「検問しているらしい」
「金髪ウェーブの女性を探しているぞ」
とざわざわとする会話が耳に入る。
検問の男性の中に、見覚えのある顔があった。殿下の側近、ジル騎士団長だ。
メリッサは驚き、慌てて服のフードを深く被った。金髪ウェーブの女性がメリッサの事だとしたら、自分を探しているのではないか。何も言わずに王城を出て行ったことを咎められるのだろうか。怖くてメリッサはその場を離れた。
(8年間、身寄りのない私の生活の面倒を見てくれたのに…恩知らずだもの。きっとご立腹なのね。…でももう少し気持ちの整理がついたら、謝りにまいりますから。ごめんなさい、…今は殿下に会いたくないの)
道を外れて森に入り、村へと戻ることにした。
離れても思い出してしまう殿下の笑顔を振り払って、メリッサは速足で家路を急いだ。