婚約者の王太子殿下と異母妹の様子がおかしいのですが私は隣国へ帰れますか?
「ナティア、久しぶりだな」
ロイスには色々と言いたい事があった。あったけれど、その全てを飲み込んでなるべくにこやかに声を掛けた。
五年振りに姿を見せてくれた己の婚約者に。
緊張した。
けれどようやく会えた喜びの方が大きかった。
例え彼女がロイスの贈ったドレスを身に纏っていなくても。例え彼女がロイスの贈ったアクセサリーを何一つとして身に付けていなくても。
それでも久方ぶりに会う彼女は美しく成長していてロイスの心を改めて虜にした。
「…………」
「お姉様、お姉様! 呼ばれていますよ」
「え? ええ……と、どちら様?」
「……冗談が過ぎる。自身の婚約者すら忘れたのかい?」
「婚約者? えええ……婚約してたんですか、私」
「してますよ! お姉様、しっかり!」
何故そこで戸惑う。戸惑いたいのはロイスの方だ。
目の前が真っ暗になったような錯覚を覚えて、ロイスは軽く頭を振った。悪夢のようだった。
「ロイス。僕はロイスだよ。覚えていないかい?」
「ん? え、ロイス様!? ……お久しぶりです」
「そうだね。君の所の領地で会ったのが最後だ。五年振りだね」
「…………そう、ですね。お元気そうで何よりです。あの、レリアはこちらですよ」
「私の紹介をしてどうするんですか」
もう限界だ。
こんな言葉を吐いておきながら、目の前で何事も無く平然としている少女に対してロイスは怒りで震えていた。
握り締めた手の平の痛みすら感じない。
「王太子殿下……」
そんなロイスの手にそっと触れたのは、怒りの元凶である婚約者ナティアの妹レリアだった。
「そんなに握り締めたら痛めてしまいます」
取られた手をそのままにしていると、レリアはロイスの強く握り締めた手をそっと広げた。
案の定、手の平には食い込んだ爪痕がくっきりと残っている。特に力が入ってしまった中指部分には血まで滲んでいた。
「ああ、やっぱり……。なんてこと」
レリアがすぐにハンカチを取り出して手当てをする姿をぼんやりと眺めながら、ロイスはやはりナティアとレリアは姉妹なのだと改めて実感していた。
婚約した頃のナティアと今のレリアは仕草がそっくりだ。声も似ている。
ナティアが様変わりしたのはいつからだろう。
昔は今のレリアのように優しく慈愛に満ちていて、間違っても無神経な言葉を吐くような子では無かった。
だけどロイスは気付いている。
ナティアは心が清らかで本当に優しいけれど、妹の方はそんな姉を真似ているだけで純粋な優しさではない。
先程からちらちらと姉の方を見ては唇だけ動かして何か伝えようとしている。それを視界に入れない為にナティアは視線を逸らしているようにも見えた。
「もういい。気にしないでくれ」
するりとレリアから手を奪い返すと、冷徹な目はそのままにロイスは再びナティアへと向き直った。
我関せずと言わんばかりにロイスの婚約者はロイスを見もしない。
そもそも、婚約するまでは仲が良かったのに、正式に婚約してからは今日まで全く会えなかった。そればかりか、代わりにと言わんばかりにレリアとばかり会わされた。
意味が分からない。
ロイスはナティアが好きだった。だから婚約を申し込んだ。
了承されて天にも昇るようだったのは僅か数日だけ。
会いたいと手紙を出しても断られ、あまりにも会えなくて焦れて不躾だとは分かっていても先触れも無く訪れても不在。挙げ句には茶会や夜会にすら顔を出さない始末。
そんなに婚約が嫌だったのかと絶望した。
ナティアはデビュタントにすら現れなかったのだから絶望も一入だ。
ロイスが贈ったドレスを身に着けて現れたのはいつも妹のレリアだった。アクセサリーも花々も何もかも、実はナティアは全てレリアに渡すか捨てていたと彼女達の父に知らされて、ロイスがどれほど傷付いたか。どれほど打ちのめされたか。
どれほど希ったか。
ナティアはきっと知らないだろう。
「ナティア」
「ん? ああ、ロイス様。なんですか?」
まだ何か用でも? そう思っているのがよく分かる声と表情だった。
こんな子では無かった。
どうしてこんな庶民の着るような衣類を纏っているのだろう。
どうしてこんなに陽に焼けているのだろう。
どうして、今日もロイスが贈ったドレスをレリアが着ているのだろうか。
「ナティア、ドレスは気に入らなかった?」
「ドレス?」
「あー、あー……ロイス様っていつもとっても素敵なドレスを贈って下さいますよね! センスがとても良いから、私、いつも皆さんに自慢しているんですよ」
「ああ、そのドレス。綺麗ですね。ただレリアの髪色には少々色味が合わないので、次はもう少し淡い色合いのものにした方が良いと思います」
「は? いや、そもそもこのドレスは」
「え。何言ってんの、お姉様」
「なにって言われても……。貴女だって淡い色味のピンクやイエローが好きだって言ってたじゃない」
「ここで私の好みを語ってどうするのよ、お姉様……。王太子殿下、お姉様が本当にごめんなさい」
「それは何に対する謝罪だ?」
ロイスにはナティア達が何を話しているのかよく分からなかった。どうにも話が噛み合っていない。
「お姉様はいつもこうなんです。私、私もう見ていられなくて……。ロイス様、もう良いんですよ、もう我慢しなくて良いんです。言いたい事は言ってしまいましょう?」
淑やかに可憐に……見えるように振る舞ってはいるが、ロイスからしてみたらその奥にあるあざとさが丸わかりの笑顔でレリアが急かしてくる。しかも必死な様子でレリアはロイスに媚びた。
媚びていると分かっていて、それでもロイスは何かに納得したように二度、三度頷く。なるほど、なるほど、と小さく呟きながら。
その様子にナティアは更に呆れて、やがて全てを諦めたかのように遠くを見詰め出す。
そんなロイスとナティアの姿が好ましいものだったのか、レリアはニヤリと実に嫌らしい笑みを浮かべ、次いで慌ててその笑みを隠した。
「ナティア、君に言いたい事がある」
「はい……」
「君に婚約を申し込んでから五年。この五年、僕は君に何度も手紙を送り、時に先触れ無く訪れ君に会おうとした。けれど一度として返事は無く、また会う事も叶わなかった」
ナティアから返事は無い。けれどロイスは迷う事無く続けた。
「ドレスも装飾品も花束も幾度と無く贈った。けれど君がそれを身に着けてくれた事は無い。これまでのそれらも、今日の為に僕が贈った物を身に付けているのも、全て君の妹であるレリアだ」
「……そうですね」
「……しんどみ」
相変わらず全てを諦めたようなナティアの声色と表情に、レリアが諦めるなしっかりしろと視線を寄越してくる。
でもナティアはもう疲れ切っていた。
もう、いい。
もう疲れた。
早く自由になりたい。
自然と視線が下がってきてしまったが、例え無礼だと言われてもナティアはもう上げていられなかった。もう何も見たくない。
「徹底的に防衛された公爵家を前に僕は敗北し続けた。影に様子を探らせても君の姿すら捉えられないし、秘密裏に屋敷内に忍び込む事も出来ない。公爵を脅しても宥め賺してもどうしても君に会えなかった。腕利きの暗殺者に暗殺ではなく忍び込むだけだけどやってみてくれと依頼した事もある。成功はしなかったが」
がばりとナティアが顔を上げた。レリアもぎゅるんと首を回してロイスを見やった。何かの聞き間違いかと思って二人とも思わずロイスを二度見した。
だが、何度見てもロイスはロイスだ。しかも至って真剣な表情をしている。
「もう限界なんだ。そこでだ。せっかく母上主催の茶会、高位貴族も王族も多く集まるこの場で宣言しよう。
僕、いや……私ロイス・シュナウザー王太子は、婚約者ナティア・ルノー公爵令嬢に婚姻を申し込む! ナティア、今すぐ結婚しよう!」
「えええええ!?」
レリアが公爵令嬢にあるまじき素っ頓狂な悲鳴をあげたが、咄嗟に声が出なかっただけでナティアも心の中では同じ悲鳴をあげていた。
何がどうしてそうなった?
「何がどうしてその結論に至ったんですか!?」
ナティアの心の叫びとレリアの絶叫が一つになった。
よく言ってくれた妹よ。
「婚約者に婚姻を申し込んで何が悪い」
「確かに?」
「会えないのなら閉じ込めてしまえば良いと気付いたから、次に会えたら必ず結婚しようと決めていた。問題無い。陛下の許可は既に得ている」
そう言ってロイスが指を鳴らすと、控えていた侍従が恭しく一通の書簡を差し出した。ロイスはそれを受け取って広げると、ナティアが見易いよう掲げる。
ナティア達から少し離れていたレリアもにじり寄って来て、ナティアと並んでその書簡を食い入るように見詰めた。
二人の視線が書かれた内容を辿る。
信じられないとばかりに同じ色をした姉妹の瞳が大きく見開かれ、次いでまた最初から読み返すように視線が動いた。
「え、待ってこの人やっぱりヤバい」
「日付けが……陛下から許可が下りた日付けが二年前になっておりますけれど……」
「申請したのは四年前だ。許可させるまでに二年かかった」
何それ怖い。
「ナティア、式は既に準備を始めているけれど一年半後になると思う。けれど貴女にはもう王宮に住んでもらいたいから二度と帰さない」
「めちゃめちゃヤバいこの人」
「ロ、ロイス様……私、王妃教育どころか貴族としての教育すら危うくて……」
「問題無い。僕の主導のもと、速やかに始めよう。大丈夫。これからはずっと傍に居て手取り足取り何もかも全て僕が教えよう」
「お、お待ち下さいロイス様! お姉様の意見を聞いて下さい。王太子妃に相応しくないと周囲から批判されたらどうするんですか!?」
「なるほど。では、僕は臣下に降りよう。ナティア、王太子妃じゃなくて公爵夫人でも良いかい?」
「いや、レリアが言いたいのはそう言うことじゃ無いと思います」
「そうです、違います」
思わずナティアが突っ込むと、レリアもこくこくと力強く何度も頷いた。
「そうなのか?」
しかしロイスには通じないようだ。こてんと小首を傾げて不可思議なものでも見ているかのように瞬きを繰り返している。
「でも、お姉様を想っていることは伝わってきました。予定と違うけどアリかも知れない」
「待ってレリア。諦めないで」
「やっぱり諦めちゃいけないのはお姉様の方だったんですって。昨日帰って来てぶっつけ本番でこんな茶番、やっぱり無茶だったんですよ」
「とりあえずナティアが今、今すぐ僕と結婚するのは決定事項だから婚姻証明書にサインして。早く。今すぐ。妃か夫人か、肩書きはまた追々話し合って決めよう」
「いいえ、お待ち下さい。ロイス様は王家唯一の男児なんですよ? 継承権を捨てるなんて許されません」
「そこはまあ、父上と母上にまた頑張ってもらおう。なに、大丈夫さ。二人ともまだまだ若い」
「え、何この人怖い」
にこやかに微笑みながらロイスは力づくでペンをナティアに握らせてくるし、ロイスの侍従はずっと婚姻証明書を載せた台を構えてナティアに突き付けてくる。レリアはロイスのせいで唖然としている。
婚姻証明書には既にロイスの署名と、国王が裁可した旨が記されていた。
いや、裁可早くないか。
普通は新郎新婦の署名が成されてから提出され、各所を経て最後に国王へ行くのではないか。しかも各所の裁可も既に成されている。
何これ怖い。
助けを求めるようにナティアが国王と王妃を見やると、二人は頬を染めて見詰め合っていた。
だそうだよ、もう一人どうだ。嫌だわ陛下ったらこんな所で。ここでなければ良いと言う事だな。でも、私はもう三十路過ぎですし……。そなたがそなたであればそれだけで良い。あなた……。
なんて会話が桃色の空気と共に流れて来た。
なんでノリノリなんだあの二人。
「ナティア、署名」
「いえ、あの……でも」
ナティアは隣の妹を見た。まだ呆然としている。
「しっかりして、レリア。あれほど王太子妃になるのもロイス様に愛されているも自分だと何度も言っていたじゃない」
「いや、それを言っていたのはお父様とお母様です。私は一日も早くここから解放されたかった。お姉様の為に誂えられたドレスを身に着けるのも、お父様達の妄言に付き合うのももううんざり」
「でも、そう言い続けられてその気にならなかった? 私、貴女の夢を奪ってしまうのは嫌よ」
ナティアの言葉に先程までどこかぼんやりとしていたレリアがかっと目を見開いた。
「私の夢は誠実な人との分相応な結婚です! 私は愛人が生んだ庶子ですよ? 王太子妃の資格どころか公爵家の継承権すらありません。それでも公爵家に迎え入れられてからはそれなりの教育を受けてきました。普通の教育を少しでも受けていれば自分の立場くらい分かります。まともな思考をしていればそんな事くらいすぐに分かります。現実が辛いからと言って泣き喚くような我儘でもありませんし、思考を停止して全てが自分に都合の良いようになるだなんて思えるほど脳内お花畑じゃありません。私は馬鹿じゃない。私は馬鹿じゃない! あの人達みたいに馬鹿じゃないんだから!! 今日だって無理にこのドレスを着せられて、サイズだって合ってないし色味だって私に似合ってないのにあの二人はピーチクパーチク……。と言うか、この王太子殿下、普通におかしいから。本当に無理、無理ですって」
目をかっ開いて積年の恨み辛みを吐き出すレリアの様子は痛烈だった。
生まれた時からおかしい両親に育てられて、よくぞここまで常識を理解できるような子になったものだ。けれど自身が常識的な分、非常識な両親と共に過ごす事はさぞや苦痛だっただろう。
しばし呪詛のように両親への愚痴を垂れ流していたレリアだが、やがて姉にペンを無理やり握らせて婚姻証明書に署名させようと躍起になっているロイスへ視線を移した。
「ロイスお義兄様……」
「ああ、レリア嬢。そう呼ばれるのも久しぶりだね」
「両親に禁じられていました」
「随分と苦労していたようで……、興味が無くて放置していてすまなかった」
「存じております。問題ありません。あまり一緒には居られなかったですが、それでも私のお姉様です。お義兄様の様子がおかしいから、そんな人にお姉様を任せたくなくて婚約が無くなればと思っていました。でも、反省しております。両思いなら話は別です。余計な事を考えて今日は失礼な言動を沢山とってしまって大変申し訳ありませんでした!」
「いや、いい。姉思いの良い子だ。ナティアの味方がいてくれて嬉しいよ。万が一、何か言う者がいたらナティアとの成婚祝の恩赦で刑罰は消えた事にするから案ずるな」
「ありがとうございます! お姉様を宜しくお願いします!」
「がってん承知!」
仲が良い。この二人、まるで兄弟のように仲が良かった。
「ナティア」
「……はい」
「ナティア、好きだ」
「えっ、あ……」
「この五年の間に伝えられなかった言葉をこれからは直接伝えよう。君に受け取られなかった贈り物も、これからは君の好みに沿うように努める。傍にいられなかった分、存分に君を堪能する」
最後の宣言については聞かなかった事にしたい。
「あ、あの……私、この五年……ロイス様から婚約を申し込まれた直後から家にはいなかったんです」
「どういう事だ?」
「レリアは父とその愛人との間の子です。父の関心は愛人とレリアにしかありません。公爵家はレリアに継がせると言われていたので、ロイス様からの婚約打診は正直とても有難かったです。けれど……」
言いづらそうにそこで言葉を切ったナティアの後をレリアが継いだ。
「王家からの婚約の申し込みが届いてから、私の母が荒れに荒れて……王太子妃に、ゆくゆくは王妃になるのはレリアだー! とか言って聞かなかったのです。父もすぐに婚約相手をお姉様から私に変更させようとしました。ですが、この婚約は家と家を繋ぐものではない。ロイス様とお姉様の心が繋いだ縁です。すげ替えなんて有り得ない」
「君はきちんと知っていたんだな」
「はい、勿論。それに先程も申しましたが、そもそも私は庶子です。まかり間違って庶子が王家に嫁いだなんて前例が出来てしまったら、後々国が荒れる原因となります。特例は作るべきではありません」
「そう考えたレリアが婚約の申込み書をこっそり持ち出して私の母に渡し、受け取った母はすぐに了承の旨を記して送ったのです」
ナティアの言葉を受けてロイスは思考を巡らせた。
本来であれば婚約の承認は当主が行う。けれど、今回のように当主が愛人に入れ込み庶子を優遇し、国が認めた正妻を蔑ろにしていた場合どうなるか。
その場合、当主が怪我や病気などの理由で当主代行が必要となった時と同様に、正妻にも決定権が生まれる。どう考えても王家に対する詐欺でしかないからだ。
故に彼女の署名でも問題はない。
公爵とその愛人は問題だらけだが。
「確かに返事は公爵夫人の筆跡だった。しかし、国が認めた正式な公爵家の夫人は君の母だ。何の問題も無い。僕達の婚約は正式に成立している」
「はい。ですがレリアの母は怒って、父は私と母を家から追い出しました。だからこの五年、私はロイス様からの贈り物を受け取るどころか、贈られているというその事実すら知りませんでした。
追い出されてからすぐに盗賊に襲われかけていた所を居合わせた冒険者達に救われて、命の危機を察した母と二人で隣国に隠れ住んでおりました。そこで冒険者登録をして……私は、これまで平民として生活してきたのです。そんな私がいきなり王太子妃だなんて、そんな……」
ロイスの目を見ていられなかったナティアは思わず視線を落とした。
しかし落とした視線の先にも未だにナティアの手を握り締めるロイスの手があり、そこから視線を逸しても婚姻証明書を載せた台があるばかり。それでも反対側へ顔ごと視界を無理やり変えてみたが、飛び込んで来たのは乳繰り合う国王陛下と王妃殿下の姿だった。
周囲の人々は国王と王妃を見れば良いのか見てはいけないのか、それとも王太子とその婚約者を見たら良いのか、やはりこちらも見てはいけないのか分からず狼狽えている。
こんな事態、当事者であるナティアだって狼狽える。勘弁してほしい。
「ナティア、愛してる」
「えっ、ロ、ロイス様……」
「この五年もの間、貴女がそんな苦労をしているとは露知らず、のうのうと生きてきた自分が恥ずかしい。そしてやたら隣国が気に掛かった理由が分かった。君が居たからだ」
そんな馬鹿な、とは思っても言えない。
確かにロイスの姿は何度も見た。隣国に居ると言うのに何度も何度も、それこそ月に一度は必ず、多い時には週に一度は見掛けたのだ。
けれど今日この正式な場で正装をしている状態のロイスを見るのは初めてだったから、先程声を掛けられた時は一瞬誰だか分からなかった。
何故かラフな格好で隣国の街中を彷徨くロイスは何度も見た。そちらの姿の方を見慣れてしまうくらいに、何度も。
何度も遭遇しかけた。
一国の王太子が何をしているのかと思ったが、やがて見慣れると会わないよう避けていた。もう手が届かない初恋の人を見るのがつらかったから。
婚約したことも忘れたのは日々生きるだけで精一杯だったからだ。
昨日まで公爵令嬢として生きていたのに、死と隣り合わせの毎日になっても心に余裕を作れるほど、ナティアは武芸に秀でた訳でも器用な訳でも無い。
そして何よりナティアと彼女の母親を公爵家から追い出す時、いずれナティアとの婚約は破棄させてレリアと新たに婚約を結ばせると父達は豪語していた。だから疾うに破棄なり解消なりされていると思っていた。
「公爵家への沙汰は追って下そう。それよりも今は婚姻証明書だ。ナティア、結婚しよう」
「お、お待ちくださいロイス様……」
「これ以上は待っていてはいけません、お義兄様」
「うむ。そうだ、公爵夫人も受け入れよう。母娘共に王宮で生活できるよう手筈を整えさせる。……おい、話は聞いていたな。行け」
ロイスの言葉に幾人かの侍従がその場から立ち去った。何処へ行くんだ。何をするつもりだ。
「お待ち下さい。私はこれからも冒険者として生きるつもりでした。今回のこのお茶会は王妃様が『一家全員が揃って出席しなければ参加資格無しと見做す』とされたので、無理に連れ帰られただけで用が済んだらまたすぐ隣国に戻すと父からは言われています」
「男か?」
「はい?」
「隣国に男がいるのか?」
「なんでそんな……」
「先程からそんな気配がする。だから署名してくれないのか?」
この人の勘はどうなっているのだろう。
「告白は……されました。でも、その人の事は頼りにはしていますし将来的にどうなるか分かりませんが、まだそういう気分になれなくて……」
「殺そう」
「うえっ!?」
「この世に居る冒険者は全員殺そう君を虐げた公爵家の者も全員殺そうそうしたら君は僕のだよねよし殺そう」
「お姉様お姉様お姉様うだうだ言ってねぇで覚悟を決めて! 人が死ぬ!!」
「止めてください結婚しますから止めてください!!」
「え……本当? 結婚してくれるのかい?」
「っしゃ! ペン。ペン。インクインク。そこのお義兄様の従者さん。お姉様の隙を見付けて秒で署名させますよ、良いですね」
「承知致しました」
「正直な話、その人の告白を受け入れられなかったのは、幼い頃から優しくて仲が良かったロイス様がまだ好きだったからですし……」
「なんてことだ!!」
初めてだった。
ロイスがナティアに好きだと言ってもらえたのは、この時が初めてだった。頻繁に顔を合わせていて仲が良かった幼い頃にも言われた事は無い。正真正銘、生まれて初めてだった。
だからロイスはその場に崩れ落ちた。
「ナティアに好かれていた……っ!」
「あ、あの……ロイス様?」
「ささ、ルノー公爵令嬢。こちらの婚姻証明書にご署名を」
「はーい、妹が支えてますからねー。お名前書きましょうねー」
ここぞとばかりに先程から婚姻証明書を載せた台を構え続けていた侍従が促す。
やった、やったぞ、我が人生に一片の悔い無し! と叫んだきり倒れ伏して微動だにしないロイスを横目に、とにかく急げとナティアは署名させられている。
「あの、ロイス様は大丈夫でしょうか?」
「大丈夫ですよ。どうせすぐに悔いだらけだった事に気付いて起き上がります」
「逃して堪るかこの機会。お姉様、署名。署名署名署名。はよ。はよ!」
「ま、待って。書くから。書くからお願い一人でペンを持たせて」
「……はい、お疲れ様です。これにて、我が国のロイス王太子とルノー公爵家ナティア令嬢のご成婚、相成りました! 皆様、最大な祝福を!」
途端、控えていた侍従や侍女や近衛兵達が凄まじい音の拍手を響かせ、レリアが大きな声で祝福の言葉を繰り返す。それに釣られて戸惑っていた貴族達も思わず拍手をしだした。完全にヤラセである。
たまにはやしたてるようにピーピーと口笛が鳴っているが犯人はまさかの国王で、誰しもがぎょっとしながらも何も言えない。隣で王妃がキャッキャしているのが可愛い。
「やっと来たこの瞬間! 待ってた、ずっと待ってた、私ずっと待ってた! 頭のおかしい両親も様子のおかしいお義兄様も信じられなくて一人で戦っていた私お疲れ様!!」
レリアが格闘技で勝利したかのように喜びの雄叫びをふぉーーー! と上げている。令嬢としてあれはヤバい。
「幸せにするよ、ナティア」
いつの間にか復活していたロイスがさり気なくナティアの腰に手を回している。
「この場にいる皆様に全ての事情を聞かれてしまいました……。貴族の皆様はお認めにならないのではないでしょうか」
「五年の間、一度も姿を見せない王太子の婚約者に文句を付けたり、代わりをあてがおうとした貴族はあからさまに潰したんだ。誰もが二の舞を恐れて僕には近寄らないよ」
それはそれで大問題ではなかろうか。恐怖政治でも敷きたいのだろうか、とナティアの中でどんどん心配事が増えてゆく。
しかし周囲の貴族は実に晴れやかな表情をしている。皆、ロイスの執着を知っているからだ。彼の恐ろしさを脳髄に刻まれているからだ。
頑張ってくれナティア嬢。いや、ナティア王太子妃殿下。その人を止められるのは君しかいないこちらは御免だ頼むから手綱を握って、いや、むしろその手綱に絡まってその人から離れないでくれ。
「皆、久方振りに故国へ戻った我が妃が不安になっているのだが……」
口元は穏やかに微笑みながら口調も声も頗るご機嫌といった様子で、けれど器用に眼だけは世界を滅ぼす程の圧力を持ってロイスは人々に声をかけた。
完全に脅しの体勢ではなかろうか。
「彼女の心を煩わせるような者はこの場にいないよな?」
「お久しぶりですナティア様! いえ、ナティア王太子妃殿下! この度はご成婚、誠におめでとうございます。心からお祝い申し上げますわ。ええ、本当に。心から。心からっ!!」
ナティアが公爵家を追い出される前は何かとライバル視してきた侯爵家の令嬢がいの一番に向かってきた。
三回も言うほど心から祝ってくれているらしい。
彼女に続いてナティアのライバルであった筈の令嬢達がこぞって祝福に集まった。
「私も心よりお祝い申し上げます! 妃殿下におかれましては、王太子殿下と共に隣国へ留学されていたとのこと。国の為、早くからご政務をこなして下さっていらしたのですね。私、感動しておりましてよ!」
「ええ。ええ! わたくしもそのように聞いておりますわ。それが真実ですわよね」
「隣国は医療先進国でしたわね。私の婚約者も隣国の薬で病を治癒できましたのよ。薬の輸入を指揮して下さったのが妃殿下なのですよね? そうですよね? そうだと言って下さいそういう事にしましょうそういう事にしました」
「異議無し」
「異議無し」
「異議無し」
「満場一致ですわ。可決!」
「絹の生産も盛んだとか。素晴らしい目の付け所ですわ、流石は妃殿下!」
「本日も誠に美しい装いですこと。そうですわよね、こんなに腰を締め付けて華美な装いばかりして……私、自分が恥ずかしいですわ。これからは妃殿下のような流れるような美しさが流行りですのね。お見逸れ致しましたわ」
無理しかないご令嬢達のヨイショにナティアはドン引きした。彼女達に一体何があったのだろう。
ロイスは一体何を仕出かしたんだ。
五年前は彼の寵愛を得ようとあんなに必死だった筈の令嬢達は、今では何としてでもナティアをロイスから離さないように必死である。
「ほらね。皆、君の素晴らしさを知っているよ。君は幼い頃から各国へ留学して多くを学び、既に王妃として相応しい品格を身に付けているんだ」
「流石は妃殿下!」
「流石は妃殿下!」
「流石は妃殿下!」
なんだその瞞物は。ナティアは突っ込みたかった。
突っ込みたかったがしかし、あまりにも必死な形相で何としてでもナティアに逃げられて堪るかと喰らいついてくるご令嬢達のあまりの勢いに、たじたじになってしまって何も言えない。目が血走っているご令嬢もいて苦笑すら出来ない。
ご令嬢達はロイスの本性を知っているのだろう。ナティアと同じように。
誰もが同じように彼の本性を知っていて、けれどそれでもロイスが好きなのはどうやらナティアだけらしい。
「あの、ロイス様。そう言えばレリアの姿が見えませんけれど……」
「え? 喜び勇んで帰って行ったよ。いつか君の侍女か女官になれるように勉強するんだって張り切っていた。公爵とその愛人はこれから事情聴取だから捕らえてあるし、安心してね」
「いつの間に……」
「何の為に『一家揃っていなければ参加資格無し』にしたと思う? 君と再会する為だけではない。君と同じように姿を見掛けない公爵夫人の無事を確認し、公爵邸から公爵を引き離して家宅捜索をする為だ。ついでに愛人も確保できたのは幸いだったなあ」
なんとロイスは優秀らしい。ちょっと一部に対してだけ執着が酷くて堪え性が無い以外は。
深く愛してくれる夫と、とてつもなく何かに怯えながらも凄まじい理解を示してくれる貴族達と、優しい義父母に囲まれてきっとナティアは幸せになれるのだろう。
「とりあえず、ナティアに告白したとか言う冒険者と五年前にナティアを襲った賊とナティアに触れた事がある男を全員縛り首にしよう」
「絶対にダメです」
きっと。たぶん。おそらく。……幸せになれる筈だ。苦労も多そうだけど。勇ましい妹もいてくれるのだから、きっと大丈夫。
もう隣国には帰れない。