信じるべきもの
「はぁ……なんか、今日は色々あって疲れたなぁ」
風呂での騒動の後、命や静利と別れて自室に戻った神無は、今日一日にあったことを思い返して大きなため息を吐く
自分が生きてきた日常が非日常で、当然だと思っていたものが異常だったという事実を突きつけられ、神無は混乱する思考をまとめようとする
「……っ」
しかし、精神を落ち着けようとすると真っ先に脳裏によぎるのは、先程目にした輝くばかりの命の一糸纏わぬ姿
健全な青少年である神無にとって、絶世の美女にして神秘が具現化したような命のあられもない姿を忘れることは簡単には、この危機的状況の中にあってもできそうになかった
(悲しいかな、男の性)
目と記憶に焼き付いた命の裸体を何とか意識の隅へ追いやろうとしていた神無は、それを咎めるようになったノックの音に驚いて背を伸ばす
「私よ。いいかしら?」
「は、はい!」
扉越しに聞こえてきた声に、深呼吸して早鐘を打つ鼓動を落ち着けた神無が応じると、声の主である静利が室内に入ってくる
「こんな時間にごめんなさいね」
「い、いえ」
そうは言いながらも、今は夜も深くなってきた時間帯。男女が二人きりで会うにはやや不適切といえるかもしれない
しかし、風呂場でのこともあって必要以上に意識してしまう神無とは違い、静利はあくまでも冷静な態度を見せ、一切の隙を感じさせない
「神無君なら大丈夫だとは思うけれど、念のために一言言っておきたかったの」
「なんでしょう?」
抑揚のない声で紡がれた言葉と真剣な眼差しを受けた神無は、静利から感じる威圧に似た雰囲気に喉を鳴らす
「邪神の巫女の言葉を信じてはだめよ」
「!」
端的に発した最初の一言で神無に釘を刺した静利は、神無の表情からかすかな感情の揺らぎを感じ取って話を続けていく
「邪神は神を殺す神。悪神よりも性質の悪いものだわ。彼らは言葉巧みに人の心につけ込み、自分達の側に誘ってくる。
そして一度彼らの手を取れば、その人は二度と人の側に戻ってくることはできない。仕事柄、私はそんな人達を見てきたわ
だから、貴方にそんな風になってほしくないの。邪神とその巫女に関われば、あなたは不幸になってしまう。――分かってくれるわよね?」
陰陽神と悪神、邪神の三大勢力は三竦み。陰陽神にとっては、悪神も邪神も等しく脅威であり、警戒するべき敵でしかない
この世界に生きる者ならば誰でも持っている常識と知識に自身の経験と整然と並べた静利の言葉は、反論の余地もないほどに正論だ
「――……」
「神無君?」
一般的な感性の人間なら、物心ついたばかりの子供であっても同意を得られるほどに正しい言葉で語りかけたにも関わらず、肝心の神無から答えが聞けないことに静利は疑問を覚える
頭では分かっていても、人は時に誘惑に負ける。それを知っているからこそ、静利はこうして神無を訪ねてきた
邪神の天巫である命は、同性である静利から見ても嫉妬すらわかないほどの規格外の美女。気立ても良く、健全な青少年なら容易に信じてしまうだろう
故に静利は、天伺官として神無が邪神の誘惑に攫われないように、忠告しているのだ
「――静利さんは、霊力のない自分を想像できますか?」
何か考え込んでいる様子でしばらく沈黙していた神無に不安を覚え始めていた時、ようやくその口が開かれる
「いいえ」
神無から向けられたその疑問に、静利が返すべき答えはこれしかなかった
そもそも霊力がない人間など、これまで前例がなかった。霊力とは魂そのものの力であり、大なり小なり誰でも――それこそ、目に見えないほどに小さな生き物や、無機物にまで宿っているものだ
だから、霊力がないなどありえない。だから、霊力がないということがどういうことなのか、分かるはずもなかった
「ですよね。霊力はあって当たり前のものなんですから」
その静利の答えに自嘲めいた声で言った神無は、重ねた手を血が出るのではないかと思えるほどに強く握りしめて言う
「だから、それがなかった僕は、小さい頃虐められてたんです」
絞り出すように発せられた神無の告白に、静利はただ耳を傾けることで答えるしかできなかった
怒りや悲しみ、絶望に恐怖――そういった感情がないまぜになった神無の表情と声からは、霊力を持たずに生まれてきた少年の今日までの苦悩が込められているようだった
霊力がないということはあまりにも異端であり、常人には不気味に映る。それが社会でどれほどの異物として映るか、分からないまでも理解することはできた
「今は、むしろ気味悪がられてるのか、できるだけ人との関りを避けてきたからなのか、そういうことは無くなりましたけど」
まあ、そんなわけで、すごく辛くて、悲しくて……なんで僕には霊力がないんだろうって、毎日こっそり泣いてました」
「…………」
場の空気を重くしないためか、努めて明るくふるまっているが、神無からは隠しきれない孤独がにじみ出ていることを静利は肌で感じていた
霊力を持ち、しかも人よりも優れている自分では慰めることもできない神無の心の闇の片鱗に静利は返す言葉を持たない
「それでも僕がそれなりにまっすぐ生きてこられたのは、両親と妹が僕の事を気味悪がったりせず、愛情を注いでくれたからです」
当時の事を想抱いているのか、幾分かすぐれない顔色で言う神無は、悲愴な面持ちの中に一抹の希望を浮かべて言う
「両親は天伺官で、妹もすごく才能がありました。だから僕は、家族にできるだけ迷惑をかけないようにしてきたんです」
霊力が無かった神無にとって救いだったのは、家族から注がれる無償の愛情があったことだった
当たり前にあると思っていた霊力を与えてあげられなかった両親は、辛いことがあったとき、神無に寄り添い、自分の事のように悲しんでくれた
才能にあふれた妹は、こんな自分を慕ってくれた。――それがなければ、神無は自ら命を絶っていたかもしれない
だから神無は、両親と妹のために生きてきた。霊力がなく、なにもできずとも、せめて両親と妹に迷惑をかけないよう、問題を起こさないように生きてきたのだ
「でも。でも……だから、もし命と契約して霊力が手に入るなら、僕は――」
だがそれは、霊力がなかったからだ。命の力で自分が霊力を使えると知った今、神無の意思は大きく傾いていた
たとえ邪神と呼ばれるものでも、霊力が手に入るなら――せめて人並みの人になれるなら、その手を取ってもいいのではないかと考える神無は、自分に向けられる静利の視線に気づいて目を伏せる
「ごめんさない。でも、命は悪い人じゃないと思うんですよ」
常人なら、この判断を止めるに決まっている――天伺官の立場なら尚のことだ
だが、ほんの短い間だが、命と接し、その為人に触れた神無には、命を信じられると感じていた
とはいえ、それは静利から見れば、「自分だけは騙されない」と信じている被害者の典型的な心理にしか思えないものだったが
「……すみません」
無意識に視線が険しくなってしまっていた静利を見て、神無は目を伏せて謝罪の言葉を口にする
人は時に信じたいものしか信じない。――多くの言葉を並べても、今の神無の心を大きく変えることは難しいだろう
「もし、邪神の巫女があなたの信じているような人ではなかったなら、私はあなたを討たなければならなくなるわ。私にそんなことをさせないでちょうだい」
神無の気持ちが少しでも動いてほしいと願って今の自分の素直な気持ちを告げた静利は、腰を上げて扉へ向かって歩いていく
「私はこれで失礼するけれど――くれぐれも考えを誤らないで」
一言だけ言い残し、神無の部屋を後にした静利は、閉まった扉――その向こう側にいる青年を幻視して、沈痛な面持ちで天を仰ぐ
「彼のあの性格は、自分の全てを諦めているからなのね」
人に対して寛容で、良くも悪くも衝突しない――命や静利を受け入れた神無の在り方の根幹を垣間見ることができた
元々優しく他人想いの性格だったからこそ、神無は自分を出すということを止めてしまった――その事実が静利の胸を締め付ける
「――美人は得ね。それとも、彼があなたを求めるところまで、計算ずくなのかしら?」
天井を瞳に映す静利の独り言のような小さく
だがそれは、先程のやり取りを扉越しに聞かせていた廊下の隅に控えている人物に向けたものだった
「前者に関してはお答えは致しかねますが、後者に関しては断じてないとお答えさせていただきます
神無様が霊力を使うことができないのは、人や神への憎しみを植え付けるためではなく、純粋に人としての側面と神としての側面が一つの人格の中で混在してしまっている歪さからくる副次的なものです」
その人物――命は、静利の言葉に感情を向けず様子もなく粛々と答え、神無の部屋を見つめる
それは、命にとって静利の言葉など、何らその感情を揺さぶるものではないことの証。そして命が神無だけを想っていることの証左だった
「これで満足でしょうか? では、お部屋に戻りましょう」
「……そうね。彼には悪いことをしてしまったわ」
扉越しに神無に邪神を拒否する話を聞かせるつもりだった静利は、目論見が外れたばかりか、自身の軽率さを悔いて部屋へと戻っていくのだった
「神様、か」
その頃、部屋の外で命と静利がそんなやり取りをしていることなど知る由もない神無は、ベッドの上に身を横たえると、ゆっくりと目を閉じる
「神様は、僕のことも――父さんと母さんのことも助けてくれなかったのに」
※※※
翌日、太陽が昇り始めると同時に、まだ大半が眠りの中にある早朝の街に、命と静利は一夜を過ごした榊家から外へと出て行く
「準備はいいわね?」
身支度を整えた静利が、社殿へと向かおうと命に声をかけるのと同時、二人が出てきた扉が再び開き、そこから神無が顔を出す
「待って! 僕も行くよ」
腰に太刀を佩き、戦闘準備を整えた神無が姿を現すと、それを見た静利は凛とした視線を向けて応じる
「危険よ。霊力の使えないあなたが来てもなにもできないわ。むしろ、足手纏いになるだけよ」
「――っ」
辛辣な口調ではあるが、正確に事実だけを語る静利の言葉は、神無を思いやりがあるからこその拒絶だった
それが分かっている神無は、そんなことは分かった上でこうしているのだが、それを否定する言葉を口にすることはできなかった
この花枕の街が何者かの手によって作られた仮初のものならば、ここに暮らす者としてそれを正したい。
だが、その想いはあっても力は足りず、その気持ちを頑なに貫いたところで、命や静利の足手纏いでしかなく、場合によっては自分のために二人の命を危険に晒すことになってしまう
「あなたの気持ちが分からないわけではないわ。でも、ここは私達に任せてほしいの」
神無の意志を組みながらも、未知の危険に対応するためにも、天伺官としても同行を見止めるわけにはいかない静利は、そう言って諭すと命へと一瞥を向ける
「あなたからも止めてあげて」
神無の事を自らの神として崇めている命ならば、その身を守るために自分の言い分に同調してくれるだろうという考えから話を振った静利だったが、それを受けた黒髪の巫女は、淑やかに微笑んで目を伏せる
「よろしいではありませんか」
「――!? あなた、一体どういう……」
霊力を使えない神無の同行を容認する命の言葉に、思惑の外れた静利が狼狽する声を発するが、それよりも早くたおやかな花声がそれにかぶせられる
「昨日までとは異なり、この世界を隔離している何者かも、神無様とわたくし達の関係に気付いているはず
この街を閉ざしている者からすれば、むしろ神無様をここにお一人で残していく方が危険なのではないでしょうか?」
「…………」
命の言葉に、静利は思案気に目を細める
「あなたが昨晩邪魔をしなければ、神無様のお力でいかようにでもできたのですが……」
「何か言った?」
小さな声で何かを呟いた命を視線で制した静利は、真剣な表情で自分達のやり取りを見ている神無を見てため息を吐く
「分かったわ。けれど、絶対に無茶をしないこと」
「はい」
命の言い分にも一理あると判断した静利は、今ここにいる唯一の天伺官として、民間人を守るための判断を下す
「ありがとう、命」
命から同行の許可を得た神無が感謝の言葉を述べると、命は淑やかな所作で目礼し、たおやかな声音で応じる
「いえ。当然の事でございます。それに、わたくしがいれば、神無様はそのお力の一端を自由にお使いになることができるのですから、ご心配には及びません」
神無が霊力を使えなかったのは、人の魂と身体がその本質である神と乖離していたから
しかし、天巫である命がいれば、その間を繋いで神無は霊力を――戦う力を手に入れることができる。微力ではあっても無力ではなくなるのだ
「あなたはことごとく私の提案を否定するわね」
神無に残ってもらうよう、命に説得させる思惑が外れた静利は、嘆息混じりに小さく独白する
とはいえ、先程の命の意見に一理あるのも事実。静利は早急に決断を下す必要があった
「じゃあ行くわよ」
結局神無の同行を黙認した静利は、そう言って身を翻す
「あの、駅はこっちですけど」
駅がある方向を指さす神無の言葉に足を止めた静利は、肩越しに視線を送って半目で口を開く
「いつ襲われるかわからないのに、不特定多数の人間がいる駅を使って、逃げ場のない電車で向かう気?」
「……仰る通りです」
呆れた果てた様子で言う静利の言葉に目を丸くした神無は、そのあまりにも正しい理論に肩を落とす
「じゃあ、行くわよ」
自身の脚に火属性の霊力を纏わせ、脚力を強化した静利が地を蹴って、社殿のある町はずれの緑豊かな小高い山へ向かって駆け出していく
「わたくし達もまいりましょう」
「待って命。その前に聞いておきたいことがあるんだ」
それを一旦遮り、命へ向かい合った神無は、その瞳をまっすぐに見つめて言う
「僕は、命のこと、信じていいんだよね?」