天伺官に出会う日
「こ、これは……」
目の前に並べられた料理に、神無は思わず息を呑んでいた
そこに置かれているのは、冷蔵庫の中に置かれていた食材で作られた簡単な朝食。ご飯に味噌汁、焼き魚とどこにでもある一般的なものだった。だが、そこから漂ってくる気配は別格
(なんで!? こんな普通の料理が光り輝いて見える!)
一見なんの変哲もない料理の数々。だが、それを見る神無の目には、その一品一品の料理が輝くばかりの光沢を放っている
それが神無の精神的な補正によるものが、単純に命の料理の腕前に起因するものなのかは分からないが。
「どうぞ、お召し上がりください」
「い、いただきます」
席に向かい合って座ったところで命に微笑みかけられた神無は、まるで金を手で掬うような緊張感を以ってそれを口に運ぶ
「お、おいしい……!」
それを口に入れた瞬間、口腔内に広がる豊かな味に、神無は感動に打ち震える
「ありがとうございます」
口の中から体中に染み入ってくる味と共に、天にも昇る思いを噛みしめている神無に、命はたおやかに微笑んで応じる
一口目を食べてから、まるで取りつかれように自身が作った料理を口に運ぶ神無の姿を愛おしげに見つめ、命はその目を細める
「あれは……ご家族ですか?」
微笑ましく神無を見ていた命は、次いで室内を軽く見回し、タンスの上に置かれた写真立てに目を止める
「あぁ……うん。そうだよ」
幼い頃の自分が写った写真を命の視線が捉えているのを見て、神無は小さく頷く
「拝見してもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
神無の許可を得て、写真立ての許へと歩み寄った命は、それを手に取って目を細める
「これが、神無様のご両親と妹さん……この背後に写っているのは、式神ですか?」
「そうだよ。母さんの方が〝式神使い〟だったんだって。――まあ、僕は母さんが戦ってるところ見たことないんだけど」
四人で写った写真の隅にいる小さな金毛の狐を見止めた命が訊ねると、神無は食後の満腹感と幸福感を堪能しながら応じる
式神使いとは、その名の通り自身の霊力を触媒に契約したものを使役する者のことだ。
命のような天巫に近いが、天巫が神と契約するように、式神使いは精霊などと契約する者達の事を指す
その力そのものは、神と契約している天巫には劣るものの、一柱の神としか契約できない天巫とは違い、契約さえ成立すれば何体、何十体の存在と契約できるという面で、極めて汎用性と多様性に優れていることで知られていた
「なるほど」
その説明で理解を示すと同時に写真立てをタンスの上へと戻す
「さて、と」
それを確認したところで、人心地ついた神無は腰を上げて、空になった食器を片付けようと手を伸ばす
「あ、そのままで結構ですよ。片付けもわたくしがさせていただきますから」
「え、でもそこまでしてもらうのはさすがに……」
当然のことのように言ってくれる命に、神無は申し訳なさそうに言う
しかし、皿を片付けようとする神無の手にそっと自身の指先で触れた命は、穏やかに目元を綻ばせて微笑みかける
「お願いいたします」
「……あ、はい」
切な願いを込めた瞳で真摯に訴えかけられると、神無はもはや条件反射的にそれを許諾してしまう
「ありがとうございます」
「なんか、逆なんじゃ?」
命に感謝の言葉を述べられた神無は、お礼を言う方が逆なのではないかと小首を傾げるが、当の本人は満足そうに花のような笑みを浮かべていた
「じゃあ、命さん。あとはお願いします」
若干の後ろめたさを覚えながらも、その気持ちに甘えることにした神無が告げると、それを聞いた命は、姿勢を正して言う
「神無様。度々わたくしの我儘を聞いていただいておいて、おこがましいこととは思いますが、どうかわたくしの事は命と呼び捨てになさってください。わたくしは神無様にお仕えする天巫なのですから」
ここに至るまでに、いくつも自分の願いを聞いてもらっている上でさらに願いを重ねることを申し訳なく思いながら、命はさらに一つ新しい願いを告げる
これまで命がしたお願いは、神無からすれば、むしろこちらが申し訳ないと思うことの方が多く、そこまで気にしてもらうようなものではない。
そのため、「名前で呼んでほしい」という先の願いも、願いとしてみれば実に大したことがないことと言えるだろう――異性を気軽に呼び捨てにできない年頃の青少年のシャイな気持ちを考えないのならば、だが。
「いや、でも、初対面の女の人を呼び捨てにするのはちょっと恥ずかしい」
しかし、その願いに、神無は顔を赤らめて動揺を露にする
これまでの人生で妹以外の女性を呼び捨てで読んだことがない神無は、その願いに恥ずかしさを禁じ得なかった
「神無様。こういうことは慣れです。最初からそう呼んでいただければ、それが自然になります。ですから〝命〟とお呼びください」
そんな神無の心中を見透かしているのか、命は人差し指を立てて、真面目に告げる
「えっと、み、命さん」
「命です」
半ばそれに気圧されるように告げた神無の言葉を訂正し、命はその距離が縮めてくる
手を伸ばせば簡単に触れられる距離から、吐息がかかるのではないかというほどの距離に迫ってきた命に根負けし、神無は意を決して言い放つ
「じゃあ、み……命も僕のことは呼び捨てで呼んで」
「それはできません」
せめてもの条件として、様付けを辞めてもらおうとする神無だが、命はそれを即座に否定する
「なんで?」
「わたくしは神無様の天巫です。神に対する礼を欠くことはできません。何より、お仕えすべき殿方を呼び捨てにするなど、わたくしの矜持が許さないのです」
胸に手を当て、堂々と誇らしげに言い放つ命からは、男を立てる大和撫子然とした凛気が感じられるものだった
おしとやかでありながら、確固たる意思を以って発せられたその言葉に、神無は気圧されながらも訊ねる
「どうしても?」
「どうしてもです」
打てば響くような間で返された命の言葉に、その淑然とした面差しを見た神無は、大きくため息をつく
「なんか、命って変なところで押しが強いね」
「大切なことです」
呼び方はもちろんだが、料理や片付けに固執したことを思い返して言う神無に、命は柔らかな笑みを浮かべて応じる
「はぁ、まあいいか……とりあえず、命はゆっくりしてて」
結局命に押し切られる形で、その要求の全てを呑んだ神無は、時計を一瞥して腰を浮かせる
「お出かけなのですか?」
命に問いかけられた神無は、ばつの悪そうな曖昧な笑みを浮かべて答える
「うん。ちょっと職探しにね」
榊神無は無才だ。この世界の人間なら、大なり小なり誰もが使えるはずの霊力を全く使えず、五行属性はもちろん式神を使うこともできない
そして、この世界の文明と文化はすべての人間が当たり前に使える霊力を元に形作られている
戦いと守護を生業とする天伺官は霊力での戦闘力を。街の土木なども、霊力、式神、精霊、神といった当たり前の力を用いて行われる。――要するに、それらの才能が一切ない神無には、まともな働き口がないということだった
「でも、歌恋に心配かけられないし、それに――」
自分に働き口がないことなど分かっていた。だが、働かなければ暮らしていくことは難しい
皇都へと向かった妹に頼るなど論外だし、両親の残してくれた遺産にも限りがある
何より、「お気をつけていってらっしゃいませ」と送り出してくれた命にも、男として恥ずかしいところは見せたくなかった
(なんか変だな。自分一人でもやっていけるかわからないのに、命がいると思うだけで「頑張ろう」って気になってくるや)
将来どころか、一年先のことさえ不透明だというのに、待ってくれている人がいると思うだけでやる気が湧いてくるのは不思議なものだ
だが、それも決して悪いものではない。――そう思いながら、職業斡旋所へ向かって歩を進めていた神無に、おもむろに声がかけられる
「失礼します」
「――? 僕、ですか?」
透明感のある女声で呼びかけられた突神無は、周囲に人がいないことを確認してから視線を戻す
「ええ、そうです」
小首を傾げ、確認するように訊ねた神無の視線の先には、その問いを肯定した赤みがかった髪の少女が佇んでいた
(おお、こっちも命とはタイプが違うけど美人さんだ。今日は美人に縁がある日だな)
切れ長でやや吊り上がった目が気の強さを感じさせる凛とした雰囲気の少女を見た神無は、その整った顔立ちを見て心中で感嘆の声を零していた
柔らかな面差しをした命が美人ならば、こちらの少女は美少女というべきか――いずれにしても、神無のこれまでの人生の中でも、五本の指に入る美女であるのは間違いなかった
「少々お話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい」
敬語を使った丁寧な話口調ではあるが、どこか事務的にも聞こえる淡々倒した言葉遣いにわずかに怯みながらも、神無はそれに応じる
そんな神無に一礼した少女は、懐から取り出した身分証明証を見せて、自己紹介をする
「私は、一級天伺官の火之宮静利です」
「天伺官! ……しかも一級」
自身の所属と庶務を名乗った静利に、神無は目を丸くする
国に仕え、民と暮らしを守る「天伺官」は、その役割に応じて「一級」、「二級」、「三級」に分かれている
三級は各都市などに駐留し、その街の治安を守る実働部隊。二級はそれらを束ねる管理職
そして「一級」は優れた霊力と能力を持ち、都市や担当地区を持たずに派遣される特別戦力だ
「あなたはここに長く住んでいるのですか?」
「え? まあ、そりゃあ生まれ故郷ですし」
身分証明証を懐へ戻した静利が、早速とばかりに質問すると、神無は予想外のその問いかけに疑問を覚えながら応じる
「……そうですか」
神無のその答えに考え込むような表情を見せた静利は、視線を上げて質問の続きを口にする
「では、この街に何かおかしなことはありませんか? 些細なことでも結構なのですが」
「変なこと? ……いや、特に何もないと思いますけど」
あまりに曖昧な質問に、可能な限り記憶を遡って考えてみる神無だが、特に思い当たる節もなく、素直に答える
「この花枕は、そこそこ都会で、そこそこ田舎ですからね。そんなに大きな事件とかもないですし、ここ近年大きな妖魔とかとの戦いもないはずです」
「そう、ですか」
神無の答えを聞いた静利は、形のいい柳眉を寄せて、その双眸に怜悧な光を宿す
その姿を見ていた神無は、最初に静利の正体を知ってから心中に生じていた疑問を思い切って口にする
「あの、一級の天伺官様がなんでこんな地方の街まで? 一級っていうと結構大きな事件にかかわる人ですよね。もしかして、なにかあるんですか?」
一級の天伺官といえば、妖魔や悪神、その天巫と戦う最前線にして最高の戦力。
そんな人物がこの街にいるということは、何か良くないことが起ころうとしているのではないか――そういう疑問を抱くのは当然のことだ
「それは――いえ、申し訳ありませんが、職務に関することですので」
神無のその質問に答えようと口を開きかけた静利だったが、寸前のところでそれを呑み込んでしまう
「そうですか」
だが、その答えも神無からすれば予想していた通りのものだった
一級の天伺官が関わる事案となれば、一般人にみだりに口にできるようなものではない。むしろ、先御静利が一瞬応えてくれようとしかけたことの方が意外だったといってもいいほどだ
「――では、質問を変えます。この街で顔を隠した女の人を見ませんでしたか?」
これ以上聞いても、進展はないと判断したのだろうか、先程の質問を横へ置いた静利は、そこで問いかける内容を別のものへと変える
「女の人?」
「ええ。黒い外套を着て、その下は着物のような巫女服。顔をヴェールで隠した女の人なんですが」
顔を隠しているため当然と言えば当然なのだろうが、曖昧なその外見的特徴を、可能な限り分かりやすく説明する静利の言葉に、ふと神無の脳裏につい先ほど出会ったばかりの絶世の美女の姿が思い返される
(――ん? それって……)
最初に出会った時、黒い外套を羽織り、ヴェールで顔を隠していたその人物は、振袖と巫女服を合わせた様な着物を着ていた
「命」。自分の天巫を名乗る美女を神無が思い浮かべたところで、その反応を見逃さなかった静利が詰め寄るようにして訊ねてくる
「なにかご存知なのですか?」
「え? えっと……」
分かりやすい反応を見せてしまっていたのであろう自分の事を内心で咎めつつ、神無は思案を巡らせる
(天伺官の人に嘘を吐くのはなぁ……それに、この人が探してるのが命だとも限らないし……でも、もし万が一そうだったらどうしよう)
天伺官は人々の命と暮らし、治安を守るのが仕事だ。そんな人たちに嘘を吐くのは、一般市民としてはいいことではない。場合によっては罪に問われることさえあるのだ
確かに静利が訊ねてきた人物像は、命と似ている。だが、決してそれが同じ人物であるとは限らない――とはいえ、そうではないともいえる。
(言うべきか、言わざるべきか、それが問題だ)
昨日までの自分なら、間違いなく素直に静利の質問に答えただろう
だが、家で待ってくれている命のことを考えると、どうしても踏ん切りがつかなかった
もし、静利が探している人物が命なら、もう一緒にいられなくなってしまうかもしれない
ほんの数十時間――否、数時間前の状況に戻るだけだ。しかし、命と過ごしたほんの一時間に満たない時間の中で、神無にとってその存在はもう、簡単に割り切れないほどに大きなものになってしまっていた
「あの……」
静利に視線を注がれる神無は、それだけで急かされるように感じ、懸命に思考を巡らせて口を開く
「――……」
今まさに神無が声を発しようとしたその瞬間、突如一帯の世界の空気が穢れ、醜悪な感覚が二人に襲いかかる
「な……っ!?」
「なん、だ、これ……っ!?」
まるで、空気が鉛のように重くなってしまったかのような錯覚に見舞われ、静利は驚愕に目を瞠り、顔を青褪めさせた神無は胸を掴んでその場でよろめく
「これは『瘴気』――悪神の眷属が、持つ歪んだ霊力よ。それも、相当に強い」
顔色の悪くなった神無に、柔らかな煌火の癒しと守りを施した静利は、若干その顔色が良くなったのを見て簡潔に言う
「妖魔……!」
その言葉を聞いて顔を上げた神無は、余裕のない険しい表情でしきりに周囲を窺う静利の横顔を見て、事態の深刻さを否応なく理解する
「霊力」とは、この世界にあるもの全てに宿り、世界の全てを構築する根源たる力だ。
そしてその霊力は「陰」と「陽」の二大形質に属する「木」、「火」、「土」、「金」、「水」の「五行」と呼ばれる属性に分かれている
しかし、その例外が存在する
それが「悪神」。この世界にある神に敵対し、この世界に死と破壊、滅びをもたらすこの世界の敵だ
「瘴気」と呼ばれるその霊力は、穢れて歪んでおり、生きとし生けるものと世界の毒として知られている。そしてそれは悪神の眷属である妖魔も同様であり、単純に強力な個体ほど強い瘴気を有している
「私から離れないで」
「は、はい」
そして今、一級の天伺官である静利さえもが、警戒心を露にするほどの強大な瘴気が一帯を覆っていた
即座に臨戦態勢に入った静利は「霊器解放」を発動させ、自身の霊力を武器――白鞘に収まった太刀――として、具現化させる
「そこ!」
裂帛の声と共に放たれた紅蓮の炎が空間を焼き払うと、その景色が歪んでその中から巨大な異形が姿を現す
捻じれた巨大な角に、人間の頭蓋骨のような頭部。その肉体は獣のような体毛に覆われながら、その内側から白い骨が鎧のように顔をのぞかせていた