五行の巡り
「はぁ……」
白い湯気を立ち昇らせる湯が張られた浴槽に身を鎮めた神無は、その縁にもたれかかりながら天井を見据えて目を細める。
「この街が無くなってて、みんなが操られてるなんて……」
その脳裏によぎるのは、静利と命から告げられた故郷の真実。
世界から隔離されてきた失われた街と、それに浸食された人々――たった一日で疑うことさえなかった日常を失った神無は、その信じ難い事実を受け止めきれずにいた。
「神無様」
「……命?」
まるで足場を失ったかのように、地から足が離れた不安に駆られていた神無の耳に、その心の曇りさえ晴らすような清らかな声が響いてくる。
「はい。お背中を流させていただいてよろしいでしょうか?」
その呼びかけに神無が応じると、湯気で反響する言葉に淑やかな声音で紡がれた問いかけが返されてくる。
「え?」
「失礼いたします」
その言葉に理解が追い付かず、思考を停止させた神無が、反応するよりも早く、浴室の向こうにある脱衣所から絹が擦れる様が伝わってくる。
何が起きているのか理解しているのに理解できない状況に陥った神無が困惑する中、浴室の扉が静かに開く。
「なっ……!?」
そこから姿を見せた命は、その身を包んでいた着物の全てを取り去っており、その下に隠されていた美しい身体を惜しげもなく晒していた。
艶やかな漆黒の髪に映える染みやホクロさえない新雪のような純白の肌はきめ細かく、触れるまでもなく極上の絹のような触り心地を確信させる。
そしてその胸に実った女性の象徴である二つの果実に、細くしなやかな長い手足、美しい曲線を描いてくびれた腰と、そのどれもが文句のつけようのないほど完璧に美しい。
(すごい。綺麗だ……)
一つ一つでさえ奇跡のような美の結晶が一つの身体に集まり構築している命の身体は、まさに女神のようにさえ思われた。
そのあまりに非現実的な光景に時間が止まったかのように硬直していた神無を、頬を朱に染めた命の恥じらう声が現実に引き戻す。
「あ、あまり見ないでくださいませ……その、とても恥ずかしい、ので……」
目を伏せ、細くしなやかな腕で局部を隠すようにしながら消え入りそうな声で言う命の言葉に、女神の美に奪われていた神無の思考が今更ながらに現実と結びつき、一瞬にして顔を描く火照らせる。
「ちょっ……っ。うぇ!? なんで裸なの!?」
言葉にするにしては時間が経ちすぎていると言わざるを得ないその言葉に、目を伏せたまま視線を向けた命は、恥じらいを抱きながら静かな声音で応じる。
「わたくしが神無様にお仕えする巫女だからです」
「理由になってないよ!?」
目のやり場に困って視線を外しつつも、年頃の青少年らしく気になってしまう神無の声が湯気に反響する室内に響く。
古風で淑やかな命の性格を考えれば、一糸纏わぬ姿で自分がいる浴室に入ってくるのは少々大胆だと考える神無に、白い肌と黒い髪が眩しい大和撫子が応じる。
「天巫とは、神のしもべにして伴侶たる者のことです。即ちわたくしは、神無様のものなのです。ですからその……わたくしを献上にまいりました」
「えぇ!?」
恥じらいに声を震わせ、神無の心中を窺うように時折視線を向ける命が言葉を紡ぐ。
命が言うように、天巫とはすなわち〝神の伴侶〟。神に尽くし、その身と心を永遠に捧げる存在のことだ。
そして神無の天巫である命にとって、神無は自身が仕える神であると同時に、伴侶でもあるというのはむしろ極めて正しい解釈だった。
「本来ならば、その……神無様に求めていただけるよう努めるのがわたくしの成すべきことだとは承知しているのですが、神無様は誠実な性格ですので、はしたないとは思いつつ、こうしてわたくしの意志を表明しにまいりました」
「み、命……」
清楚に恥じらい、慎ましくも貞淑な性格がうかがえる所作と健気で一途な思慕の情を向けてくれる命に、神無は思わず喉を鳴らす。
裸を見ないようにと視線を逸らしながらも、その目に焼き付けたいと願う理性と本能の葛藤を見せる神無の反応に、命は自分が異性として見られていることを強く実感していた。
愛する人に一人の女として見られていることに喜びと幸福感を覚えた命は、その艶やかな花唇を恥らいに引き結ぶと、意を決してたおやかな足取りで浴室の中にいる想い人の許へ近づいていく。
「一度人として転生なさっている神無様が我が神として完全なる覚醒を得るためには、わたくしと契りを交わしていただく必要がございます」
「ち、契り……?」
その傍らに膝をつき、乙女としての恥じらいと天巫としての敬虔な意志が宿った視線を向けてくる命に、神無は理性を総動員して視線を逸らしながら問い返す。
「はい。〝神〟とは言わば精霊の上位種。その存在は高次元の霊力が凝縮した存在であり、天巫はその神と通じることで、現実世界にそのお力とお姿を顕現させます。
ですが、神無様は人としての器をすでに持つがゆえに、例えるならば中途半端に神として顕現してしまわれている状態なのです。
ですから、神無様の真のお力を示していただくには、精霊であり、あなたの天巫であるわたくしと契る必要がございます」
恥じらいながらも、背を向けた神無に裸身を寄りかからせ、艶めいた吐息で囁く命の声は清楚な色香を感じさせ、それ以上に健気で一途な気持ちが込められていた。
「契りとは、異なる理を結ぶこと。肉体と霊魂、男性と女性、人と神――異なるものを結びつけ一対のものとする儀式です。
その契りの儀式を以って、神無様の中に別々に、同時に存在している人と神を繋ぎ、本来あるべき形へと還します」
気恥ずかしさに戸惑う神無に、命の淑然とした響きを持つ声が優しく響き、二人の間にある認識をすり合わせていく。
「で、でも……」
「わたくしの属性は『木』です」
「?」
その美しい肌と身体に思わず喉を鳴らした神無に対し、命はおもむろに自らの霊的な五行属性を告げて、淑やかな声音を紡いでいく。
「この世界にある全てのものには、『木』、『火』、『土』、『水』、『金』の五行属性があります。
これらは一般的に五芒の形で表されるのですが、その際必ず木が頂点に持って来られるのです――それが何故だがご存知ですか?」
「そういえば……なんでだろ?」
この世界にある全てのもの、全ての命には五行属性いずれかの霊性が宿っている。
霊力を使えなくともその常識だけは知っている神無は、その基本的な常識に対する命の提言に首を傾げる。
「この五行属性は、単なるそれそのものを表したものではないからです」
あまりに美しすぎる裸身に思考が回らないこともあるが、純粋にそんなことを考えたことがない神無の呟きに対し、命はその答えを告げる。
「五行属性には、それとは別に陰陽の属性があり、例えば火の陽、火の陰というように一つの属性に対し、陰と陽の性質があります。これを『陰陽五行属性』といいます」
「ああ、聞いたことあるよ。なんか、五行属性の正式な呼称でしょ?」
神無のその言葉に「その通りです」と微笑んで答えた命は、話を続ける。
「『火』とは、全てを焼き尽くし、その後にあらゆるものを生み出すことから、破壊と再生を象徴する属性です。――即ち、火の陽が〝再生〟、火の陰が〝破壊〟を司っているのです。
同様に水は〝生と死〟を司り、土は〝誕生と滅亡〟を、金は〝錬成と殺生〟を司っています」
五行属性とは世界を構成する霊力の巡り、世界の成り立ちの理そのもの。
形あるものがあるからこそ破壊が生じ、命あるからこそ死がある。そんな生々流転、森羅万象の理を成す概念と事象こそが陰陽五行属性なのだ。
「そして『木』は、天上の世界に枝葉を、冥府に根を伸ばし、それを幹で繋いでいます。それは即ち、あらゆるものを内包する〝世界〟を象徴しています――」
厳かな声音で一言一言を紡いでいく命は、それを聞いている神無をまっすぐに見据えて語りかける。
「即ち、木とは〝器〟なのです」
「!」
神妙な面持ちで紡がれた命の言葉に、神無は小さく目を瞠る。
「故に、神無様は、巫女たるわたくしと契ることで、人としての存在と神としての存在を正しくし、あなたを神の〝器〟として完成させることができます」
神と天巫が交わす契りとは、魂と肉体、相反し、異なるものを共有し、分かち合い、一対のものとする霊的な儀式。
神と天巫は契りによって永遠の契約と違えることのできない誓約が刻まれ、その力を通わせる。
そして、神――邪神――の力を宿す神無も、その力と人間の肉体を通じ合わせることで神としての神無と人間としての神無を一つの存在として契らせる。
――それこそが、神無の天巫である命が生まれたままの姿で訪れた理由だった。
「通常の神ではそのようなことはできませんが、神無様はそれができるお方。あなたに宿った、あなた様そのものである〝結一神〟様としてのお力なのです」
「結一神……?」
命の口から告げられる言葉に、神無は視線を逸らしたまま、怪訝な声で呟く。
「そうです。人が〝邪神〟と呼び、恐れる神無様の神としての在り方でございます」
あまねく神々を滅ぼす邪神の真の姿を語る命は、神無に仕える天巫としての清廉な純崇な想いを語りかける。
しかし、その姿は一糸纏わぬあられもない姿。
自分を神と呼んでいる命こそが絶世の美貌を持つ女神だと言われた方が合点の行く心境にある神無にとっては、この現状ではただ理性と本能が葛藤するだけだった。
「で、でも、そういうのって、やっぱりお互いの気持ちが大切なんじゃ……」
一青少年としての健全な煩悩を跳ねのけた神無は、硬く目をつぶったまま心で血の涙を流しながら何とか言葉を絞り出す。
絶世の美しさを持つ命を前にそんな言葉を絞り出すことができたのは、どこか近寄りがたく触れがたい超然とした神々しさがあればこそだろう。
だが、神無は知らない。
この美しさを前にそんな思いを抱くことができるのは、自分だけなのだということを。
それ以外の男は、命の神々しい美しさの前に欲望すら浄化され、ただただ畏敬の念を抱くことしかできないのだ。
「神無様」
当然そんなことを知る由もない神無がなけなしの理性を振り絞ったその言葉は、命を説得することはできなかった。
それどころか、神無の言葉に小さくため息を吐いた命は、その身を寄せて諭すような声音で囁きかける。
「神無様は、わたくしが天巫だからこうしていると思っておられるのですか?」
その言葉に息を呑んだ神無は、ついにその声に導かれるように視線を向けてしまう。
そんな神無の反応に分かりやすい答えを見た命は、澄んだ瞳を向けて優しく微笑みかける。
「でしたらそれは大きな間違いです。わたくしは、わたくしの意志であなた様をお慕い申し上げているからこそ、天巫として身も心も捧げることができるのです」
「み、命……」
表情こそ慈しむような微笑みを湛えているが、命のその言葉にはこれまでに自分に向けられたことがないような真剣な響きが宿っていた。
一糸纏わぬあられもない姿だというのに淑やかさに満ちた命から告げられたその言葉は、神無の心を強く揺り動かす。
(命がここまで言ってくれてるのに、男の僕が逃げるなんてできない)
神と天巫だからというだけではなく、一人の男と女として想いを伝えてくれている命に対し、神無は決意を固めて喉を鳴らす。
その脳裏に甦るのは、初めて命と出会った夜のこと。
(そうだ。神とか天巫とか関係ない。僕は、命を見たその時から――)
月光を背に降り立った命と出会った時、神無は――一目で恋に落ちていた。
絶世の美貌に淑やかな振る舞い。そしてなにより自分を大切に想ってくれていることが伝わってくるその心遣いと気遣いに惚れない男などいるはずがない。
そして今、命はその気持ちを行動と言葉で示してくれた。これに答えないなど男の名折れだ。
「――っ、命……」
「はい、神無様」
喉を鳴らし、自分を使えるべき神としての崇慕と、一人の男としての思慕の同居する瞳で見つめている命と視線を交錯させた神無は、恐る恐るその手を伸ばす。
浴室だからというだけではない理由で上気し、ほんのりと頬を火照らせた命へ手を伸ばした神無は、その白い肩を抱き寄せようとその手を広げる。
「僕も、命のことが好きだ。一目見た時から、ずっと好きだった」
「神無様……そのようなお言葉を賜れるなど……わたくしには身に余る名誉です」
顔を赤くした神無の告白に、命は感極まった様子で声を震わせる。
その絶世の美貌は深い思慕の情に火照り、たおやかに綻ぶ目元には幸福のあまり雫が浮かんでおり、命は今天巫として女としての幸福の絶頂を極めていた。
「命」
「神無様」
互いに赤らんだ顔で視線を交錯させる二人が、その距離を縮めていき、あと少しでその影が一つになろうというところまで接近した、その時。
「そこまでよ!」
「うわぁっ!?」
突如浴室の扉が開き、険しい顔をした静利が入り込んでくると、神無は口から心臓が飛び出すような驚愕のあまりに声を上げ、命も言葉を失ってその身体を硬直させていた。
「全く、油断も隙もないわね」
今まさに抱擁を交わさんとする距離で見つめ合っている神無と命を見据える静利は、呆れたような口調で言う。
「あなたこそ、神と巫女の神事たる秘め事に割り込むなど、随分と無粋な真似をなさいますね」
今まさに想い人と結ばれようとした女の悦びを無にされた命が、淑やかで清楚な笑みを浮かべながら不機嫌さを言葉の端々に滲ませていた。
「邪神の天巫に勝手な真似をさせるわけにはいかないわ。さっさと出なさい。ここで戦うつもりはないのでしょう?」
命の実力は知っているが、自らの神として崇める神無を危険に晒すようなことをしないことも分かっている静利は、意に介さずに言う。
天伺官としての職務を全うする意思と責任感を宿した静利の眼差しを受けた命は、小さく息を吐く。
「……やむをえませんね。申し訳ありません神無様」
「あ、うん。気にしないで」
このような中途半端な状態で神無を放置することになってしまうことを詫びる命が浴室を出ると、扉を閉めた静利は、一糸纏わぬその姿を横目で見て言う。
「あらかじめ言っておくけれど、夜は私といてもらうわよ」
この場は退きさがっても、例えば就寝後に同じことをするかもしれない。――そもそもそれ以前に、神殺しの神である邪神の天巫を野放しにしておくつもりなど、天伺官として考えられないことだ。
「それは困ります。神無様にご奉仕させていただけないではありませんか」
「しなくていいのよ」
案の定、そのつもりであった命の意見など気にも留めず、静利は淡泊な声で言い切る
それと同時に視線を向けた静利の目に映ったのは、瞬き一つほどの時間でしっかりと着物を纏った命の姿だった。
命は邪神の天巫であると同時に精霊。その身は霊力によって生まれたものであり、身に纏う衣もその例外にはなく、その意思一つで自在に脱ぎ着できる。
異性はもちろんのこと、例え同性であっても肌を晒すべきではないと考える命は、早々に着物を纏っていた。
「明日は私に付き合ってもらうわよ」
「……社殿ですか」
着物を着正した命は、静利が何をしようとしているのかを正しく察して言う。
「ええ。花枕の土地神。その現状を調べに行かないと」
「そうですね。わたくしも、神無様がここにずっと閉じ込められているのを看過するわけにはまいりませんので」
この花枕の街を隔離するものを調べ、解放することは天伺官である静利にとっても、神無の天巫である命にとっても利益のあることだ。
それを理解した上で提案した静利は、予想通り命がそれを了承するのを見て取ると、淑やかに佇む邪神の巫女に視線を向ける。
「なら、一時共闘ということでいいわね? 邪神の天巫の力。当てにしているわよ」
そこに込められている静利の疑念にも動じることなく、命はどこまでも淑やかに、時間が止まるような淑やかな所作で一礼を返すのだった。