夢と出逢う日
天を二分する黒と白の力。そして、その中に浮かぶのは大きさも形もさまざまな存在の影だった
ある者は人型、ある者は獣や龍のような姿。人間大から山のように巨大なものまで多様な存在がにらみ合うその軍勢を、第三者の位置から見据えている自分に、柔らかく心まで沁み入るような声が届く
《参りましょう。――様》
そう囁いた女性は、長い黒髪を靡かせ、薄い紅で彩られた花唇を開いて、淑やかに微笑むのだった
「っ!」
その声に呼ばれるように意識を覚醒させた神無は、見慣れた自分の部屋の天井を見上げて小さく息を吐く
(また、あの夢か……)
ここ最近毎日のように見る夢によって目覚めた神無は、小さく独白すると布団から身体を起こして、枕元に置いた時計へと視線を向ける
「まだこんな時間か……」
時計が差しているのは、まだ朝ともいえない早い時間。起きるのにはまだ早いと考えてそのまま身体を布団に横たえた神無は、もう一度まどろみに身を委ねるために瞼を閉じて目から入る情報の全てを閉ざす
つい先日、この家に暮らす唯一の肉親である妹を送り出してから、ここには神無一人しか住んでいない
元々二人でも広すぎるような家だったが、一人になった今となっては、その静寂がより寂しく感じられる
《――》
「……?」
眠るために瞼を閉じたからだろうか。視覚という大きな情報を遮断された神無の五感は、それ以外の感覚と、この世界の誰もが持つ霊力を捉える第六感――霊覚のみが残される
ある理由から神無の霊覚は常人よりもはるかに劣っているが、それでもなぜか今日はその感覚が冴えていた
《――っ》
(誰かが、僕のこと呼んでる?)
何の根拠もないというのに、なぜかそう感じられた神無は、ベッドから身体を起こすとカーテンで遮られた窓を開ける
しかし、そこに広がっていたのは、いつもと変わらない夜の花枕の光景。無数の星空の下にある街は、夜が明ける前という時間もあって静まり返っており、普段の静けさからは想像もつかないほどに静謐な空間を作り出していた
「……気のせいか」
しばし――といっても、十秒ほどだが――その光景を見ていた神無は、そこに何もないことを見て取って、窓を閉めて部屋の中へ戻ろうとする
「?」
しかし、そう思って視線を下げた神無は、ふと自分の影に別の影が落ちていることに気付いておもむろに顔を上げる
星明りだけが世界を照らしている今の時間、窓から街を見ていた神無はその光を受けていた。だが、今先程まで感じていたはずの星光がなにかによって遮られていたのだ
「え……?」
それに顔を上げた神無は、思わず言葉を失う
そこには、月光を背にして佇む女性が佇んでいた
月を背に立つその人物は、夜風に揺れる漆黒の外套に身を包んでおり、その下からは女物の振袖の着物がのぞいている
月光に照らし出されるその顔にはヴェールがかけられており、はっきりとその顔を認識することはできない
ただ、霊力で生み出したのであろう葉のような足場の上に立ち、夜の空に佇んでいるその姿は、思わず息を呑んでしまうほど幻想的な魔性の美しさに彩られていた
「あ、あの……」
突然のことに息を呑んだ神無が、ややあって躊躇いながら口を開くと、夜天に立つその女性は、無言のままその声を受け止める
確かに霊力を用いればこのように空中に立つことは不可能ではない。だが問題なのは、それをこんな時間、こんな場所で行っていること。
もしこんなところを天伺官に見つかれば、問題になってしまうことは間違いない。見知らぬ人が窓の外に立っているこの状況は、神無からしても、決していい気分がするものではなかった
「失礼いたしました」
そんな神無の声に答えるように、ヴェールの向こうからその人物のものであろう、花のように優しく、柔らかな声が発せられる
(あれ? この声……)
そして、その声を聞いた神無は、鈴を転がすようなその声音に、記憶を呼び起される様な漢学を覚えていた
その女性の口から紡がれたその声は、間違いなく最近神無が良く見る夢の中で自分に語りかけてくる女性のそれと全く同じものだったのだ
その奇妙な符号に言葉を失っていた神無の前で、その人物は外套を脱ぎ捨て、顔を隠していたヴェールをゆっくりと外してその素顔を晒す
「――!」
その瞬間、神無は時が止まる様な感覚を覚えた
腰まで届く癖のない射干玉の黒髪に、雪のように白いきめ細やかな肌。その顔立ちは、人ならざるものの手によって作られたのではないかと思えるほどに整っており、絶世、あるいは傾城傾国と呼ぶにふさわしいものだった
その美貌に抱かれる面差しは柔らかく慈愛に満ちており、見ているだけで心が洗われるように感じられる
その身に纏う白の着物は、その清楚さと清廉さを表しているようであり、随所にある緋色の縁取りが鮮やかに目に焼き付けられてくる
あまりにも完璧なほどに整っているために、まるで触れれば消えてしまうのではないかと思えるような幻想的とも神秘的とも取れるその存在は、触れることすら躊躇う神聖さと神々しさを宿していた
(うわ、とんでもない美人……この人が女神って言われても信じられる)
あまりにも整いすぎているために、どこか現実味を感じさせないその美しさは、神々しさすら漂っており、女神が降り立ったと言われても信じられるほどだった
しかも、その姿を見た瞬間から神無の目は、――否、その五感の全てと心はその女性に奪われてしまっており、うるさいほどに早鐘を打つ心臓の鼓動は、まるで歓喜に踊り狂っているかの様だった
「ようやく……」
心を奪われ、言葉さえ発することができずに佇んでいた神無の前で、その絶世の美女が感極まった声で言葉を紡ぐ
「ようやくお会いできました」
「えぇ!?」
その言葉と共に、月の光に照らされて宝石のように輝く涙が美女の眦から一筋流れるのを見た神無は、思わず狼狽して声を上げてしまう
突然の涙に困惑し、平静でいられなくなっている神無を見据える黒髪の美女は、白魚のような細い指でそっとその雫を拭うと、たおやかに微笑む
「ここでお話するのもなんですし、大変不躾なお願いではあるかと存じますが、よろしければ中に入れていただいてよろしいでしょうか?」
「あ、はい。どうぞ」
現実実がないほどに整った淑然とした美貌を持つ女性に微笑みかけられた神無は、半ば熱に浮かされるような感覚で、その申し出を受け入れてしまう
「失礼いたします」
神無が数歩後ろに下がったのを確認し、礼儀正しく室内へと足を踏み入れた絶世の美女は、それと同時にその場で膝を折り、三つ指を付いて深々と頭を下げる
「お初にお目にかかります。わたくしは、『命』と申します」
目を奪われる様な美しい所作で丁寧に名乗った黒髪の美女――「命」は、突然のことに呆気に取られている神無を見上げて、澄んだその瞳で見つめる
「――〝我が神〟よ」
「え?」
淑やかな声音を紡いで発せられた命の言葉を受けた神無は、その意味を掴みあぐねて素っ頓狂な声を漏らしてしまう
「失礼いたしました。本願が叶った喜びに、つい我を忘れてしまいました」
それを見た命は、何かを察したかのように理解の色が灯った表情を浮かべると、正座したまま神無を見上げて微笑む
「は、はぁ……?」
花が綻ぶような可憐なその笑みに心奪われ、顔を赤らめている神無を見上げる命は、微笑みをたたえたままで話を続ける
「よろしければ、あなた様のお名前をお教え願えませんか?」
「神無です。榊神無」
その心根を表しているような優しく柔らかな声音で命に問いかけられた神無は、求められるままに名乗る
「神無様ですね」
緊張を隠しきれない声音で名乗ったその名を受けた命は、それを噛みしめるようにして、言葉に変える
「さ、様付けされるのはちょっと」
まるで宝物を抱くように名を呼ばれた神無は、それだけで心臓が止まる様な高鳴りに照れてしまう
名前を呼ばれるだけで心を鷲掴みにされたような感覚を覚えながらも、神無はもっと砕けた関係を要求する
「では神無様」
「聞いて?」
しかし、そんな神無の要求は受け入れられず、命は何故か最上級の敬意――崇敬にさえも似た念を込めた様子で語りかけてくる
「ご不快でしょうか?」
「いや、でも僕は様付で呼ばれる様な人間じゃないし……」
形の整った柳眉が顰められ、物悲しげな視線を向けられると、神無の胸に剣で貫かれる様な罪悪感を覚えてしまう
「そのようなことはございません。神無様はわたくしにとって、最上級の敬意を以って接するべきお方です」
「はあ……?」
しかし、微笑をたたえたまま真剣な眼差しで断言する命の言葉に、神無は気の抜けたような返事を返すしかできなかった
ここまで命と話していた神無は、ある一つのことに気付いていた
確かに命は、信じられないほどの美人だが、相対して感じられる息を呑むような美しさと神々しいほどの荘厳さは、現実離れして整った外見よりもその内側から滲みだすものがそう感じさせているのだ、と。
「まあいいや。とりあえず話を進めてくれる?」
このままでは話が進まないと判断した神無がそう言って促すと、命は「はい」とたおやかに微笑んで頷き、中断していた話を進める
「わたくしは、あなた様の天巫――即ち、神無様だけの巫女です」
「僕の?」
あらためて自分を神と仰ぐ命の言葉に、神無は眉をひそめて怪訝な表情を浮かべる
天巫とは、神と契約してその能力と力の一端を使うことを許された存在。だが、神と人は全く違う存在だ
確かに人の形をした神は存在する。だが、だからといって、神と人間が等しくなることはない。――故に、人間である神無が神であることは絶対にありえないのだ
そんな神無の疑問にも、命の花顔には微塵も揺るがぬ崇敬の念が籠ったままだった
「はい。遥か遠い昔、わたくしがお仕えしていた神は、神々との戦の後、深く長い眠りにつかれました
その神が長い眠りを経て、今こうしてこの世に甦った姿こそが、神無様なのです」
そして、そんな神無の疑問に答えるように、命はその理由を端的に答える
「えっと、僕が……?」
「はい」
その言葉自体はあまり信じられないものだったが、絶世の美女に頬を赤らめて言われれば、神無も健全な青少年として心動かされずにはいられない
さらに、命の真剣な口調は嘘を言っているとも、からかっているとも思えず、無下に扱うことなどできなかった
「実際に見ていただいた方が早いかもしれませんね」
そんな神無の反応から、半信半疑であることを察したらしい命は、そう言ってゆっくりと立ち上がる
「失礼ですが、神無様は霊力を満足に使うことができないのではありませんか?」
「――っ! なんで、それを……」
おもむろに紡がれた命の言葉に、神無は思わず目を瞠る
命が言うように、神無は幼い頃から霊力を満足に扱うことができなかった。
霊力の強さや属性、総量などは生来のもので、個人差こそあるが、全ての人間――それこそ、物心ついた子供でもできる
だが、人間が歩くように、あるいは呼吸するように当たり前に使えるはずの霊力が、神無にはなぜか使えなかった。
どれほど苦心しても霊力を扱うことができず、五行属性のいずれにも適性がない。――天才ともてはやされた妹の存在もあって、神無は幼い頃から肩身の狭い思いをして生きてきたのだ
「やはりそうでしたか。神無様は、そのお身体こそ人間のものですが、存在の本質は神ですから、そもそも力の性質が違うのです」
初対面であるにも関わらず、自分の秘密――できれば知られたくないものを見抜かれた神無が沈痛な面差しを浮かべている中、命はたおやかな表情を声音で諭すように語りかける
そう告げるなり、命はその両掌を自分の前でそっと合わせて、霊力を巡らせていく
天巫である命は、神の力を借り受けることができるのと同様に、神に対して祈りを捧げることである程度、神を操ることができる
操るという言い方には語弊があるが、要は天巫の側から神に願い奉ることによって、ある程度その行動などに自身の意思を反映してもらうことができるのだ
天巫としての能力を用いるため、霊力を巡らせた命は、清廉な吐息を吐き出すと、神無に微笑みかける
「どうぞ、何か霊力をお使いになってみてください」
(いや、命さんが何でそんな勘違いしているかは知らないけど、僕は神じゃないんだからそんなことで霊力が使えるようになるわけないじゃないか)
そう言って微笑みかけてくる命に、一瞬躊躇った神無だったが、自分に向けられるその無垢な瞳を傷つけることなどできるはずもなく、言われるままに意識を集中させる
霊力が使えないからこそ、神無はなんとか霊力を使おうと、霊力とその使い方に関して勉強した
霊力とは魂の力。その力を制御し、形にするのは、精神力――即ち、意思の力だ
霊力を使えるようになるために勉強した記憶を呼び起こしながら、神無は自分の中に在るはずの力へと呼びかける
瞬間、神無の手の平に小さな炎が灯った
「!」
自身の手の平に生じた炎に、神無は心臓が止まる様な驚きを覚えていた
(こんな、簡単に――!)
これまで、何をしても全く感じることさえできなかった霊力の片鱗を、自分を神と呼び、巫女と名乗る美女が祈っただけで実現したのだ。
その衝撃は、とても言葉で言い表すことのできないものだった
「信じていただけましたか?」
あまりの事態に呆気に取られていた神無は、先程までと何ら変わらない清楚で淑やかな笑みを向けてくる命に、何も言い返すことはできなかった
他人の霊力を操ることはできない。故に、命が自分に成り代わって霊力を使った可能性は皆無だ。
つまり、神無は今起きたことをただ信じるしかない。だが、信じるしかないことと信じていることは決して同義ではない。神無はまだ命が言ったこと――自分が神だということを認められなかった
「……それで、僕にどうしろっていうの?」
命の問いかけに、小さな炎を灯した掌を見据える神無は、唇を引き結んで一通り思案を巡らせてから、ようやくその一言を絞り出す
自分のことを神だと言う命が、自分に何を求めているのか――ここに来て、ようやくその単純な疑問に思い至った神無が問いかける
「もちろん、わたくしの願いはただ一つです――」
激しい困惑と混乱しながら問いかけてくる神無の視線と言葉に、その楚々とした佇まいを崩さずに応じた命は、恭しく一礼して答える
「わたくしを、あなたのお傍においてくださいませ」
「……え?」
花弁を思わせる命の花唇から紡がれた言葉に、神無は思わず硬直する
「わたくしは神無様の天巫です。ですから、神無様のお傍以外に、居場所も行くところもございません
天巫とは神にその身と心を捧げる者。不束で至らぬ身ではございますが、誠心誠意お仕えさせていただく所存ですので、どうかお聞き入れいただけますよう、宜しくお願い致します」
予想だにしない言葉に呆けた顔を見せる神無に、命は当然のように最上級の敬意を払って言う
「え、っと……」
(傍に置く? つまり、ここで暮らしたい的な意味だよね? それって同居? 居候? さすがにそれは、人道的に問題があるんじゃ)
返す言葉を見つけられずに言葉を濁していると、命は不安そうに柳眉を顰め、悲しげな表情を浮かべる
「だめ、でしょうか?」
今日会ったばかりの関係で、一つ屋根の下に異性と暮らすことへの戸惑いといった一般常識に照らして、戸惑っていた神無だったが、命に祈る様な視線を向けられてしまえば、強く拒絶の言葉を述べることはできなかった
「ま、まあ、いい、けど……」
結果、神無の口からは、それを承諾する言葉が発せられてしまう
「ありがとうございます」
それを聞くなり、安堵の表情を浮かべた命が、その絶世の美貌に多幸感に満ちた微笑を浮かべると、神無は心臓が止まる様な感覚に見舞われる
(綺麗だ……)
身体が熱くなり、何もしていないのに早鐘を打つ心臓の音。その姿に目も心も奪われている神無は、夢現の中にいるような感覚の中で自分が、命に完全に惚れてしまっていることを自覚せざるを得なかった
(うん。こんな美人と暮らせるんだから、僕が神とか、もうどうでもいいや)
命の話はにわかには信じ難い。だが、こんな――言葉で言い表せないような美人と暮らせる機会など、これを逃せば一生訪れないだろう
ならば、もはや何も迷うことはない。据え膳食わぬは男の恥。毒を食らわば皿まで。――仮に命に何か思惑があったとしても、健全な青少年としては、十分に等価以上の対価となる
「……夜が明けてきましたね」
そうして命に見惚れていると、神無の視界に映る黒髪の巫女は、窓の外が白んできたのを見て取って目を細める
「本当だ」
夜風に遊ばれる黒髪を白い指でそっと抑える仕草に、胸をときめかせつつも、その言葉で我に返った神無は、命の背後で開いたままになっている空へと視線を向けて頷く
「では、ご家族の方にご挨拶をさせていただきたいのですが……」
「ああ、今僕一人暮らしだから」
恐縮しながら言った命に、神無は自分が一人暮らしであることを告げる
「そうなのですか?」
「うん。両親は二人とも天伺官だったから、妹が生まれた頃に現れた妖魔からこの街を守るために出かけて行って帰ってこなかったんだ。
それからは妹と二人で暮らしてたんだけど、ついこの間皇都に天伺官になりに行ったよ。だから、この家には今僕しか住んでない」
ここに、今自分だけが住んでいる理由を淡々と述べる神無の言葉を聞いた命は、その白い頬をほんのりと赤らめて、細い十本の指先を軽く絡める
「ということは、ここには、神無様とわたくしの二人だけということですか……?」
艶やかな唇を引き結び、視線を伏せながら恥じらう命の姿を心に焼き付けて、神無は目を細める
(そういう反応されると困るんだけど……超綺麗だなぁ)
もはや警戒心など脳裏の果てに捨てた神無が見つめていると、それに気づいたのか命がおもむろに話を切り出す
「あの、よろしければ、ご朝食を用意させていただきたいのですが」
「え、でも……」
恥らいを隠す意味も含まれているのだろうが、突然切り出されたその提案に、神無は戸惑いを露にする
いかに客人だとはいえ、そこまでしてもらうのは申し訳ないと思っている神無の考えを先読みしたかのように、命が言葉を続ける
「自分で言うのも憚られますが、わたくしはお料理が比較的得意なのです。……お口に合うかは分かりませんが」
(ここまで言ってくれてるのに、断るのは悪いかな)
恥じらいに頬を染め、かしこまりながら謙遜混じりに言う命に、神無は恐縮しながらも甘えることにする
「えっと……じゃあ、お願いします」
「はい。お任せください」
特に料理ができる方でもないため、作ってくれると言うならありがたいというのが、神無の本音だった
まるで恋人が手作り料理を作ってくれているようだ、などと心の中で浮かれながら、神無は命を台所へと案内するのだった